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特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙

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特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙 未分類
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特攻隊は、正式には特別攻撃隊(とくべつこうげきたい)といい、決死の任務を行う部隊でした。

特攻は「体当たり攻撃」とも呼称され、自分が操縦する航空機や艦艇を敵機に直接当てて攻撃することで戦果をあげようというものでした。

形式上は、志願制でしたが、実際は逃れようのない『命令』だったという証言もあるようです。特攻隊として命を落とした人の多くは、10代から20代前半の者が多く最年少は17歳。年齢が若いほど上官の命令には逆らいにくいため、若者の特攻隊員が多いのかもしれません。国のために命を捧げた若き勇者たちが書いた遺書には強い志の中にもあどけなさの残る切ない文章が多く見受けられます。

 

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我が子への遺書

 

植村 眞久

 

海軍大尉

東京都出身 立教大学卒 25歳
昭和19年10月26日「第一神風特別攻撃隊大和隊」
スリガオ海峡付近にて戦死

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。

素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思ってお父様が考へたのです。 私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのをみとどけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても決して悲しんではなりません。

お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。

またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。

優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。

昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ

追伸、

素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。

だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。

 

渋谷 健一

 

大尉
山形県出身 少候22期 31歳
昭和20年6月11日「陸軍特別攻撃隊振武隊隊長」
沖縄海域にて戦死 戦死後大佐

出撃に際して倫子、生れる愛子へ
渋谷健一陸軍大尉
特別攻擊隊振武隊隊長 昭和二十年六月十一日 沖縄方面海域にて戦死 山形県松峯町字片町出身 三十一歳

父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十才に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。死せずとも戦に勝つ術あらんと考ふるは常人の浅はかなる思慮にして、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総体当りを行ひ、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給ふ。真に国難といふべ きなり。父は死にても死するにあらず、悠久の大儀に生るなり。
一、寂しがりやの子に成るべからず母あるにあらずや、父も又幼少にして 父母を病に亡したれど決して明るさを失はずに成長したり。まして戦に 出て壮烈に死すと聞かば日の本の子は喜ぶべきものなり。父恋しと思は ば、空を視よ、大空に浮ぶ白雲にのりて父は常に微笑で迎ふ。
二、素直に育て、戦勝っても国難は去るにあらず、世界に平和がおとづれて万民太平の幸をうけるまで懸命の勉強をすることが大切なり。二人仲 良く母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは父に対して最大の孝養なり。
父は飛行将校として挙の任務を心から喜び、神明に真の春を招来する神 風たらんとす。皇恩の有難さを常に感謝し世は変るとも忠孝の心は片時も忘るべからず。

三、御身等の母はまことに良き母、父在世中は飛行将校の妻は数多くあれ ども、母程日本婦人としての覚悟ある者少し。父は常に感謝しありた り。 戰時多忙の身にして真に母を幸福にあらしめる機会少く、父の心残りの 一つなり。御身等成長せし時には父の分まで母に孝養っくさるべし。之 父の頼みなり現時敵機爆撃の為大都市等にて家は焼かれ、父母を亡ひし 少年少女数限りなし。之を思へば父は心痛極りなし。御身等は母、祖父 母に抱かれて真に幸福に育ちたるを忘るべからず。 書置く事は多けれど、大きくなったる時に良く母に聞き母の苦労を知り 決して我儘せぬやう望む。

 

久野 正信

中尉
昭和20年5月24日「義烈空挺隊」の飛行隊(第3独立飛行隊)
沖縄にて戦死 戦死後中佐

正憲 紀代子へ
父ハスガタコソミエザルモイツデモオマエ タチヲ見テイル、ヨクオカアサンノイイツケヲマモッテオカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ、ソシテオオキクナッタナレバジブンノスキナミチニスススミリッパナニッポンジンニナルコトデス、ヒトノオトオサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。 「マサノリ」「キョコ」ノオトオサンハカミサマニナッテフタリヲジット見テヰマス。 フタリナカヨクベンキョウヲシテオカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトオサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケドモフタリナカヨクシナサイヨ。 オトオサハオホキナジュウバク二ノッテテキヲゼンブヤッツケタゲンキナヒトデス。
オトオサン二マケナイヒトニナッテオトオサンノカタキヲウッテクダサイ。
父ヨリ
マサノリ キョコ フタリヘ

 

海野 馬一

 

陸軍少佐
昭和22年4月3日没 享年49歳

愛児へ
児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。
汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。
他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。

汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。
母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。
和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。
人間は何も高位高官の人となる義務はない。国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。

和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。
又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。
父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。(中略)
「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。
瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。
和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。

 

伍井 芳夫

陸軍中佐
特別攻撃隊第二十三振武隊 昭和20年4月1日 沖縄慶良間海上にて戦死
埼玉県出身  32歳

親愛ナル真智子智子ヨ オ父サンハ 大東亜戦争ノ勝利ノ為 昭和二十年ノ春 特別攻撃隊第二十三振武隊隊長トシテ 日本男子ノ最大ニノ誉ヲ得テ立派ナ戦果ノ下ニ散リマス
オ父サンハ 姿コソ見エナイケレド 護国ノ霊トナッテ 何時マデモ何時マデモ生キテ居リマス
真智子モ智子モオ母サンノ謂ヒ付ヲ守ツテ立派ナ人トナリナサイ 弟ノ芳則ヲ援ケテ軍人ノ遺族トシテ立派ニ成人シテ下サイ オ母サンハ オ前達ノ養育ノ為 言葉ニ云ヒ表セナイ非常ナ苦労ヲシテ来タノデス 大キクナツタラ此ノ御恩ヲ忘レズ必ズ孝行シテオ母サンヲ楽ニシテ差上ゲナケレバイケマセン
オ父サン オ前達ノ成長ヲ見守ツテオリマス 良ク勉強シテ立派ナ人トナリナサイ 病気ニナラナイ様体を丈夫ニナサイ

真智子智子殿

父ヨリ

 

沼田 正春

陸軍中佐

昭和19年12月2日 レイテ島リモン西南方面にて戦死
神奈川県出身  31歳

大命に依り、父は沢山の将兵をお預かりして、更に更に難しい戦場に赴く事となった。故に多忙中であるが一言申し述べて置く。
若し父亡くしても、節夫には立派な祖父母があり優しい母がある。お世話下さる叔父や叔母がある。又幾百年来の先祖がお前の事を一生懸命見ていて下さるのだ。それ故、皆に有難く感謝しつつ安心して征くのである。祖父母や母の教えに従がい清く正しく如何なる事にも負けぬ強さ優しさを持って育てよ。
父の骨は遥か南の果てに埋まるとも、常に常に、お前が成育する勇姿を見守っている。秋色濃き孫呉の平原に虫声も寂しく、北斗星は真上に輝き、月は興安嶺の彼方に傾く。冷気強き灯火に下、遥かにお前の姿が目に浮ぶ。どうか祖父母を大切に母を労わるよう。他の事は祖父母様お母さんよりお聞きなさい。

 

塩田 寛

 

