【信じようと、信じまいと】『船内に突然現れる』など全50話【26】ロア – 噂話集 – 嘘のような本当の話

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【信じようと、信じまいと】『船内に突然現れる』など全50話【26】ロア - 噂話集 - 嘘のような本当の話 信じようと信じまいと
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信じようと、信じまいと【26】全50話  ロア – 噂話

 

旧ソビエト時代から東欧の宇宙飛行士の間で「影」と呼ばれているものがある。
それと頻繁に遭遇し報告していたある宇宙飛行士は、1987年に帰還した週間後に自宅で変死していた。
彼女の身体は内臓だけが真空に曝されたようにミイラ化していた。
それは淡く黄色い影のようで人の形をしており、船内に突然現れるのだという。

 

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ヨーロッパの漫画家のトゥルーガーはカルト的な人気を誇る人気漫画家であった。だがある年からトゥルーガー氏は掲載雑誌の連載をたびたび落とすことが多くなるが、ファンの応援もあってか一年後完全復活を果たす。しかし自宅にて彼の白骨死体が発見され、死因は病死だが
死後一経っていた。空白の一年間の間、彼のスタッフが作品を描いていたというが、作品のネームだけが彼から送られてきていたため、誰も彼の死に気付かなかった。ネームはスタッフ全員が最低一度は必ず受け取ったことがあり、誰からの物なのかは判明しないままであった。

 

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スイスの山麓沿いを通る線路。この線路のとある区域に奇妙な踏切があり、
それというのも何も通らないのにもかかわらず、希に警鐘が鳴り、踏切が閉じるという。
付近住民は故障か誤作動か何かかと思い、それほど気にしていなかったが、山麓から迷い下りてきた
シカの群れがその踏切付近で「電車ではない何か」に轢かれたのを見たという情報も寄せられている。

 

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猫は不思議な動物である。
最近の研究によってゴロゴロという声には怪我を治療する効果がある事が発見された。
だが、このゴロゴロという音、喉の辺りから出しているという事は解っているが
どの器官がどのように作用して鳴っているかは現代科学でも未だ不明である。

 

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1968年6月5日、アメリカのニューイングランドの自動車整備工、
ハーバート・ホーンが自宅の大きな鏡の前で死亡しているのを家
族が発見した。死因は窒息によるものとみられたが首には絞めら
れた跡のようなものは残されておらず、さらに奇妙なことにハー
バート・ホーンが身につけていたもの全て、衣服の合わせから、
財布の中の運転免許証や紙幣に至るありとあらゆるものが全て通
常のものとは左右反転していたことであった。死体と遺留品は全
てFBIの科学捜査班に送られ検査された結果、驚くべきことが判明
した。ハーバート・ホーンの所持品はおろか、彼自身を構成する
分子構造が全てキラル(鏡像異性体)化していたのである。窒息
死の原因は、キラル化したハーバートの血液中のヘモグロビンが、
通常の構造を持つ酸素と結合できなかった為と推測された。FBIは
何らしかの要因でハーバートと彼の所持品が突如キラル化したと
考えたが、その原因は懸命の調査にも関わらず解明されることは
なかった。

 

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「仙人滝」と呼ばれる場所が高尾山にある。修験者が滝に打たれ修行をする場所なのだが時々忽然と、滝に打たれていた修験者が消えてしまう事がある。
修験者達曰く、それは「仙人になった」ということらしい。
そして高尾山では時々雲に乗った人間が目撃されている。

 

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ベオグラード近郊、サヴァ川に12世紀から架かっている大きな石橋がある。
NATOのユーゴ空爆の際には爆弾の直撃にも耐え、現在ではちょっとした観光名所となっているとか。
この石橋を世界遺産に登録すべく、学術的調査に乗り出したところ、意外な研究結果が得られた。
「設計に明らかな致命的ミスがあり、どう考えても架橋した瞬間に崩れ落ちる」

 

