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【祟り】日本全国の呪われた土地『忌み地』- 絶対に行ってはいけない危険な場所

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【祟り】日本全国の呪われた土地『忌み地』- 絶対に行ってはいけない危険な場所 オカルト
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日本の絶対に行ってはいけない危険な場所

 

日本全国 各地には怨霊や祟があるとされている呪われた地が点在しています。これらのいわくつきの土地には様々な伝承があり、生命に関わる可能性のある、危険な場所とされている場所もあります。
真偽の程は定かではありませんが、ここではネットに書き込みのあった『忌み地』と言われている場所を紹介していきます。

忌み地というのは「呪わしい土地」・「腐った土地」として嫌われる土地のことをいいます。

 

忌み地 一覧

 

岩手県

 

岩手県江刺市米里字人首町

蝦夷討伐の落人の首を供養したところ
という。
江刺地方には、大武丸(大嶽丸)の子の人首丸(ヒトカベマル)にまつわる話が多く、15・16歳の若武者として語られている。
達谷の窟を逃れた人首丸は、北上川の支流伊手川をのぼり、江刺市原体の鬼渕に潜み、さらに藤里の愛宕山の洞窟に隠れた。しかし、追撃は急で、米里の大森山(820メートル)にたてこもり、ついに物見山(種山、870メートル)に陣をはった田村麻呂の女婿田村阿波守兼光に討たれたという。兼光が取った首を見ると美少年。鬼ではあるが、顔は人。兼光は不憫に思い、観音堂を建立して丁重に祀った。これがのちに玉里に移された大森観音。地元民は、明治8年までこの地を人首村と称して、人首丸を偲んだ。
また、大森山の頂上から100メートルばかり下った所に岩屋があるが、ここが大森観音跡で、さらにやや下った鞍部に立っている2メートル余の石碑を「鬼っこの墓」と呼んで落人供養してきたという。人首の村名を忌んで米里に変更してから、次第に人首丸も忘れられていったという。
ちなみに町名は消えたが小学校はまだ人首小学校が残っている。

 

死骨崎(しこつざき)・岩手県三陸町

蝦夷の酋長が殺された後にバラバラにされ胴体が流れ着いた場所。
頭が流れ着いた場所が首崎、脚が流れ着いた場所が脚崎とも云われている。

 

人首(ひとかべ)・岩手県江刺市

坂上田村麻呂が大成山(大森山)で大岳丸(悪路王)の子にあたる人首丸を討ったことにちなみ、はじめ「人こうべ村」と称したと言われる。

 

岩手県遠野市宮守町達曽部

岩手県遠野市宮守町達曽部の塚沢川の辺りに、昔、張付け峠という場所があった。
磔の処刑があったところで、別名、地獄峠といわれた。今は通る人も少ない山道になっているが、蒸し暑い日には狐火がでるという。

宮城県

 

死人沢(しびとざわ)・宮城県宮崎町

昔々、久保屋敷に怠け者で性悪で、貧困で人の交際もなく、 淋しく暮らす農家がいた。 ある年の秋、一人の僧(ろくぶ)が托鉢して村をまわった後、一夜の宿をその農家の家に求めた。

その後、村人は憎が村から出て行った姿を見たものがいないと噂しあった。後に、火打山の沢に死体があることがわかり、村役人より片付けを命じられた村の当番達が死体を取り調べたところ、僧が焼火箸で刺し殺され、小松沢の奥でだれとも面相の判らないように、面の皮を剥ぎ、隣の沢に棄てたのだろうということになった。

その後、一方の沢を面剥沢といい、遺体を棄てた沢を死人沢と呼ぶようになったといわれる。

新潟県

 

西蒲原郡巻町

西蒲原郡巻町の角田浜海水浴場に入り左側へと進んで、道路の下をくぐった辺りにあります。
登山口周辺、通称”白い家”も忌み地です。
この建物には様々な噂があり、別荘で子供が重度の精神病(もしくは霊に憑依された状態)を世間から隔離するために建てられたといいます。
子供の霊障があまりにも重いため、地下室(または2階)に幽閉しましたがある日、幽閉されている子供が家政婦の隙を見て逃げ出し、父親の猟銃で家族を射殺したとか、一家心中をしたという話もあり、その後も、住み着いた若者が警察隊に射殺されたという話が跡を断ちません。建物は鉄格子が嵌められており精神病院跡ともいわれていますが、真偽の程は不明ですが新潟放送では今まで何度か霊の溜まるスポットとして報じられています。