一飛曹 18才
昭和19年10月26日 レイテ沖にて特攻戦死

戦いは日一日と激しさを加えて参りました。父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。私は潔く死んでいきます。今日の海の色、見事なものです。決してなげいて下さいますな。抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。既に今日あるは覚悟の上でしょう。私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。
この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。
お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。育子、昌子の二人は私の様に母に甘えたり叱られたり出来ないかと思うとかわいそうです。いつまでも仲良くお暮らし下さい。私も喜んで大空に散っていきます。平常あちこちにご無沙汰ばかりしておりますから、何卒よろしくお知らせ下さい。お願いします。御身大切にごきげんよう。

 

両親への遺書

 

長谷川 喜市

神風特別攻撃隊 第一草薙隊
海軍二等飛行兵曹
第十二期甲種予科練出身十九歳

お父さん、お母さん、お達者ですか。

お伺ひ致します。

喜市は、いつも変わりありません。
お父さん、お母さん、喜んで下さい。

遂に来たるべき秋が来ました。
征くに当たって、改めて申上げることはありませんが、ただ二十年このかた、喜市は孝行といふ孝行をしたこと がありません。

お許し下さい。

 

清水 雅春

昭和20年4月7日
二飛曹  18才
神風特別攻撃隊第三御盾隊として、沖縄海域にて特攻戦死

出典:予科練資料館
http://www.yokaren.net/modules/tinyd/

今度攻撃命令を拝して、出撃することになりました。日本男子の本懐これに過ぐることなく、喜びに耐えません。父上様方も聞かれましたら、さぞかしご満足されることでしょう。
今更言う事はありませんが、一寸の孝行もせず、ただただ二十年の人生を育てて下された父上様、母上様、祖母様方に何とお詫び申し上げてよいか判りません。
まだ戦争に行ったことがないので不安な点もありますが、弾が命中したら、必ずや敵の空母を撃沈します。
突然でさぞかし驚かれると思いますが、立派に男子の本懐を全うします。
出発まで時間がありません。一言、最後の言葉を。

 

山下 瀞

陸軍中尉

昭和19年12月7日 サイパン島にて戦死
静岡県出身  23歳

父上母上様

瀞は幸者でした 喜んで笑って行きました 最大の親孝行も致しました 安心して行きました
専門教育迄受けさせて戴き我儘をやって来ました
故郷の山河、浜名の湖水に、遠州灘に、瀞の魂は幸福に寝っています。
姉様楽しき日を御祝致します
満雄、後は頼んだぞ 士郎、俺の分まで孝行してくれ 益雄、しっかり勉強して偉い人になれよ 多可士、御母様の手伝をしなさいよ 悟朗よ、益雄、多可士の面倒を見てやれよ
瀞様は皆を何時もあの青空で見ていますよ

一億の人に一億の母あれど  吾が母に優れる母あらめやも
御母様古賀幸子様に宜しく御伝へ下さい
では さやうなら

 

小川 清

海軍中尉

谷田部海軍航空隊

お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。

思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。

あの悠々たる白雲の間を超えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大儀に生きる光栄の日は今を残してありません。父母様もこの私の為に喜んで下さい。

殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。

清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。

 

松尾 勲

一等飛行兵曹

丙種飛行予科練6期
第二神風特別攻撃隊義烈隊
昭和19年10月29日ルソン島東方にて戦死 23歳

父上様母上様、喜んで下さい。いい立派な死場所を得ました。

皇国の興廃、此の一戦に在り、大君の御楯となって、宿敵を撃滅せん。

男子の本懐、これに過ぐるものが又とありましょうか。

二十三年間の幾星霜、良く育てて下さいました。今度がその御恩返しです。

よくも立派に皇国のために死んでくれたと、ほめてやって下さい。

ああ、我等特別自爆隊。

向かうところは、敵空母へ急降下。

で、これが原文。(上記と一言一句変わらない部分は緑色)

父母上様、喜んで下さい。勲はいい立派な死場所を得ました。今日は最後の日です。

皇国の興廃、此の一戦に在り、大東亜決戦に南海の空の花と散ります。大君の御楯となって、分隊長初め、共に潔く死につき、七度生まれ変わって宿敵を撃滅します。

ああ男子の本懐、これに過ぎるものが又とありましょうか。

これも皆、長い歳月強くなれよと育てて下さった父母上と、又、我子のように育ててご指導下さった分隊長はじめ分隊士、先輩の方々の賜と、或は又血のにじむような訓練の賜と、深く深く感謝致しております。

二十三年間の幾星霜、良く育てて下さいました。厚くお礼申し上げます。今度がその御恩返しです。

勲はよくも立派に皇国のために死んでくれたと、ほめてやって下さい。ほんとに兄弟の中では私は幸せ者でした。喜んでおります。もう何も思い残すことはありません。

父母上様、今度は白木の箱でかえります。靖国神社であいましょう。長い間有難うございました。呉々も御身大切になさいますよう。

ああ雄雄しき、名も彗星艦爆隊、我等攻五義烈隊特別攻撃隊。

最後の姿をカメラにおさめていただきましたので、何れゆっくり、ニュース映画で見て下さい。笑って、艦爆隊十六勇士の姿を見てやって下さい。

最後の夜十月二十八日 ○一○○                            於マニラ 勲

父 上 様

母 上 様

咲くもよし散るも又よし桜花

 

佐藤 新平

曹長

お母さん江

幼い頃から思えば
随分と心配ばかしおかけしましたね。

腕白をしたり、
又何時も不平ばかし言ったり。
目を閉じると子供の頃のことが、
不思議な位ありありと頭に浮かんで参ります。

悪いことなどすると
神様に謝らせられたり、
又幼い頃「今日の良き日をお守り下さい」
「今日の良き日を有難うございました」と
毎日拝神のことをやかましく言われたお母さんでした。

今日になり本当にあの頃から
お母さんの教育がどんなにか
新平のためになったことでしょう。
病気で心配をかけたり、
又苦学の時も随分と心配をおかけしたり。

苦学と言えば、家を出発する時、
台所でお母さんが涙を流されてたのが、
東京にいる間中頭に焼きついて、
あの頃どんなにかかえりたかった事かもしれませんでした。

お母さんの本当の有難味がわかったのは東京へ出てからでした。
あれから余り家に居る事もなく、
ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかったことだけ残念です。

軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。
一度は去年の休暇、二度目は去年の暮近く館林まで
来ていただいた時、あの時は新平嬉しくてたまりませんでした。

態々長い旅をリュックサックを背負って
会いに来てくださったお母さんを見、
何か言うと涙が出そうで、遂、
わざわざ来なくても良かったのに等と
口では反対の事を言ってしまったりして申し訳ありませんでした。

あの時お母さんと東京を歩いた想い出は極楽へ行ってからも、
楽しいなつかしい思い出となることでしょう。

あの大きな鳥居のあった靖国神社に新平が祀られるのですよ・・・・。

手を繋いでお参りしましたね。
今度休暇で帰った時も、お母さんは飛んで迎えに出て下さいましたね。
去年の時もそうでした。

父上様へ
お父さん、新平、日露戦争へ行かれたお父さんの子供として
恥ずかしくない死場所を得ました。
お喜び下さい。

新平、子供の頃から何時も心配ばかり
おかけし申し訳ございませんでした。
御恩返しに、うんと親孝行しようと思っていましたが、
結局何も出来ずにしまいました事をお許し下さい。

