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特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙

特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙 泣ける話
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特攻隊は、正式には特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)といい、決死の任務を行う部隊でした。

特攻は「体当たり攻撃」とも呼称され、自分が操縦する航空機や艦艇を敵機に直接当てて攻撃することで戦果をあげようというものでした。

形式上は、志願制でしたが、実際は逃れようのない『命令』だったという証言もあるようです。特攻隊として命を落とした人の多くは、10代から20代前半の者が多く最年少は17歳。年齢が若いほど上官の命令には逆らいにくいため、若者の特攻隊員が多いのかもしれません。国のために命を捧げた若き勇者たちが書いた遺書には強い志の中にもあどけなさの残る切ない文章が多く見受けられます。

 

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我が子への遺書

 

植村 眞久

 

海軍大尉

東京都出身 立教大学卒 25歳
昭和19年10月26日「第一神風特別攻撃隊大和隊」
スリガオ海峡付近にて戦死

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。

素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思ってお父様が考へたのです。 私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのをみとどけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても決して悲しんではなりません。

お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。

またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。

優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。

昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ

追伸、

素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。

だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。

 

渋谷 健一

 

大尉
山形県出身 少候22期 31歳
昭和20年6月11日「陸軍特別攻撃隊振武隊隊長」
沖縄海域にて戦死 戦死後大佐

出撃に際して倫子、生れる愛子へ
渋谷健一陸軍大尉
特別攻擊隊振武隊隊長 昭和二十年六月十一日 沖縄方面海域にて戦死 山形県松峯町字片町出身 三十一歳

父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十才に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。死せずとも戦に勝つ術あらんと考ふるは常人の浅はかなる思慮にして、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総体当りを行ひ、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給ふ。真に国難といふべ きなり。父は死にても死するにあらず、悠久の大儀に生るなり。
一、寂しがりやの子に成るべからず母あるにあらずや、父も又幼少にして 父母を病に亡したれど決して明るさを失はずに成長したり。まして戦に 出て壮烈に死すと聞かば日の本の子は喜ぶべきものなり。父恋しと思は ば、空を視よ、大空に浮ぶ白雲にのりて父は常に微笑で迎ふ。
二、素直に育て、戦勝っても国難は去るにあらず、世界に平和がおとづれて万民太平の幸をうけるまで懸命の勉強をすることが大切なり。二人仲 良く母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは父に対して最大の孝養なり。
父は飛行将校として挙の任務を心から喜び、神明に真の春を招来する神 風たらんとす。皇恩の有難さを常に感謝し世は変るとも忠孝の心は片時も忘るべからず。

三、御身等の母はまことに良き母、父在世中は飛行将校の妻は数多くあれ ども、母程日本婦人としての覚悟ある者少し。父は常に感謝しありた り。 戰時多忙の身にして真に母を幸福にあらしめる機会少く、父の心残りの 一つなり。御身等成長せし時には父の分まで母に孝養っくさるべし。之 父の頼みなり現時敵機爆撃の為大都市等にて家は焼かれ、父母を亡ひし 少年少女数限りなし。之を思へば父は心痛極りなし。御身等は母、祖父 母に抱かれて真に幸福に育ちたるを忘るべからず。 書置く事は多けれど、大きくなったる時に良く母に聞き母の苦労を知り 決して我儘せぬやう望む。

 

久野 正信

中尉
昭和20年5月24日「義烈空挺隊」の飛行隊(第3独立飛行隊)
沖縄にて戦死 戦死後中佐

正憲 紀代子へ
父ハスガタコソミエザルモイツデモオマエ タチヲ見テイル、ヨクオカアサンノイイツケヲマモッテオカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ、ソシテオオキクナッタナレバジブンノスキナミチニスススミリッパナニッポンジンニナルコトデス、ヒトノオトオサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。 「マサノリ」「キョコ」ノオトオサンハカミサマニナッテフタリヲジット見テヰマス。 フタリナカヨクベンキョウヲシテオカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトオサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケドモフタリナカヨクシナサイヨ。 オトオサハオホキナジュウバク二ノッテテキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。
オトオサン二マケナイヒトニナッテオトオサンノカタキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ キョコ フタリヘ

海野 馬一

 

陸軍少佐
昭和22年4月3日没 享年49歳

愛児へ
児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。
汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。
他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。

汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。
母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。
和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。
人間は何も高位高官の人となる義務はない。国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。

和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。
又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。
父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。(中略)
「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。
瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。
和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。

 

伍井 芳夫

陸軍中佐
特別攻撃隊第二十三振武隊 昭和20年4月1日 沖縄慶良間海上にて戦死
埼玉県出身  32歳

親愛ナル真智子智子ヨ オ父サンハ 大東亜戦争ノ勝利ノ為 昭和二十年ノ春 特別攻撃隊第二十三振武隊隊長トシテ 日本男子ノ最大ニノ誉ヲ得テ立派ナ戦果ノ下ニ散リマス
オ父サンハ 姿コソ見エナイケレド 護国ノ霊トナッテ 何時マデモ何時マデモ生キテ居リマス
真智子モ智子モオ母サンノ謂ヒ付ヲ守ツテ立派ナ人トナリナサイ 弟ノ芳則ヲ援ケテ軍人ノ遺族トシテ立派ニ成人シテ下サイ オ母サンハ オ前達ノ養育ノ為 言葉ニ云ヒ表セナイ非常ナ苦労ヲシテ来タノデス 大キクナツタラ此ノ御恩ヲ忘レズ必ズ孝行シテオ母サンヲ楽ニシテ差上ゲナケレバイケマセン
オ父サン オ前達ノ成長ヲ見守ツテオリマス 良ク勉強シテ立派ナ人トナリナサイ 病気ニナラナイ様体を丈夫ニナサイ

真智子智子殿

父ヨリ

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