 

新潟市学校町

新潟市学校町にむかし、戌辰戦争の軍事裁判で有罪となった幕府軍将校の刑場があって、切断された首を洗ったとされる井戸があり、今も忌地になっているとか。

東京都

倉戸(クラド)

祟り山
東京都奧多摩町氷川より小河内ダム周囲

奥多摩第2駐車場から仰ぎ見る倉戸山。その裾に当たる現在のバス停付近は、かつて悪い事がある場所として近在に知られた祟り山である。
昔、何者かが炭焼き窯の中で死んでいた。
その霊を祀るために碑を立てたが、誰が作業をしても怪我をしたり、火を出したりと非常に不首尾な事が起こる。
今もってジメジメした寂しい北面の山側で、もとは個人持ちの山で幾人もの手を渡り歩いたが、最後に埼玉県入間の医師が所有した後に都が買い上げ、公園管理団体のもとに置かれている。

 

六本木六丁目六番地、某ヒルズのあるとこ

実は旧墓地跡です。また江戸城の裏鬼門にあたる魔道にも当たっており、住人にきいた話では何か得体の知れない現象をみまわれた事があるということです。
この前のGWに、香港の地元番組を見ていて、方位学上、建物自体呪われているといってたのを覚えています。正面玄関が北東(鬼門)に当たるのは致命的で様々な禍つ神が溜まってしまう構造になっているとか。
夜の毛利庭園は気をつけましょう。

 

東京都多摩市連光寺の某所

もと墓地の跡と言われている。この土地は昔より持つと所有者に
悪い事があり、長く持っていた人がいない。
今もいる人で若い嫁を亡くし、その前に住んでいた人は子供が
みんな亡くなってしまった。それ以前は寺方の持ちものだったという。
またある某家では先祖が請け負った仕置き場があり、そのための小屋が
あった跡が悪いという。
土地が安いので、知らぬ人はみな買うのだという。

 

東京都多摩市南貝取

とちのき公園は以前、栃ノ木谷戸と呼ばれる魔所であった。
事故の多い場所で、以前ここに栃○という家があったが絶えてしまい、その跡地を買うと良くないと言われていた。

 

東京都多摩市落合

厳耕地(ゲンゴウジ)という広い農地があった。
ここに佐五右衛門という男が屋敷を構えていたが、ある時ゲンゴウという法印が訪ねて来、理屈を並べて泊り込み、そのまま居付いてしまった。
そのうち佐五右衛門の女房と良い仲になり、主人に酒を飲ませて井戸に放り込み殺してしまった。
その後二人は磔にされ、死体は同じ井戸に放り込まれた。
跡地は畑になり、安く売りに出ていたが、町田市小山田の某氏が所有者になったところ、悪い事が続くので石碑を建てたという。
後に整地された。大○証券多摩総合研修センターの辺りだったという。

 

東京都町田市小山町

相原町との境付近で、町田街道より百メートルぐらい登った丘の上に台地状の畑地がある。
昔大きい屋敷があり、栄えていたが何かの理由で滅亡してしまった。
他所から来た者がこの土地を手に入れたが、忽ち災難が相続き、占者に観て貰ったところ、敷地内の石の祟りだと言われた。
家も全て取り払われたが、この石だけは今も畑の中にあるという。

 

居合澤(イヤイザワ)

倉戸山の奥手の祟りある山で、永い間に木の葉が深く積もってブクブクとしている陰気な沢である。
戦前まで此の沢で材木の太いやつ程もある蛇を見た者がいた。
また、頭が尾羽の方にも付いている山鳥が住んでいるといい、炭焼きは入ったりするのさえ嫌がった。
ここは元の地主が祟ると言われ、ある一家が買ったところお祖母さんがランプを灯すのに失敗し、体に火が付いて亡くなり続いて孫も火傷で死んだという。
人の手を渡り続け、都の所有になる前には薪炭組合の所有になっていた。

 