随分大きくなるまでお父さんと一緒に寝た新平は、
幼い頃お母さんに、お前はお父さんの子、
文吾は俺の子等と言われたものでした。

厳格な半面、子供の頃から
人一倍可愛がって頂いた新平は本当に幸福でした。

酒に酔われて義太夫や踊をやられたお父さんの姿がなつかしく
思い出されます。
どうぞお父さん何時までも御壮健で文夫や洋治を可愛がって下さい。

書きたいことはいくらでもありますが、今日はこれで止めます。

日本一のお母さんを持った新平は常に幸福でした。

小雨の降る夕方、お母さんと一緒にかこちゃんの
お母さんのお墓参りをした事、
愛国婦人会の事で在郷を一緒に歩いた事、
天神様へ成績の御知らせに行った事等、楽しい思い出は次々とつきません。

特攻隊の事も早く知らせてれば、手紙でも出して激励してやったのにと
お母さんは残念がるかもしれませんが、
お母さんの気持ちは新平解り過ぎる位解って何時も感謝して居ますから、
余計なことを心配しないでください。

私としてはどうせすぐ解ることですから、
早く知らせて心配かけてはて思って知らせなかったのですから、
悪く思わないで下さい。

リウマチや、神経痛に充分注意して天から与えられた寿命だけは
絶対に生き延びなければいけません。

文夫、洋治もお母さんがよく見守って立派な子供になる様鍛えてください。

決して気を落としたりして、体をそこねられない様ご注意下さい。

お父さんの方が後になり変になりました。

一足御先に失礼します。

今晩、隊の壮行式があり、一寸酔って居りますので字も乱れて居ります。

河野、小林先生にも宜敷くお願いいたします。

小生必ずや大きな戦果を上げて見せます。

沖縄沖の戦果に御期待下さい!!

遺書

天皇陛下万歳
 大命ヲ拝シ、新平只今特別攻撃隊ノ一員トシテ醜敵艦船撃滅ノ途ニ就キマス
日本男子トシテノ本懐コレニ過グルモノハゴザイマセン
必中必沈以テ皇恩ニ報イ奉リマス
新平本日ノ栄誉アルハ二十有余年ニワタル間ノ父上様、母上様ノ御薫陶ノ賜ト深ク感謝致シテ居リマス
新平肉体ハ死ストモ魂ハ常ニ父上母上様ノオ側ニ健在デス
父上様モ母上様モ御老体故呉々モ御体ヲ大切ニ御暮シ下サイ
決シテ無理ヲナサラヌ様
デハ
日本一ノ幸福者、新平最後ノ親孝行ニ何時モノ笑顔デ元気デ出発致シマス
親類ノ皆様方近所ノ人達ニ宜敷ク
新平拝
御両親様

 

富澤 幸光

中尉

北海道出身 北海道第二師範学校卒 海軍第十三期飛行科予備学生
神風特別攻撃隊第十九金剛隊
昭和20年1月6日比島にて戦死 23歳

お父上様、お母上様、益々御達者でお暮しのことと存じます。幸光は闘魂いよゝ元気旺盛でまた出撃します。お正月も来ました。幸光は靖国で二十四歳を迎へる事にしました。靖国神社の餅は大きいですからね。同封の写真は○○で猛訓練時、下中尉に写して戴いたのです。幸光を見て下さい。この拳を見て下さい。

父様、母様は日本一の父様母様であることを信じます。お正月になったら軍服の前に沢山御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の想ひ出話をするのも間近でせう。靖国神社ではまた甲板士官でもして大いに張切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知っても決して泣いてはなりません。靖国で待つてゐます。きつと来て下さるでせうね。本日恩賜のお酒を戴き感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。私がやらなければ父様母様が死んでしまふ。否日本国が大変な事になる。幸光は誰にも負けずきつとやります。

 

塩田 寛

戦いは日一日と激しさを加えて参りました。
父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。
私は潔く死んでいきます。
今日の海の色、見事なものです。決してなげいて下さいますな。
抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。既に今日あるは覚悟の上でしょう。私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。
この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。
故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。
しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。
お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。育子、昌子の二人は私の様に母に甘えたり叱られたり出来ないかと思うとかわいそうです。
いつまでも仲良くお暮らし下さい。私も喜んで大空に散っていきます。
平常あちこちにご無沙汰ばかりしておりますから、何卒よろしくお知らせ下さい。お願いします。御身大切にごきげんよう。

神風特別攻撃隊 大和隊員
一飛曹  18才
昭和19年10月26日 レイテ沖にて特攻戦死

出典:予科練資料館
http://www.yokaren.net/modules/tinyd/

 

上原 良司

少尉

長野県出身 慶応大学卒 22歳 特操二期 第五六振武隊
昭和20年5月11日出撃戦死

生を享けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私ハ幸福でした。温き御両親の愛の下、良き兄妹の勉励に依り、私ハ楽しい日を送る事が出来ました。そして梢々もすれバ、我儘になりつゝあつた事もありました。この間、御両親様に心配を御掛けした事ハ兄妹中で私が一番でした。それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事ハ心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くす事が孝行する事であると云ふ日本に於てハ、私の行動を御許し下さる事と思ひます。
空中勤務者としての私ハ、毎日々々が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり、遺言であつたのです。高空に於てハ死ハ決して恐怖の的でハないのです。この儘突込んで果して死ぬのだらうか、否、どうしても死ぬとハ思へません。そして、何か斯う突込んで見たい衝動に駆られた事もありました。私ハ決して死を恐れてハ居ません。寧ろ嬉しく感じます。何故なれバ、懐しい龍兄さんに会へると信ずるからです。天国に於ける再会こそ私の最も希ハしい事です。私ハ所謂死生観ハ持つて居ませんでした。何となれバ死生観そのものが飽まで死を意義づけ、価値づけやうとする事であり、不明確な死を恐れるの余りなす事だと考へたからです。私ハ死を通じて天国に於ける再会を信じて居るが故に死を恐れないのです。死とハ天国に上る過程なりと考へる時、何ともありません。
私ハ明確に云へバ、自由主義に憧れてゐました。日本が真に永久に続く為にハ自由主義が必要であると思つたからです。之ハ馬鹿な事に聞えるかも知れません。それハ現在、日本が全体主義的な気分に包まれてゐるからです。併し、心に大きな眼を開き、人間の本性を考へた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思ひます。
戦争に於て勝敗を見んとすれバ、その国の主義を見れバ、事前に於て判明すると思ひます。人間の本性に合った、自然な主義を持つた国の勝戦ハ火を見るよりも明であると思ひます。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする私の理想ハ空しく敗れました。この上ハ只、日本の自由、独立の為、喜んで命を捧げます。
人間にとつてハ一国の興亡ハ、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考へた時ハ、実に些細な事です。驕れる者久しからずの例へ通り、若しこの戦に米英が勝つたとしても彼等ハ必ず敗れる日が来る事を知るでせう。若し敗れないとしても、幾年後かにハ、地球の破裂に依り粉となるのだと思ふと痛快す。加之、現在生きて良い気になつて居る彼等も、必ず死が来るのです。唯、早いか晩いかの差です。
離れにある私の本箱の右の引出に遺本があります。開かなかつたら左の引出を開けて釘を抜いて出して下さい。
でハ、くれぐれも御自愛の程を祈ります。
大きい兄さん、清子始め皆さんに宜しく。
でハさよなら御機嫌良く。さらバ永遠に

御両親様へ

良司より

 