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ある夜の六本木、西ドイツ連邦軍の某高官と、某自衛隊幹部が仲良く痛飲していた。
酔いの回った自衛官氏、「次はイタリア抜きでやろうぜ」と、お約束のジョークを飛ばした。
すると西独の高官氏、大笑しながら「何言ってんだ、今やってるだろ、アメリカを手伝って」。
……時に、1969年の春の出来事だったという。

 

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1808年、ベルギーの探検家がソンガイ王国の遺構から、不思議な小片を発見した。
その500年ほど前のものらしき歪な板状の物質は、質の悪い翡翠のように透明で、妙に軽いものだったという。
当時はパリ科学アカデミーすら解明し得なかったその板の素材が判明したのは、1963年のこと。
分析した結果、それは99.99%の確率で───「プラスチック」。

 

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ガブリエル・アグボンラホールというイングランド人のサッカー選手がいるが、この姓はかなりの珍姓。
このAgbonlahorという姓は、13世紀のイングランド貴族にその端を発する由緒正しい苗字で、
当時のウェールズ征服の際に戦功を上げた勇士に、エドワード2世王が授けた苗字なのだそうだ。
だが2006年現在、世界中のAgbonlahor姓の人間は、一人残らず黒人である。

 

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果物の琵琶(びわ)を英語でloquatと言うが、この語源は15世紀のフランスの貴族、
ロキュート伯アントワーヌに由来しているそうである……が、ロキュート伯爵家の紋章に
描かれている植物は「柊」であり、また、彼の領地に琵琶の木があった痕跡は一切見つかっていない。
何故、ロキュート伯の姓が「琵琶」の呼び名になったのか、現在のところ一切不明である。

 

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1968年、アメリカである男がジプシーの老人から「究極のやせ薬」を譲り受けた。
寄生虫の卵だというそれを飲んだ晩から男は猛烈な空腹を訴えるようになり、昼夜を問わず食べ続け太り続けた。
やがて男は一月後に急死し、その死体を解剖した結果、しかし体内からは寄生虫は一匹も発見されなかった。
太りすぎて自力で歩くことも出来なくなった男。その死因は栄養失調だった。

 

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1970年代、イギリスに「カール・スチュワート」という人物が司会のラジオ番組があった。
しかし放送は毎週どこからか送られるテープを流すもので、誰も彼の姿を見たことがなかった。
一度、放送局が八方手を尽くして彼の素性を調査したことがある。
しかし結局わかったのは、第二次大戦中に同姓同名の男が戦死しているということだけだった。

 

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彼は鏡台の上の棚にある箱を取ろうと右腕を伸ばした。
ふと鏡を見ると、そこに映った自分は左腕を上げていた。
一瞬その顔が「やばい」というような表情をした。
気が付くと鏡には右腕を上げた自分が映っていた。

 

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ある家の蔵から古めかしいカメラが出てきた。
試しにダメ元でフィルムを入れるとちゃんと撮影できたので、その家の父親が家族を撮影した。
後日、現像された写真の一枚を見た家族は背筋が寒くなった。
そこには家族と共に父親の姿も写っていた。

 

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1993年夏の朝、北九州市のとある高校で、プールの水が虹色に濁っているのを体育教師が発見した。
油を混ぜたように濁った水を見て、体育教師は他の教員に相談しようと、職員室に皆を呼びに行った。
しかし、彼らが確認の為にプールに戻ってくると、水は元通りの透明な色に戻っていたのだ。
「プールの水の色は戻っていました。その代わり、『色』だけが靄のようになってプールサイドを這いずっていたんです」と、教員は後に語っている。

 