町田市山崎町

昔、ここに(勘松の田地)という耕地があった。
山崎勘松という眼病で失明した者がいたが、親より与えられた田畑と財産を兄に奪われたのを契機に諍いが起こり、兄の逆恨みから謀られ、検校への道も閉ざされてしまった。
勘松も素行の悪い者であったが、村中を怒り喚きながら最後は自宅で縊死してしまった。
その後兄の一家8名が次々に急死し、勘松の田地は怖れて誰も手を出すものはいなかった。
近年になって、○中○四郎という人が理由あってここを買い取ったところ、たちまち重病に罹り、子供らと協議の上、上小山田の養樹院に納めて勘松の供養をしたところ、全快したという。

 

町田市根岸町

日向根トンネル(日向根隧道)の付近を崖根(ママネ)と呼び、昔より怪しい事が多い場所だといわれてる。
隧道ができる以前は、今より雑木が繁茂する暗い崖地で、中世の横穴墓などが発掘されたりしていた。
境川に面した日向根部落のある老女が、近在の法事に出た晩にここを通りかかると、背後で大勢の男の声が聞こえたという。
ここに「ナンジャモンジャ」と呼ばれる樹があり、区画整理の工事で伐ったところ、木の根が数枚の板碑を抱えていたといい、地域の有志が堂を建てて合祀してある。

 

御霊の尾根(ミタマノオネ)

海澤の東側の山続き、大岳山から北へ抜けた大楢峠から城山の間にある。
山の形がイハイに似てるので位牌山とか御霊山とか呼び、非常に悪い処だという。
この山に自害沢(ジガイサワ)と呼ぶ沢があり、その昔日本武尊が従者を十人連れてここまで来たが、何かの理由で従者たちが自害してしまった。
又は、自害したのは旅の六部とも平家の落人ともいう。
その祟りでか、この自害沢に入って作業(山仕事)をした者は、山の中で必ず死ぬ。それでここに入って死んだ者が出た家から位牌が出るから。
位牌指(イハイザス)とも呼ぶ。
以前、ここに従者十人の位牌が飾ってあったという。
所有者が??指(タカザス)と名を変えたが、誰も買い手がないので都に売却し、今では奥多摩記念林の一部になっている。

 

死に山(シニヤマ)

東京都稲城市。これは東京都だが、裏手の川崎市麻生区細山と山続きなので加えさせてもらう。
東京○みうりカントリークラブ付近にあったと思われ、山仕事の人が怪我をしたり、死んだりした山だという。

 

天蓋山(テンガイヤマ)

海沢の北にある600余米の高さの山で、山頂近くは誰も入らないので雑木が茂っている。
昔の野辺送りに棺の上にかざす「天蓋」そっくりの形をしている。
タツガイトとも呼ぶ人もいる。
この山は買う者、売る者、木を切る者に悪い事があるという。
上坂の人が買う算段をしていた時、三つになる子供が囲炉裏で火傷し、経過が悪くて亡くなってしまった。
天蓋山には庚申が祀られているが、この庚申様が火傷させたのだという。

 

病ヶ沢(ヤマイガサワ)

日原、川苔谷の支流、逆川の奥にある。
周囲はかなり広い手付かずの山林で、昔、ここに宿っていた法師が命を捨てた所だとも、落人が逃げてきて首を斬られた所だともいう。
ここで一山買ってのべつに仕事をすると必ず病気に罹ったり死人を出すという。
眼患に罹り、「銭ばかり掛かる」と言う人もいた。
町が買い上げ町有林になり、名前も(病まぬヶ沢)にしたが、誰も山仕事に行かぬという。

 

骨窯(コツガマ)

病ヶ沢(ヤマイガサワ)の川向こうにある所で、そこで炭を焼くと死ぬというので誰も木を切りに行かない。
太い楢がツクツクと生えていて陰気な所だという。
他にもカワナの屋敷地、または屋敷谷戸(ヤシキド)ともいう皿の割れた物が出る場所もあり、理由は分からないが悪いところなので小屋掛けをしたり、作場をきる事はしないという。
カワナの屋敷地に小屋を掛けたら、天狗に小屋ぐるみ揺すられたので以後は行かないという人もいる。

 

食わない作り(クワナイヅクリ)