横山 善次

陸軍大尉
昭和20年8月13日 犬吠埼東方洋上にて戦死
茨木県出身  二十二歳

私は突然征く事になりました。何も言ひ残す事は有りません。只戦が勝つまで頑張って下さい。充分健康に注意して・・・。
私は必ず立派に目的を達成します。私が今頃只本当に御両親様に御世話になり、又数々の御心配をおかけした事は御許し下さい。今迄御両親には何とかして安らかな生活をさせたいと思って居りました。それも出来ませんでした。愚人の空想でした。
ホンノ少しでは有りますが、このトランクに入って居る品、私が一生懸命にためたものです。食べたかったのを食べずにためました。
大きな箱の中に入って居る清酒其の他の品は、七月三十日、出撃準備命令と同時に出撃者のみ頂いたものです。生缶等皆様と一緒に食べたかったのですが、それもできませんでした。本当につまらぬものばかりですが、これが私の最初で最後の心からの品です。箱の中の品は私の写真と一緒に食べて下さい(中略)。
では皆様、充分健康に注意され、最後まで頑張って下さい。私は立派にやります。
さやうなら

 

相花 信夫

少尉(宮城県)

宮城県出身 少年飛行兵14期
陸軍特攻第七十七振武隊
昭和20年5月4日沖縄周辺洋上にて特攻戦死 18歳

母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった

ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと

 

古谷 眞二

少佐

東京都出身 慶応大学卒 海軍第十三期飛行科予備学生
第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊
昭和20年5月11日南西諸島洋上にて戦死 23歳

御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんこと、朝な夕なに神仏に懇願すべくは之親子の情にして当然也。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。
大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧なく千戈を執らんの覚悟なり

 

小川 清

海軍中尉
死没 1945年5月11日(満22歳没)

お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。

思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。

あの悠々たる白雲の間を超えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大儀に生きる光栄の日は今を残してありません。父母様もこの私の為に喜んで下さい。

殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。

清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。

 

谷 暢夫

海軍少尉 昭和19年10月25日
神風特別攻撃隊敷島隊出撃 散華(享年20歳)

遺書

はじめありて 終りあるもの 鮮し
永らくのご厚思を謝す。何一ツ親孝行らしきことなき小生も、最初の最後の親孝行を致します。
忠孝一致、とは古人、実によく云ったものと感心します。ご両親の長命を切に祈ります。
日の本の空征くものの心なれ 散るを惜しまぬ桜花こそ

辞世

身は軽く つとめは重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当り
身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七たび生れ撃ちてしやまん

 

永尾 博

中尉

佐賀県出身 西南学院卒 海軍第十三期飛行科予備学生
神風特別攻撃隊第三草薙隊
昭和20年4月28日沖縄近海にて戦死 22歳

一、制を享け二十二年の長い間、小生を育まれた父母上に御禮申上げます。
一、親不孝の数々お許し下さい。
一、小生の身体は父母のものであり、父母のものでなく、天皇陛下に捧げたものであります。
小生入隊後は無きものと御覚悟ください。
一、小生も良き父上、良き母上、良き妹二人を持ち心おきなく大空の決戦場に臨むことが出来ます。
一、父上も好子、壽子を小生と心得御育み下さい。
一、母上、父上の事末永く呉々も御願ひ申上げます。
一、父、母上の、また妹の御健康をお祈り致します。

父さん 大事な父さん
母さん 大事な母さん
永い間、色々とお世話になりました。
好子、壽子をよろしくお願ひ致します。
靖國の社頭でお目にかゝりませう。
では参ります。お身体お大事に。

 

富澤 幸光

中尉

海軍第十三期飛行科予備学生 神風特別攻撃隊第十九金剛隊 昭和20年1月6日、爆装零戦に搭乗し比島マバラカット基地を出撃、リンガエン湾にて戦死 23歳

お父上様 お母上様

ますます御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。

お正月もきました。 幸光は靖國で二十四歳を迎へることにしました。 靖國神社の餅は大きいですからね。

父様、母様は日本一の父様、母様であることを信じます。お正月になつたら軍服の前にたくさん御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の思ひ出話をするのも間近かでせう。

靖國神社では、また甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖國で待つてゐます。 きっと来て下さるでせうね。

本日、恩賜のお酒をいただき感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。 私がやらねば、父様、母様が死んでしまう。否、日本国が大変なことになる。 幸光は誰にも負けずきつとやります。

母上様の写真は幸光の背中に背負ってゐます。母上様も幸光と共に御奉公だよ、いつでも側にいるよ、と言って下さつてゐます。心強いかぎりです。

 

清水 雅春

二飛曹  18才
神風特別攻撃隊第三御盾隊として、沖縄海域にて特攻戦死

今度攻撃命令を拝して、出撃することになりました。日本男子の本懐これに過ぐることなく、喜びに耐えません。父上様方も聞かれましたら、さぞかしご満足されることでしょう。今更言う事はありませんが、一寸の孝行もせず、ただただ二十年の人生を育てて下された父上様、母上様、祖母様方に何とお詫び申し上げてよいか判りません。まだ戦争に行ったことがないので不安な点もありますが、弾が命中したら、必ずや敵の空母を撃沈します。突然でさぞかし驚かれると思いますが、立派に男子の本懐を全うします。出発まで時間がありません。一言、最後の言葉を。

 

富田 修

中尉

長野県出身 日本大学卒 海軍第十三期飛行予備学生
昭和19年9月3日台湾にて殉職 23歳

我一生ここに定まる。
お父さんへ、いふことなし。
お母さんへ、ご安心ください。決して僕は卑怯な死に方をしないです。お母さんの子ですもの。
それだけで僕は幸福なのです。
日本万歳、万歳、かう叫びつつ死んでいつた幾多の先輩達のことを考へます。
お母さん、お母さん、お母さん、お母さん!かう叫びたい気持ちで一杯です。何か言つて下さい。
一言で十分です。いかに冷静になつて考へても、何時も何時も浮んでくるのは御両親様の顔です。
父ちゃん!母ちゃん!僕は何度もよびます。
「お母さん、決して泣かないで下さい」
修が日本の飛行軍人であつたことに就て、大きな誇りを持つて下さい。
勇ましい爆音を立てて先輩が飛んで行きます。
ではまた。

 

松尾 巧

海軍一等飛行兵曹  享年20才
佐賀県出身 乙飛17期

謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。護国の花と立派に散華致します。私は二十歳をもって君子身命をささげます。お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。生前の御礼を申上げます。私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもして下さい。近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく、妹にも……。後はお願い致します。では靖国へまいります。
四月六日午前十一時記す
神風特別攻撃隊第二御盾隊銀河隊

 

関 行男

大尉

父上様、母上様
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に報ずる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日帝国の為、身を以て母艦に体当を行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に

満里子殿
何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る
何も言わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様
色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ

教へ子へ
教へ子よ散れ山桜此れの如くに

 

父親への遺書

 

山口 輝夫

 