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故星新一著「つねならぬ話」という本があります。
その中に「ささやかれた話」という短編集があり、これはたぶん「ロア」と関係があると思うので最後の章だけ紹介します。
「話」
そりゃあほかにも説明のしようはあるけどね。
こんなことを私は信じないのだが、二月九日の夜、なにかが私に乗り移った。これらの話が、三時間半ほどのあいだに、頭のなかに語られた。内部から湧くという感じではない。はじめての体験だから、乗り移られたと断言はしない。
作家生活は長いが、苦しまずにアイデアがひらめくなど、年に一作あるかないかだ。この十四枚のメモは、つぎの日になっても、書斎の机の上に残っていた。
順序は、そのまま。私なりの文章になったのは、いたしかたあるまい。そういえば、話として伝わってきたので、文章としてではない。
記録されてない民話を、浮遊霊が私にささやいたのだろうか。人を見る目があったな。風俗、ノンフィクション、スパイ物の作家だったら、書いてはくれなかったろう。
出来あがりがお気に召したら、また来てくれるかな。あまり仲よくなるもの、考えものかな。じつはね、物故作家の遺作って、ほとんどそれなのかも……。
なお、類似の話をすでにお読みのかたは、書名、題名をあげ、この出版社あてに、お手紙を下さい。

 

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昔の話。ある男が道を歩いていると、黒い犬が近寄ってきた。
博打で負けたばかりで気分の悪かった男は、憂さ晴らしにその犬を蹴ってしまった。
翌日、庭で遊んでいたその男の子供が縁側から落ちて怪我をした。
突然飛んで来た黒い蝶に驚いて落ちたのだという。

 

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昔の話。ある宿場町に住む者が宿下がりする際に絶対開けて見てはいけないと言われて文箱をもらった。
それから数十年がたち、家人がある時その箱を好奇心から開けてしまった。
開けた瞬間に箱の中から風が吹き、それと共になにか「管」のようなものが飛び出し、すごい勢いで外に出て行った。
その年、その町で原因不明の病が流行り多くの人が命を落とした。箱の中に入っていたものはなんだったのだろうか?

 

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昔の話。栃木のある神社にある御神木には何か住んでいると言われていた。
ある時、神社が火事になり、御神木にも火が燃え移ってしまった。
すると、御神木から悲惨で無気味な悲鳴が響いた。悲鳴は三日三晩続き、火が消えた四日目に止んだ。
御神木の燃え跡を確認してみると、そこにはばらばらの蛇の骨があった。

 

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山西という男は昼の時間、町中で友人に電話をしていた。
しばらく後、突然、電話は急にぷつんと切れ、代わりにお経が聞こえてきたそうだ。
周りを見渡して見ると何故か夜、携帯の日付を見ると1日戻っていた。
ついでに、翌日また同じところで電話をしていたらまた同じ体験をしたそうだ。

 

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とある丘の上に小さな神社がある。
山間の町なので雷が多く、狙ったようにご神木に落ちる。
雷に打たれご神木が燃えるたびに、新しいご神木を決める。
毎年のようにご神木が変わるのに、雷は狙ってご神木に落ちる。

 

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四人の男女の大学生が、連休を利用して観光で箱根のとある山に登った。四人は写真を撮るなり楽しんでいたが、
その一枚に不可解な物があった。唯一四人全員で映っている写真なのだが、背後の風景がどう考えても日本の山の風景でない。
たまたま通りかかったごく普通の老夫婦にシャッターを切ってもらったことは皆記憶しているのだが、風景には誰も見覚えがないという。
その後山に詳しい友人に見せると即座に友人は「この休みに北ヨーロッパまで行ったんだね、うらやましいよ」と言い放ったという。
1972年、イギリスのテレビクルーが南アフリカの原住民の村を取材した。その村の祠には、80年前に書かれた予言の書があるといわれ、テレビクルーは村長に見るなと言われていたのに、夜中になってその祠を開けて、保管されていた書物を開いて写真で撮影した。
帰国して写真を現像すると、見たこともない言語で文字で三行詩が書かれていたが、専門家に頼んで解読してもらった。
1行目には「第一次 1914年」、2行目には「第二次 1939年」と書かれていたが、3行目は薄汚れて解読できなかった。

 

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1799年7月15日ナポレオン率いるフランス軍は遠征先でロゼッタストーンを発見。
現在はイギリス大英博物館に保存されているがその石には後から切り取られた痕跡があり
石が発掘された付近の遺跡にはどの文化圏にも見られず解読が全く出来ない文字と
現在では見られない奇妙な生物が描かれた壁画があるという。

 