日原川沿いの大澤部落の山の上にあり、ここでいくら耕作しても食えずに死ぬという。
以前、ここに金剛寺という寺があったという。個人持ちの山だが短期間に何人もの持ち主が変わっている。

 

位牌山(イハイヤマ)

大澤地区と同じ日原川沿いの寺地地区にある。
裏手の峰畑では塔婆山(トウバヤマ)とも呼ばれ、位牌の形だ、塔婆の形だと言ったりしている。
昔、炭焼き小屋に法印様が泊ったが、貧困に喘ぐ炭焼きが金欲しさに殺してしまった。
あるいは栗拾いが法印をヨキ(斧)で殺したともいうが、兎に角それ以来祟る山になったという。
大体買主に祟るが入る者にも良くない事があり、九人でそれぞれ炭を焼いたらどの窯もみな火が消えたという。

 

位牌平(イハイデーロ)

青梅街道を奥多摩駅からダムに向かった先、境地区にある。
元は子安平(コヤスデーロ)と呼んだが、何か良くない事がありそう呼ぶようになった。
祟り山で作場を作ったりするのを嫌う。
この付近では入ったり炭を焼くのを忌む場所は他にも多く、それらを皆、地獄谷戸(ヂゴクト)と呼び、誰かが仕事で怪我か死亡した場所であり、人名を冠して誰々ヂゴクと呼ぶ。

 

位牌窪(イヘークボ)

御前山の北西を下るミズクボ沢がダムに流れ込む辺りをいう。
昔、伊平という炭焼きが窯に火を入れていたが、山崩れで窯と一緒に樹の下敷きになって死んだ。それ以来ここで木を伐ると怪我をしたり、呼んだりするので気味悪がって山仕事をするのを嫌うという。
湖岸道路に面しており、今では林業作業車やブルドーザー
が唸りを上げて稼働している。

 

生首(ナマクビ)

六ッ石山へ向かう途中の集落、水根にある祟り山。
昔からその山を買うと身体から首が離れるような事になる
いわゆる斬罪、獄門首になる)といわれ、誰も買いたがらない。
新梨尾、出野萱の両方も祟り山だと言う。

 

北蓑戸(キタミノト)

奥多摩周遊道路のダム側ゲートを過ぎて数キロ行くと交差点があり、山の「ふるさと村」に向かう道がある。
ここよりふるさと村へ数百メートル進むと一本目の橋がある。
「北蓑橋」・・・。
この辺りは昔、糠指(ヌカザス)といい、北蓑橋の下を流れる谷を着タ蓑戸(キタミノト)と呼んだ。
昔、ある夏の雨の降っている日、ある人がここで炭を焼いていたが、眠り込んでしまい、着ていた蓑に火が付いて焼け死んでしまった。
それで「着タ蓑」と云う名前が付いた。
ずっと昔の事で、それ以来この山に入ったり、所有者になると必ず不幸があるといわれた。
蓑を焼いて死んだ人の次の持ち主は火傷で死に、南集落(現在矢久亭のあるところ)のある人はここで狸に化かされ、裸足で歩き回りながら死んだりしたという。
埼○銀行某支店の頭取が持っていたときは子供が次々に死亡し、支店の経営も上手くいかず財産が1/10になってしまった。
また、ここで働かせていた林業労働者が崩落で6人死亡する事故も起き、とうとう困り果て塔婆を建てて捨て値で売却した。
以後も人手を転々とし、最後に鳩和木材株式会社から都に買い取られ、今では何も知らないレジャー客を呼び寄せている。

 

新発意(シンボチ)

北蓑橋の先、「山のふるさと村」のある辺りは岫沢(クキサワ)と呼ぶ地区である。
実は此の場所も、以前は新発意(シンボチ)と呼ばれる祟り山であった。
新発意(シンボチ)というのは浄土真宗などでいう若年の遊行僧で、それが何かの理由でここまで来て死んだ場所でといわれている。
雨の降る時は出てきたという話が残っており、シンボチ小僧がいるなどと言われていた。
またここで作場を切った人が猪を追うための小屋を掛けていたが、その猪に当たって死んでしまった事もあるという。
南地区(矢久亭や深山荘のある場所)の人が持っていたが、その家には馬鹿(精薄)・気狂い・目ッカチ(片目)の子が生まれたり、首を振る婆さんが出た。
それでもまだ持っていたら遂に破産してしまったと、此の付近の老人はどこでも知っている。