少尉

御父上様
なんらの孝養すらできずに散らねばならなかった私の運命をお許しください。
急に特攻隊員を命ぜられ、いよいよ本日沖縄の海へむけて出発いたします。命ぜられれば日本人です。ただ成功を期して最後の任務に邁進するばかりです。とはいえ、やはりこのうるわしい日本の国土や、人情に別離を惜しみたくなるのは私だけの弱い心でしょうか。死を決すればやはり父上や母上、祖母や同胞たちの顔が浮んでまいります。だれもが名を惜しむ人となることをねがってやまないと思うと、本当に勇気づけられるような気持がいたします。かならずやります。それらの人々の幻影にむかって私はそう叫ばずにはいられません。
しかし死所を得せしめる軍隊に存在の意義を見出しながら、なお最後まで自己を減却してかからねばならなかった軍隊生活を、私は住み良い世界とは思えませんでした。それは一度娑婆を経験した予備士官の大きな不幸といえましょう。いつか送っていただいた大坪大尉の死生観も、じつは徹し切っているようで、軍隊の皮相面をいったにすぎないような気がします。正を受けて二三年、私には私だけの考え方もありましたが、もうそれは無駄ですから申しません。とくに善良な大多数の国民を偽瞞した政治家たちだけは、いまも心にくい気がいたします。しかし私は国体を信じ愛し美しいものと思うがゆえに、政治家や統師の補弼者たちの命に奉じます。
じつに日本の国体は美しいものです。古典そのものよりも、神代の有無よりも、私はそれを信じてきた祖先たちの純真そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。国体とは祖先たちの一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。
沖縄は五島と同じです。私は故郷を侵すものを撃たねば止みません。沖縄はいまの私にとっては揺籃です。あの空あの海に、かならず母や祖母が私を迎えてくださるでしょう。私はだから死を悲しみません。恐しいとも思いません。ただ残る父上や、多くのはらからたちの幸福を祈ってやみません。父上への最大の不幸は、父上を一度も父上と呼ばなかったことです。しかし私は最初にして最後の父様を、突入寸前口にしようと思います。人間の幼稚な感覚は、それを父上にお伝えすることはできませんが、突入の日に生涯をこめた声で父上を呼んだことだけは忘れないで下さい。
天草はじつに良い所でした。私が面会を父上にお願いしなかったのも、天草のもつよさのためでした。隊の北方の山が杉山と曲り坂によく似た所で、私はよく寝ころびながら、松山の火薬庫へ父上や昭と一緒に遊びに行った想い出や、母の死を漠然と母と知りつつ火葬場へ車で行った曲り坂のことなど、想わずにはおれませんでした。
私が死ねば山口の方は和子一人になります。姉上もおりますし心配ありませんが、万事父上に一任しておりますから御願いいたします。
歴史の蹉跣は民族の滅亡ではありません。父上たちの長命を御祈りいたします。かならず新しい日本が訪れるはずです。国民は死を急いではなりません。では御機嫌よう。
輝夫

 

母親への遺書

 

18歳の回天特攻隊員の遺書

お母さん、私は
後3時間で祖国のために散っていきます。

胸は日本晴れ。

本当ですよお母さん。

少しも怖くない。

しかしね

時間があったので考えてみましたら
少し寂しくなってきました。

それは、今日私が戦死した通知が届く。

お父さんは男だから
わかっていただけると思います。

が、お母さん。

お母さんは女だから、優しいから
涙が出るのでありませんか。

弟や妹たちも兄ちゃんが
死んだといって寂しく思うでしょうね。

お母さん。

こんなことを考えてみましたら
私も人の子。

やはり寂しい。

しかしお母さん。

考えて見てください。

今日私が特攻隊で行かなければ
どうなると思いますか。

戦争はこの日本本土まで迫って
この世の中で一番好きだった母さんが
死なれるから私が行くのですよ。

母さん。

今日私が特攻隊で行かなければ
年をとられたお父さんまで
銃をとるようになりますよ。

だからね。

お母さん。

今日私が戦死したからといって
どうか涙だけは耐えてくださいね。

でもやっぱりだめだろうな。

お母さんは優しい人だったから。

お母さん

私はどんな敵だって怖くはありません。

私が一番怖いのは、母さんの涙です。

 

小松 武

神風特別攻撃隊 第二御盾隊
海軍上等飛行兵曹  (高知県)
昭和20年2月21日 硫黄島周辺の艦船攻撃中戦死

出典:予科練資料館
http://www.yokaren.net/modules/tinyd/

待ちに待った晴れの出陣を、明日に控えました。
突然でいささかあわてましたが、大いに張り切っておりますので、何とぞご安心下さい。
生を享けて、ここに二十二年になります。何の恩返しも出来ず誠に申し訳ありません。何とぞお許し下さい。
国家のために散って征くことを、最大の孝行としてお受け下さい。
私が戦死したと聞きましたら、赤飯を炊き、黒い着物など着ず、万歳と叫んで喜んで遺骨を迎えてください。
多分骨はないものと思いますから、体操シャツを一枚送ります。
これは昭和十七年七月十一日土浦航空隊に天皇陛下が行幸されたときに使用した記念すべき品です。私と思って大切にしてください。
今となっては別に言い残すことはありません。
とにかく、命のあるうちは徹底的に頑張り抜く覚悟でおります。必ずや、敵空母の一隻や二隻は沈めてみせるつもりです。
取り急ぎ乱筆になりました。感無量で何もかけません。これでペンを置きます。
ずいぶんとお元気で、いつまでも暮らしてください。 小父さん、小母さんたちによろしく。ではご機嫌よう。さようなら。

母上様

 

回天特攻隊員

お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。本当ですよお母さん。少しも怖くない。しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。

それは、今日私が戦死した通知が届く。お父さんは男だからわかっていただけると思います。が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。

弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。

お母さん。こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。しかしお母さん。考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。

戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好だった母さんが死なれるから私が行くのですよ。 母さん。今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。

だからね。お母さん。今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です

 

茂木 三郎

神風特別攻撃隊 第5神剣隊
少尉
昭和20年5月4日 沖縄周辺にて特攻戦死 19歳

僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。お母さん、良く顔を見せて下さい。

しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。

十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。

お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。

それが僕の別れのあいさつです。

 

広田 幸宣

 

少尉
新潟県出身 海軍甲種飛行予科練習生第十期
第一神風特別攻撃隊葉桜隊
昭和19年10月30日 比島方面にて戦死 21歳

拝啓 たびたびのおたよりうれしく拝見致しました。
この前の便箋七枚の手紙を見ては涙がとめどなくほゝを伝はりました。何回も何回もくりかへして読みました。金送りましたが、こんなによろこんで頂けるとは思ひませんでした。神様などへそなへなくともよろしいですから、すぐ用立てて下さい。少し金持らしくやつて下さい。財布が底抜けにならぬ様一ヵ月に一回は必ず補給します。・・・・・・
私は貯金はこちらでたくさんやつてゐますから、送つた金はぢゃんぢゃん使つて下さい。・・・みかん着いたさうで何よりです。出来たらもつと送りませう。玉ちやんにも小遣ひ出来るだけ送りますからお嫁に行く日の貯金に、
お母さんの書いてよこされたことも近い中にあるかも知れません。こんど金が自由になつたらゆつくりと面会にこられないですか。やがては泊りもありますし、二十四時間のやすみもありますから、ゆつくり話も出来ますし、共に寝ることも出来るわけです。汽車は酔はなければよいのだがなあ。トランク要るなら送つてもよいです。ではお体大切に、
ベッドの中で
なつかしい母上様、かあちゃんよ!!