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1880年代初頭、とある宮廷に招かれた初の日本人外交官の名は猿田修。
彼を「歓待」するべく舞踏会が開かれ、国で最も踊りの上手い令嬢と最高の楽隊が用意された。
彼、ひいては東の辺境を翻弄せんと指揮者は曲に無茶苦茶な緩急をつけ、令嬢は冷笑を浮かべてステップのリズムを上げた。
しかし猿田は平然と踊り続けた。ソリストの指が限界を迎え曲を終わらせるまで。その曲の名は―
チャールダーシュ
猿 田 修

 

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2004年12月20日未明、埼玉県秩父の山中でとあるホラーゲームのCM撮影を行っている最中に3人の男性エキストラがカメラの前から忽然と消えてしまった。
方々探し回ったが見つからず、カメラを再生してみると、3人はリハーサルとは違うタイミングで驚愕した表情をした直後に消えていた。
CM撮影は中止されたが年が明けた1月15日未明に、神奈川県の山下公園で男性の一人が保護された。彼は精神に異常をきたし、話せる状態ではなかった。
そして1週間後に、原因不明の死を迎えた。その1月15日、横浜方面に住む人々から各新聞社に「UFOを見た」との連絡が数件あったが

 

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青森県内に「来訪者の坑」と呼ばれる洞窟がある。室町時代の頃にその穴から異人が現れて
様々な知恵を村人に授けたことからその名が付けられた。
1994年11月、オーストラリアのジャーナリストがその話を知り、洞窟に入り込んだが、その後、彼の姿を見た者はいない。
坑は翌月の三陸はるか沖地震で塞がってしまい、今では出入りはできなくなっている。

 

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不幸の手紙を受け取った少年がいた。少年は内容に従い、小学校の名簿を見て5人の相手に同じ文面の手紙を送った。その二週間後、再び少年の元に
不幸の手紙が3通届いた。少年は15人に手紙を送った。さらに二週間後、20通の手紙が送られてきた。これ以上書きたくなかった少年は
クラスメイトたちに不幸の手紙を送ったことを正直に話し謝った。話を聞いたクラスメイトたちは顔を見合わせ、誰もそんな手紙を受け取っていないと言った。
少年は手紙をどこに送ったのか、そして誰が少年に手紙を送ったのか

 

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1990年1月、テレビ局が放映した番組に奇妙なモノが映った。明らかに人が立つことなどできない場所に男が立っていたのである。
テレビ局に大量の電話がかかってきたが、放送局はその事実を公表せず、またマスコミ各機関もその件に関して一切報道しなかった。
のちに様々な幽霊番組や恐怖本などが出たが、どこにもその事実が公開されることなど無く、その事実は闇に葬られた。
なぜこの件に関して報道規制が敷かれたのか。その真実すらも分からないままになっている。

 

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1970年代のイタリアに、テニスボールを何も使わずに一瞬にして裏返すことのできる少年がいた。少年は手の上でボールを弾けるような音をさせて
裏返しにしてしまうことができた。ある日TVクルーが「他に裏返すことのできる物はないの?」と訊くと、「ある」と答えて数度地面を叩いて見せた。
その直後、少年はクルーの前から消滅した。少年はどこにも見つからなかった。
取材陣の一人が「少年は裏返すことに成功したから、あっちの世界に一人でいるんじゃないのか?」と呟いたが、誰にも真実は分からなかった。

 

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三行詩には後日談がある。この話を知った同局の取材班はその文字をその場で解読するために今度は大学教授を連れて現地へ赴いた。
今度は話し合いで中身を見せてもらうことになった。祠から取り出し教授はさっそく解読を始め、終わったと思われる直後、教授は突然笑いだし、
持っていたナイフを喉に刺して自殺した。その後、二度と三行詩の最後の詩を解読できないように、書物は原住民の手によって焼き捨てられた。
三行目に書かれていた年代がいつのことなのか、もう誰も知ることはできなくなった。

 