 

児沢(コサワ)

「山のふるさと村」のレストハウスの直ぐ先にある沢で、昔は良いワサビが採れる田があった辺りだ。
他の所では絶対に見られないアヤメが咲いているので、誰かを葬って植えたのだろうという。
今までに山仕事で二人程死んでいるほか、炭を焼くと必ず不幸があるといい、ある人は両親と妻の三人をいち時に亡くしたという。

 

種ヶ岩(タネガイワ)

都民の森として整備された三頭山のどこかにある岩で、この岩の横の窯で炭を焼くと、火の中に頭を割られた男がじっと睨んでいる。
昔長野から山梨まで種売りに来た男が、残りを桧原で捌こうとここまで来たところ日が暮れ、炭焼き窯の側の岩で野宿をしていた。
早朝に炭焼きがやって来て、売上金欲しさに殺して窯で焼いたのだといわれ、ここでは炭を焼かない。

 

江戸崎町の潰れ屋敷跡

昭和の初め頃、江戸崎町松山で「良い売畑がある」と持ち掛けられた人が、下君山の羽黒にある20ヘクタール程の桑畑を購入した。
ところがそれより、次々にその家庭に不吉な事が起き初めた。
主人が飼い馬に足を踏まれ足指を切断したり、娘が鬱病に罹り自殺未遂を起こしたりと祿な事がない。
困った主人が近所に住む老人に洩らしたところ、意外な話をされた。
昔その畑に百姓家があり、高持ち(土地持ちの豪農)だったという。
その家敷でゴゼを泊めたところ、稼いだ銭を沢山持っていたので風呂に入れ、湯船に漬けて殺して敷地に埋めたのだと云う話だった。

ある晩、隣の嫁がこの屋敷に風呂を貰いに行ったが、風呂の蓋を取ると火の玉が一杯に入っていた。仰天した嫁が風呂掻き棒で思いっきり叩いたところ、あたり一面に火の玉が散らばり火の海になった。
恐ろしくなった嫁は夢中で逃げ帰り、布団を被って寝込んでしまった。
そんな事があって以降次々に悪い事が起き、ついに潰れた屋敷跡なのだった。
それを聞かされ驚いた主人は、地続きの家で売ってほしいと話があったのを幸いに、大分損を承知で売り渡した。
その後、嘘のように凶事が治まり、娘の病気も治ってしまった。
ところが一方、買った家では主人が胃癌で急死。倅は若くして中風に罹り、不幸が次々に襲ってきたという。
堪り兼ねたその家でも、小学校の移転先の用地を町が探していると聞き、売却に成功してからは平穏無事だという。

千葉県

 

千葉市緑区おゆみ野【首塚】

近代的ニュータウンが広がるおゆみ野・ちはら台であるが昔はうっそうとした山野だった
その昔、落ち武者がこの地でつかまり首を切られたという
この塚の近くに沼田があったが、これを耕すものは家が絶えるといわれていた
昭和30年ごろ、この沼田を耕していた家があったが、怪死する者が続いたため所有者は耕作を放棄したという
ニュータウン開発が始まるまでは荒れるに任せており、薄気味悪い祠があったという
現在はニュータウン開発に伴い、場所がわからなくなっているが、
鎌取駅のやや北にあったそうだ

 

千葉市緑区おゆみ野【ショーエモン田】

ショーエモンというのは天保年間実在した人の名前という
昔、この田はある一家が耕作していたが、流行病で娘をのぞき全滅してしまった
欲深いショーエモンはこの娘を言いくるめてこの田を取り上げた
将来を悲観した娘は気が触れて行方不明になったという
この後、ショーエモンの一家では怪死する者が続き、絶えてしまった
これ以後も、この田を耕作する者は一家全滅などの目にあったという
おゆみ野・ちはら台開発に伴い田のはっきりした所在地は不明だが○○公園のぬかるんだ池近くだといい古くから住む住民はこの地を忌み嫌っている

 

千葉市緑区おゆみ野【けち筋】

下○療養所がある岡ににあったという小道
由来はわからないが、夜この道を通ると悪い物に憑かれるとか
この筋に家を建てるとよくないことが起こるという
戦後某家がこの付近に家を構えたが商売に失敗するなどし、結局一家離散の憂き目にあったそうだ
千葉東金道路を横断するように走っている道のことだというが誉田駅付近にあったともいう