 

緒方 襄

 

中尉
熊本県出身 関西大学卒 海軍第十三期飛行科予備学生
第一神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊
昭和20年3月21日 九州南方洋上にて戦死 23歳

出撃に際して
懐しの町懐しの人
今吾れすべてを捨てて
國家の安危に
赴かんとす
悠久の大儀に生きんとし
今吾れここに突撃を開始す
魂魄國に帰り
身は桜花のごとく散らんも
悠久に護國の鬼と化さん
いざさらば
われは栄ある山桜
母の御もとに帰り咲かなむ

 

小松 武

海軍上等飛行兵曹  (高知県)
昭和20年2月21日 硫黄島周辺の艦船攻撃中戦死

待ちに待った晴れの出陣を、明日に控えました。突然でいささかあわてましたが、大いに張り切っておりますので、何とぞご安心下さい。
生を享けて、ここに二十二年になります。何の恩返しも出来ず誠に申し訳ありません。何とぞお許し下さい。国家のために散って征くことを、最大の孝行としてお受け下さい。
私が戦死したと聞きましたら、赤飯を炊き、黒い着物など着ず、万歳と叫んで喜んで遺骨を迎えてください。多分骨はないものと思いますから、体操シャツを一枚送ります。これは昭和十七年七月十一日土浦航空隊に天皇陛下が行幸されたときに使用した記念すべき品です。私と思って大切にしてください。
今となっては別に言い残すことはありません。とにかく、命のあるうちは徹底的に頑張り抜く覚悟でおります。必ずや、敵空母の一隻や二隻は沈めてみせるつもりです。取り急ぎ乱筆になりました。感無量で何もかけません。これでペンを置きます。ずいぶんとお元気で、いつまでも暮らしてください。 小父さん、小母さんたちによろしく。ではご機嫌よう。さようなら。
母上様

 

林 市造

海軍大尉
昭和20年4月12日
南西諸島方面にて戦死
福岡県宗像郡赤間町出身
京都帝國大學 海軍第14期飛行科予備学生 23歳

お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。

親思う心にまさる親心
今日のおとずれ何ときくらむ

この歌がしみじみと思われます。
ほんとに私は幸福だったのです。
我ままばかりとおしましたね。
けれどもあれも私の甘え心だと思って許して下さいね。

晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできず死んでゆくのがつらいのです。
私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、ということは、立派に死んだと喜んで下さいということはとてもできません。けど余りこんなことは云いますまい。
母チャンは私の気持をよくしって居られるのですから。

婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかって居たのですがどうしてもことわることができませんでした。
又私もまだ母チャンに甘えたかったのです。
この頃の手紙ほどうれしかったものはなかったです。一度会ってしみじみと話したかったのですが。

この手紙は出撃を明後日にひかえてかいています。
ひょっとすると博多の上をとおるかもしれないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。

千代子姉さんにもお会い出来ず、お礼いいたかったのですが残念です。
私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが宮崎町の家と共に思い出されて来ます。
母チャン、母チャンが私にこうせよと云われた事に反対して、とうとうここまで来てしまいました。
私として希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母ちゃんのいわれる様にした方がよかったかなあとも思います。

でも私は技量抜群として選ばれるのですからよろこんで下さい。
私達ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんてほんとは出来ないのです。
選ばれた者の中でも特に同じ学生を一人ひっぱってゆくようにされて光栄なのです。
私が死んでも満喜雄さんが居ますしお母さんにとっては私の方が大事かも知れませんが一般的に見たら満喜雄さんも事をなし得る点に於い絶対にひけをとらない人です。

千代子姉さん博子姉さんもおられます。
たのもしい孫も居るではありませんか。
私もいつも傍に居ますから、楽しく送って下さい。
お母さんが楽しまれることは私がたのしむことです。
お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。
みんなと一緒にたのしくくらして下さい。

お母さん、私は男です。
日本に生まれて男はみんな国を負うて死んでゆく男です。
有難いことに、お母さん、お母さんは私を立派な男に生んで育てて下さいました。
情熱を人一倍にさずけて下さいました。
お母さんのつくって下さいました私は、この秋には敵の中に飛びこんでゆくより外に手をしらないのです。
立派に敵の空母をしずめてみせます。
人に威張って下さい。

大分気を張ってかきましたが、私がうけた学問も私が正しい時にかく感ずるのだと教えています。
ともすればずるい考えに、お母さんの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけど、これはいけない事なのです。
洗礼をうけた時、私は「死ね」といわれましたね。
アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い出して居ります。
すべてが神様の御手にあるのです。
神様の下にある私達には、この世の生死は問題になりませんね。

イエス様もみこころのままになしたまえとお祈りになったのですね。
私はこの頃毎日聖書をよんでいます。
よんでいると、お母さんの近くに居る気持がするからです。
私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます。
それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんからいただいたお守りです。

結婚の話、なんだかあんな人々をからかったみたいですがこんな事情ですからよろしくお断りして下さい。
意思もあったのですから。
ほんとに時間があったら結婚してお母さんを喜ばしてあげようと思ったです。
許して下さいと、これはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。

お母さんは偉い人ですね。
私はいつもどうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。
お母さんは苦しいことも身にひきうけてなされます。
私のとてもまねのできない所です。
お母さんの欠点は子供をあまりかわいがりすぎられる所ですが、これはいけないと云うのは無理ですね。
私はこれがすきなのですから。
お母さんだけは、又私の兄弟達はそして友達は私を知ってくれるので私は安心して征けます。
私はお母さんに祈ってつっこみます。
お母さんの祈りはいつも神様はみそなわして下さいますから。

この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。
やっぱり恥ですからね。
もうすぐ死ぬということが何だか人ごとの様に感じられます。
いつでも又お母さんにあえる気がします。
あえないなんて考えるとほんとに悲しいですから。

私のもちもの、日記類なんか、ほんとに汚いものですからやきすてて下さい。お願いします。
お母さんがみられてもいやですね。お母さんだけなら仕方がないですが、こればかりは他人には絶対にみせないで下さい。
私の浅ぱくさがばれるのですから。やはり見栄坊の私は人にあらをみせるのがいやなのです。
必ずやきすてて人にみせないで下さい。
その他の本とか何とかお母さんの気のままに処分して下さい。

私は軍隊に入って変に自信をもちました。
私達は少くとも綺麗な心をもつように育てられたということです。
心の点では、たいがいのものにまけないという自信です。
私の周囲がよかったのですね。
家、そして友達、高校の友達なんかことに有難いです。

出撃が明朝に極りあわただしくなり落着かないのですが、せめて最後の言葉を甘えたいと思って居ます。
家のこと思い出すと有難くて涙が出るばかりですからもうこのことについてはかきますまい。
私がその中に居たことが嬉しいのです。
千代子姉さんは光兄さんのこと御心配でしょうが、大丈夫ですよ。
私は妙な確信をもって居ます。
潤子チャン陽子チャン達が私にかわってお母さんを喜ばしてくれることをお願いします。

今桜がさかりですね。校庭にもつくしが生えていましょう。
春休みがなつかしいですね。
萩尾先生や校長先生や妹尾先生立石の小母さん、松田、井口の小母さん達によろしく。
汽車の中は人が一杯でうごきもきれずたのしかったですね。