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1983年6月17日 兵庫県で奇妙な死亡事故が起こった。
部屋の箪笥と箪笥の合間に顔を挟まれたのだという。
家人によると、隙間から声がしたので覗いたところ、ずるりと顔が引きずり込まれたらしい。
死因は頭蓋骨骨折だったが損傷がひどく、遺体の頭部は幅3cmまで圧縮されていた。

 

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1936年12月14日、カナダ北部・アルバータ州で隕石が落下した。
比較的大きなもので、内部からは厚みのある金属板のようなものがみつかった。
その表面には、平仮名に酷似した文字が数行刻まれていたが、解読はできなかった。

 

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山登りをしていたある男性が崖から転落し、そのまま遭難してしまった
生存は絶望視されていたが彼は数日後、意識不明のまま奇跡的にも生きていた
彼の体には応急手当がされており、さらに彼の胃の中に大量の貝殻があることがわかった
誰が彼を助け、なぜ助けを呼びに行かなかったのかは不明のままである

 

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ユタ州のノイマン氏は長年務めた会社から解雇され、離婚され、住む場所も娘も妻に奪われ、ついでに財布を落とし、絶望していた。
様々な方法で自殺を図ってみたが、失敗が続いてどうも上手くいかない。そこで彼はヒッチハイクでフィラデルフィアまで訪れ、
以前TVで紹介していた「願掛け井戸」に投げ込むお金を稼ぐためバイトを始めた。そして手にした給料を全ての井戸に投げ込むと
「どうか死ねますように!」と叫んで井戸の中へと身を投げた。願いが通じたのだろう、バイタリティに満ちた自殺は見事に成功した。

 

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CIAが超能力を真面目に研究し、それを軍事転用できないかと本気で考えていた1985年頃の話。
未来予知や予言が出来る超能力者に「100年後の最新兵器の設計図」を「透視」させる実験が行なわれた。
厳選に厳選を重ねて集められた12人の超能力者に(互いの能力が影響しないよう)個別に透視させた結果───
12人全員が「石弓」の設計図を描いたそうである。

 

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1998年、カナダのユーコン準州イエローナイフで自動車の正面衝突事故が発生した。
不幸な事に双方の運転手は死亡。両者ともシートベルトをしていなかったため、衝撃で外に放り出されたのである。
しかし両者の頭部が激しく損壊しており、これは事故とは別の原因によってできた傷であるという検死結果だった。
車が衝突した瞬間、フロントガラスを破って放り出された2人は、運の悪いことに頭部同士も衝突し……死亡したのである。

 

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1912年4月14日未明、ロンドンの街を時計台守の老人が、
霧の中から巨大な船が浮かび上がり、無数の光をまとって天へと昇っていくのを目撃した。
翌日老人はロンドン中の新聞社に「ネバーランドからフックの船が帰ってきた!」と教えてやったが、
残念なことにロンドン中の新聞社は、タイタニック号沈没の記事を書くのに手一杯だった。

 

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都心でタヌキが目撃されているという話は時折耳にするが、
最近80cm程の猿のような生き物が都心各所で目撃されている。
ビルの隙間でゴミをあさったり、排水溝の金網の下などにいたりするらしいが
目を合わせるとするりと逃げてしまうので未だに写真などは無い。

 

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19世紀初頭のロンドンで、雨男(rain man)というのが話題になった。
ポツポツと降っていた雨脚が不意にザァっと強くなり、
慌てて傘をさそうとするとあっという間にまた小降りに戻っている。
可笑しいと思い前方に目をやると、半径1m程の土砂降りが石畳を移動していくのが見えたそうだ。

 

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山梨の田舎で、少し前まで「傘バス」と呼ばれるバスが通っていた。
普段乗るバスと見た目も時間も変わらないが、車中には大量の傘が用意してある。
乗客達はその傘の中から、かつて自分がバスの車内に置き忘れた一本をいつも見つけ出す。
その「傘バス」が走る日は予報にない雨が必ず降り出すのだが、その日の朝の乗客は決して雨には濡れないと言う。
ばーちゃんから

 

