特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙

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特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙 泣ける話
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服部 壽宗

海軍少尉
神風特別攻撃隊「菊水部隊天櫻隊」
昭和20年4月16日 南方諸島方面にて戦死
三重県出身

節子殿

兄は神風特別攻撃隊の一員として明日敵艦と共に、我が愛機電撃機天山に特攻用爆弾を抱きて命中、男一匹玉と砕け散るのだ、最後にのぞみ一筆書遺し置くことあり。
節子も今では立派な可愛い女学生となったことであろう。兄は節子の女学生姿が見られずに死んで行くのが残念だ。兄の一人ぐらいが死んだとて何も悲しみなげく事はない。
兄は喜んで天皇陛下の為め、重大危機に直面して居る日本の為め、一億国民の盾となって散って行くのだ。少しも悲しまずに笑って兄の魂を迎えて呉れ。(中略)兄は常に九段の社の櫻の木の枝に咲いている。裏の元屋敷の櫻の木にも咲きますよ。櫻が咲いたら兄だと思って見て下さい。

さやうなら。母上を御願ひ致します。

出撃前夜 兄
親愛なる妹 節子殿

 

宮崎 勝

 

少尉
三重県松阪市出身 乙種飛行予科練18期
神風特別攻撃隊第五神剣隊
昭和20年5月4日 沖縄海域にて戦死 19歳

ヤスコチヤン、トツコウタイノニイサンハシラナイダラウ。ニイサンモ ヤスコチヤンハシラナイヨ。
マイニチ、クウシユウデ コワイダラウ。ニイサンガ カタキヲ ウツテヤルカラ、デカイボカンニタイアタリスルヨ。
ソノトキハ フミコチヤント、ゴウチンゴウチンヲウタツテ、ニイサンヲヨロコバセテヨ。

 

妻への遺書

 

伊東 勲

神風特別攻撃隊第六菊水隊
昭和20年5月10日 午后5時48分
海軍一等飛行兵曹  享年20才
大分県九重町町者原出身 乙飛18期

何も書く事はありません。 只御両親様及び久美子の健在を祈るのみ、勲は決して人におくれはとりません。潔よく散るのみです。目標は正規空母です。十日位したら徳島海軍航空隊第14分隊5班、上野功君に便りして下さい。 写真は受けとったと泣かずにほめて下さい。幸多かれと祈るなり、親戚の皆様に宜敷く。孝養を頼むぞ久美子、安よ頑張れ。
宮崎航空基地にて
御両親様     神風特別攻撃隊第六菊水隊

 

伊藤 甲子美

陸軍衛生伍長  二十六歳マリアナ島にて戦死

妻宛書簡

季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。
私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。
さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。

 

篠崎 眞一

海軍少佐 横須賀海軍航空隊
昭和十九年六月二十九日 内南洋方面にて戦死
東京都出身 二十四歳

玲子
玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きてゐる。結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。くれぐれも後を賴むよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。

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