結婚の話、みんなでみて品定してその結論をさしあげたのですがあれも私の最後をかざる思い出です。

梅野にきてもらってチャートにコースを入れて居ます。
博多上空をとおります。
宗像の方もとおりますから。
桜の西公園を遠目に遥か上空よりお別れをします。

お母さん、でも私の様なものが特攻隊員となれたことを喜んで下さいね。
死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私達ですからね。
でも、お母さん、やはり悲しいですね。
悲しいときは泣いて下さい。
私もかなしいから一緒に泣きましょう。
そして思う存分ないたら喜びましょう。

私は賛美歌をうたいながら敵艦につっこみます。
まだかきたいこともありますがもうやめましょう。
お母さんは私を何もかにも知って居られるのですから私の気持は、お母さんがお思いになるとおりに考えて居ました。
軍隊という所へ入っても私は絶対にもとの心を失いませんでしたから、甘える心だけは強くなりましたが。
お母さん、くれぐれも身体を丈夫に長生して下さい。お願いします。
千代子姉さん、博子姉さん、満喜雄さんと、潤子チャン陽子チャン宏明チャンの生長をたのしんでらくにくらして下さい。

変な手紙になりましたが書きなおすのもめんどうだからこのまま出します。
お母さん。くれぐれも身体に注意して下さい。お願い致します。

出撃前日

さよなら
市造

母上様 姉上様

一足さきに天国に参ります。
天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈つて下さい。
お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。 お母さん。さよなら。

母マツヘさんの手記
泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。 けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。
日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。
そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。
一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり(戦後識す)

 

兄弟への遺書

 

高須 孝四郎

昭和20年8月9日
一飛曹  23才
神風特別攻撃隊第七御盾隊第二次流星隊員として、本州東南洋上にて戦死

出典:予科練資料館
http://www.yokaren.net/modules/tinyd/

攻撃直前記す。
御姉上様、合掌、最後に当たり何も言うことはありません。僕が常夏の国南米伯国より日本の国へ帰って、何も知らない僕を、よく教え導いてくださったことは、心から感謝しております。
身を海軍に投じて以来未知の生活、日本の兵隊生活は最後の魂の道場でした。海軍に入営してより、日夜の訓練によって心身共に磨き清めて来ました。今、国のために散って行く私です。
日本に帰るときに母様より呉々も言われた事、頼まれたことを果さずに散ってゆくのは心が残ります。
最後に年老いた両親に迷惑かけたことを、深く悔やんでおります。
今私は澄んだ気持ちです。白紙の心です。皆々様もお元気に。
では私は只今より攻撃に行きます。再合掌。

姉上様

 

水知 創一

海軍大尉
回天特別攻撃隊「轟隊」昭和二十年七月十六日 本邦東南海面にて戦死
兵庫県出身 早稲田大学 二十一歳

愼二様
急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。では元気でしっかりやって下さい

 

上西 徳英

回天特別攻撃隊多聞隊
海軍一等飛行兵曹
第十三期甲種予科練出身十八歳

妄想する勿れ。

故郷を憶うも、自から限度あり。

先輩の霊、照覧しあり。

自ら省み恥ずべき行ひ、否、考えすら持つべからず。
家人もしこの項を見られなば、深く蔵して人目に曝す勿れ。

特攻隊といへども人間なり。

何も言はず、考ふるも直ちに忘れ、ただ純忠に生くる筈なり。

神なり。
人に非ず。

深くこの点を考えよ。
夢は、正常なりや。

余りにも見る夢の、真に迫る。

以心伝心なりや。

故郷の夢
ばかり。
明日は必ず死なん。

予感あり。
祖国を既に千海里、南十字星を仰ぎつつ、偲ぶは故郷か、想ふは誰か、彼の人か。
勇士陣中に閑ありて、雲と波とその世界。

歌あり、詩あり、涙あり。
剣の心得。

「迷はず、疑はず、怯まず」と。
剣の道は無我、死とは、無なり。
遺書
お父さん、お父さんの鬚は痛かったです。
お母さん、情けは人の為ならず。
忠範よ、最愛の弟よ、日本男児は″御盾″となれ。

他に残すことなし。
和ちゃん、海は私です。

青い静かな海は常の私、逆巻く濤は怒れる私の顔。
敏子、すくすくと伸びよ。

兄は、いつでもお前を見ている。

 

大石 清

伍長
「妹への手紙」

静(せい)ちゃん
お便りありがとう。
何べんも何べんも読みました。

お送りしたお金、こんなに喜んでもらえるとは思いませんでした。

神棚などに供えなくてもよいから、
必要なものは何でも買って、つかって下さい。

兄ちゃんの給料は
うんとありますし、隊にいるとお金を使うこともありませんから、
これからも静ちゃんのサイフが空っぽにならない様、毎月送ります。

では元気で、
おじさん、おばさんによろしく。

大石清の日記──
〈昭和二十年四月一日、快晴
新宮の伯父より電報あり。母、重態。父の死の衝撃と旅の疲れが原因ならん。鎌本軍曹殿の厚情により、区隊長殿から休暇を受く。本日十五時、新宮に向ふ。出発時、軍曹殿から見舞金を頂戴する。この温情、死すとも忘るべからず。父を失ひたる病床の母、幼なき妹、暗澹たる思ひ。車中にて涙流るゝ〉

第六航空軍本部への鎌本軍曹の書状──
〈一、ト号隊員ノ遺族ニ関スル相談。
〔相談〕隊員大石清伍長ノ父ハ国民学校訓導ナルモ先日殉職シ(四十四歳)、家ニハ重病ノ母(四十四歳)、妹(十一歳)一人ナリ。家産ナク父ノ収入ニテ生活シアリタリ。家族ノ生活ヲ保証スル方法ナキヤ〉

大石清の日記──
〈昭和二十年四月八日、曇後晴
十九時、帰隊。母の死を区隊長殿、鎌本軍曹殿に申告す。われ新宮到着の前日、母すでに逝かれてありたり。母の遺骨、父の遺品とともに丹鶴城の桜の見ゆる木下家の墓地の一隅に葬る。「(妹の)米子は、小(こま)い頃からお城の花が好きぢやつた」と伯父上の御言葉。ただ有難し。伯父上への手みやげ、航空ウイスキイ、煙草。美代子伯母上にはドロップ、落下傘のマフラー。妹にチョコレート、乾パン。
妹のことを伯父上にたのみ、新宮駅にて訣別。妹泣く。伯父上夫婦も泣く。せめてあと数日、妹の傍に居りてやりたし〉

〈四月二十二日、晴
午後、特攻攻撃に関する学科あり。九七戦を爆装及燃料タンクを装着すれば150Kに速度が落ちるといふ……。
わが命、ながくともあと一ケ月ならむか。妹へ写真、伯父上夫婦に鎌本軍曹はじめ隊員みなが集めてくれた志の航空糧食、煙草その他を小包にして送る。(なかに隊員一同からの妹への激励文、みんなの集合写真を入れる)

大石伍長の遺書

なつかしい静ちゃん!
おわかれの時がきました。

兄ちゃんはいよいよ出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。

思いがけない父、母の死で、
幼い静ちゃんを一人のこしてくのは、
とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちゃんのかたみとして
静ちゃんの名であずけていた
ゆうびん通帳とハンコ、
これは静ちゃんが女学校に上がるときにつかって下さい。

時計と軍刀も送ります。
これも木下のおじさんにたのんで、売ってお金にかえなさい。

兄ちゃんのかたみなどより、
これからの静ちゃんの人生のほうが大じなのです。

もうプロペラがまわっています。
さあ、出げきです。
では兄ちゃんは征きます。

泣くなよ静ちゃん。
がんばれ!