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戦時中、とある田舎での話。寺の本堂で子供達が勉強していると、空襲警報が鳴り響いた。
防空壕までは遠く、間に合いそうもない。しかし仏前のお供え物がしてある卓があったため、その下に全員が
隠れる事ができた。やがて敵機が去り、子供達は卓の下から出てくると、そこで初めて気が付いた。
とっさの事で気付かなかったが、卓は小さく、とても子供達全員が隠れる事は出来ない大きさだったのである。

 

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1712年、カリブ海に浮かぶサント・ドミンゴ島の入植者の村で、「消えない虹」が観測された。
その虹は嵐の過ぎ去った春の日の午後に沖合いに現れ、ひと月に渡って全く動くことなく同じ場所にあった。
虹が出現していた間、海は凪ぎ、魚の影が消え、漁師は恐れて漁に出ることができなかった。
村の神父が残した記録によれば、その年、村で生まれた赤ん坊はみんな女の子だったと言う。

 

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有垣という鎌倉末頃の下級武家の日記に、2枚の布が家宝として受け継がれていたという記述がある。
記されている寸法は、一方はおおよそ二尺八寸×四尺、もう一方は三尺四寸×五尺ほどとのこと。
用途は解らず、模様も白地に太い筆で、何かの記号と大きな丸が書いてあっただけであったらしい。
だが最近、その二枚の布のそれぞれには「A0」「B0」と書かれていたのではないかという説が出始めている。

 

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1982年の夏、シドニー郊外にアパートを借りたアルマという若者が、壁に1㎝ほどの穴が開いているのを発見した。
覗くと闇の中に、何かが沢山蠢いている。彼は明くる日殺鼠剤を買ってくるなり、穴に放出した。
一方遙か彼方のオランダの公立図書館で謎の気体による集団中毒が発生し、騒動になった。中毒性はあるが
殺傷性が低いため幸い死者はなかったが目撃者の話によると、天井の通風口の様な1m程の穴から突如大きな管が現れ、ガスを放出していったという。

 

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盲目の人は、耳が非常に良い事が多い事は知られている。
しかし、一人の盲目の男が、異常聴覚とも言える程に
耳が発達し、となりの家が火事になった時、住民の焼け死ぬ
悲鳴が聞こえてしまい、その声が耳から離れずに自殺した事は知られていない。

 

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あちこちのデパートで売っているオマケ人形付お菓子。コレクションする人もそうそう少なくは
無いはずだが、そのお菓子のオマケの中に、「絶対に全種類集めてはならない」シリーズがあるという。
余談ではあるが、最近秋葉原で次々にフィギュアやお菓子のオマケをコレクションしているフィギュア
コレクターが行方不明になっている。あなたは、知らず知らずの内に集めてはいないだろうか?

 

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最近秋葉原で、アキバ系オタク、アキバ系ファッションの人物を緻密に再現したオマケ人形菓子が売られている。
その精巧さは息を呑むほどで、まるで毛の一本一本まで作られているようだという。

 

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1992年の秋深い頃、東京都、葛飾区のとあるスーパーに強盗が入った。
被害は30万円以上にのぼり、警察による捜査が始まった。
翌日、犯人は何故か真っ青な顔で怯えるように出頭してきたそうだ。
余談だが、犯人に出頭の理由を尋ねると、「札の肖像画が…もう嫌だ!」

 

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ある中東の砂漠。出張で来ていた欧米人が出社中に砂嵐に会い遭難した。
彼は二日間車内で救助を待った後その場を離れ二度と帰ってこなかった。
後日彼の車と一緒に、遭難から出発までの経緯と家族への伝言を残したメモが発見されたが
メモから察するに彼は去った方向の真逆に向かえば5kmで幹線道路にぶちあたっていた。
1924年7月24日、当時中東を警備していた英軍がアラブ人の武装蜂起発生の報に二人乗り単発機による
偵察飛行をおこなった。予定時間を過ぎても帰還しないため捜索した結果、広大な砂漠の中に無傷で
まだ燃料も残っている単発機が発見された。 飛行機からは二人の足跡が伸びておりどこかへ行こうとした
形跡があったが40メートルほどのところでぷっつりと途切れていた。 そこで二人は消え失せてしまった。

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