『整備兵、大野沢威徳からの手紙』(万世基地にて)

大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げきされました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやうを大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこしや落下さんのバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。 さやうなら

 

服部 壽宗

海軍少尉
神風特別攻撃隊「菊水部隊天櫻隊」
昭和20年4月16日 南方諸島方面にて戦死
三重県出身

節子殿

兄は神風特別攻撃隊の一員として明日敵艦と共に、我が愛機電撃機天山に特攻用爆弾を抱きて命中、男一匹玉と砕け散るのだ、最後にのぞみ一筆書遺し置くことあり。
節子も今では立派な可愛い女学生となったことであろう。兄は節子の女学生姿が見られずに死んで行くのが残念だ。兄の一人ぐらいが死んだとて何も悲しみなげく事はない。
兄は喜んで天皇陛下の為め、重大危機に直面して居る日本の為め、一億国民の盾となって散って行くのだ。少しも悲しまずに笑って兄の魂を迎えて呉れ。(中略)兄は常に九段の社の櫻の木の枝に咲いている。裏の元屋敷の櫻の木にも咲きますよ。櫻が咲いたら兄だと思って見て下さい。

さやうなら。母上を御願ひ致します。

出撃前夜 兄
親愛なる妹 節子殿

 

宮崎 勝

 

少尉
三重県松阪市出身 乙種飛行予科練18期
神風特別攻撃隊第五神剣隊
昭和20年5月4日 沖縄海域にて戦死 19歳

ヤスコチヤン、トツコウタイノニイサンハシラナイダラウ。ニイサンモ ヤスコチヤンハシラナイヨ。
マイニチ、クウシユウデ コワイダラウ。ニイサンガ カタキヲ ウツテヤルカラ、デカイボカンニタイアタリスルヨ。
ソノトキハ フミコチヤント、ゴウチンゴウチンヲウタツテ、ニイサンヲヨロコバセテヨ。

 

妻への遺書

 

伊東 勲

神風特別攻撃隊第六菊水隊
昭和20年5月10日 午后5時48分
海軍一等飛行兵曹  享年20才
大分県九重町町者原出身 乙飛18期

何も書く事はありません。 只御両親様及び久美子の健在を祈るのみ、勲は決して人におくれはとりません。潔よく散るのみです。目標は正規空母です。十日位したら徳島海軍航空隊第14分隊5班、上野功君に便りして下さい。 写真は受けとったと泣かずにほめて下さい。幸多かれと祈るなり、親戚の皆様に宜敷く。孝養を頼むぞ久美子、安よ頑張れ。
宮崎航空基地にて
御両親様     神風特別攻撃隊第六菊水隊

 

伊藤 甲子美

陸軍衛生伍長  二十六歳マリアナ島にて戦死

妻宛書簡

季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。
私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。
さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。

 

篠崎 眞一

海軍少佐 横須賀海軍航空隊
昭和十九年六月二十九日 内南洋方面にて戦死
東京都出身 二十四歳

玲子
玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きてゐる。結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。くれぐれも後を賴むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。

 

谷口 吉元

陸軍衛生少尉

昭和20年2月27日 フィリピン群島ルソン島クラーク方面にて戦死
三重県出身  二十九歳

いよいよ 動員下令になった 明日又は明後日は出発する事と思う 男子の本懐之に過ぎるものはない 勇躍して征途に着く 目的地は日米の決戦場「レイテ」島であろうと予想せられる お前の最後の手紙を今日手にした女々しいかもしれぬが持参して行く 恵まれぬ夫婦生活だったね しかしくれぐれも体を大切にして父母上の事を宜しく頼む 又子供の養育を御願ひする
私は今お前の強い 意志を信じて心置きなく大命の下 決戦場に身を挺する事が出来る 運命は神が支配せらる 私の肉体は何処に在ろうとも 心は必ずお前達母子三人の上に永遠の幸福を祈りてあるぞ(中略)
くれぐれも御自愛を祈る

久子殿
吉元

 

近藤 八郎

海軍兵曹長
第66警備隊 昭和19年2月6日 マーシャル群島クェゼリン島にて戦死
長崎県出身  27歳

短期間の実に楽しい結婚生活であった。厚く御礼を申す。俺も此の度は生還は帰し難し。武人の妻として誇りを持ち絶対に取乱してならぬ。七転八起の精神を振ひ起し、世の荒波を乗切る様。くどい事は申さぬ。幾時も申していた言の葉を思い起こし、老先短き両親に仕える様。尚坊やの顔も見たいけど致方ない。清く美しく育てて呉れ。男子の場合は姓名近藤征一郎。女子の場合は姓名近藤洋子と命名して呉れ。暑さ寒さに留意され自愛専一に。二十二日夜認ム
敬具
夫より    マスエ殿

 

篠崎 真一

海軍少佐
昭和19年6月29日 内南洋方面にて戦死
東京都出身  二十四歳

玲子
玲子は日本一、否世界一の妻なりと思っている。苦労のみかけ、厄介ばかりかけ、何等尽くし得なかった事済まなく思っている。
四月十五日以来僅かな月日であったが、私の一生の半分に値する月日であった。父母に孝養を尽くしてくれ、私の分迄。
私に逢い度ば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きている。
結婚のすべての手続き、六月十二日に横空で完了して置いた。くれぐれも後を頼むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。
後顧の憂、一つなく征ける身の幸せを感謝している。最愛の玲子、御身を常に見守っているよ。
出撃前夜
海軍大尉 篠崎真一

 

恋人への遺書

 

 

穴沢 利夫

「婚約者への遺書」

陸軍特別攻撃隊 第20振武隊
少尉
昭和20年4月12日 沖縄周辺洋上にて戦死

二人で力を合わせて努めて来たが終に実を結ばずに終わった。

希望も持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていた“時期を失する”ということが実現して了ったのである。

去月十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く情況は急転した。発信は当分禁止された。転々と処を変えつつ多忙の毎日を送った。そして今、晴れの出撃の日を迎えたのである。

便りを書きたい、書くことはうんとある。

然しそのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。あなたの御両親様、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。

至らぬ自分にかけて下さった御親切、全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。

今は徒に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれることと信ずる。然しそれとは別個に、婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って往きたい。

「あなたの幸を希う以外に何物もない」
「徒に過去の小義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない」
「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」

あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。
穴沢は現実の世界にはもう存在しない。

極めて抽象的に流れたかも知れぬが、将来生起する具体的な場面々々に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。純客観的な立場に立って言うのである。当地は既に桜も散り果てた。大好きな嫩葉の候が此処へは直に訪れることだろう。

今更何を言うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言って見たい。

1、読みたい本
「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」

2、観たい画
ラファエル「聖母子像」、芳崖「悲母観音」

3、智恵子。会いたい、話したい、無性に。

今後は明るく朗らかに。
自分も負けずに朗らかに笑って往く。

昭和20・4・12
智恵子様
利夫

昭和20年5月11日
南西諸島方面にて戦死(空母バンカーヒルへ突入) 24歳

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