 

市原市新堀【病田】

この付近の耕地は区画整理され整然としているがこの田の近くだけ手をつけれずに残っている
ある人がこの田の近くで自害したといわれ
以後この田を耕作する者は病にかかったといわれている
市原市五井よりでる小湊鉄道が建設されたとき
予定ではこの田を通っていく予定であったが因縁を知って急遽建設予定が変更になったというはなしがある

 

千葉市緑区誉田【やくしん田】

昔、この田は池でありやくしん池と呼んでいた
この池の近くに薬師堂があったのでやくしん池と呼ばれたという
明治初期、ある一家がT氏に土地をだまし取られて、この池に身を投げて死んでしまった
以後、この池は縁起が悪いとされ、この池の水を使って耕作するとたたりがあるといい
忌み嫌われていた
戦後、区画整理でこの池はつぶされ田んぼになったがやくしん田と呼ばれ、この田を耕せばたたられるという
現在はこの一角だけ荒れ地になっており所有者は耕作を放棄しているようだ
T氏は実在の人物であり、戦前は地主として権勢をふるってきたが戦後の農地解放で没落した
この一家の子孫は結局変死や自殺が続き、絶えてしまったが「やくしん田のたたりだ」と噂されたという

 

千葉県東金市【なら藪】

某住宅地付近の、竹藪の生い茂る小山のことをこう呼ぶ
江戸時代末期に、この藪である人が斬り殺された
以後、雨の降る夜にこの藪を通ると怪異に遭うとか
この藪の竹を使うと親の死に目にあえないといって嫌われている
また、この藪の所有者は早死にするといい所有者も転々と変わっている
藪の中に朽ちた祠があり、現在も所有者が年一回お参りをしている

 

千葉県君津市【いん田】

いん田というのは忌み田のことだろう
ある親子が言い争いをして、子が親を鎌で殺してこの田に遺体を投げ込んだ
以後、この田を作る者は祟られるといい、村の共同所有地になったが、それでもこの田を作る者はいなかった
区画整理で、現在は正確な場所はわからない

 

千葉県袖ヶ浦市【郷橋】

小櫃川に昔かかっていたといわれた橋
ある人が酔ってこの橋から落ち、溺死してしまった
その後、夜通ると憑かれるといい、結婚の列がこの橋を通ると別れ、葬式が通ると家族にも死人がでたといい忌み嫌われた
現在この橋はすでにないが、橋の後は残っており地元の人は冠婚葬祭時、この橋付近を避ける

 

千葉県君津市【三郎が窪】

ご多分に漏れず?ある新興住宅地付内の窪地
現在はグラウンドとして使われている
三郎という人が隣人との諍いの末殺され
この窪地に死体が捨てられた
以後、この窪地は縁起が悪いとされ、放置されていた
高度成長期にデベロッパーが地元の業者を使いこの付近を開発した際
地元の業者は、この地だけは手をつけるなといっったという
窪地で、近くに調整池があるためか夏場は特にむしむしするこの地を元の人は嫌っている

 

千葉県袖ヶ浦市【ごじゃぬ田】

名前やいわれははっきりしない
この田の所有権を巡って兄弟が争った末、弟が兄を殺したという言い伝えがある

この田の近くにあれた岡があり、昔は塚だったという
坂口の家が3軒になったらこの塚を掘ってみよ、骨がでるからという言い伝えがある
この田を耕す者は早死にするという
交差点近くのコンビニの横の田んぼのこと

神奈川県

 

入いらずの森(イラズノモリ)

川崎市多摩区生田にある川崎市水道局生田浄水場散策道のことであり、こんもり木の茂った陰気な手付かずの森である。
第六天の祠があったといい、土地に昔から住む人は立ち入らなかった。
浄水場建設の際、怪我人が多数出たという。

 

穢地山(ケガチヤマ)

川崎市麻生区万福寺。博打打ちが仲間に斬り殺されたためになった山だといい。
持てば持ち主に祟るという。
柳田によれば、ケヤマのケは(物の怪)のケというが、ここでは穢れた場を意味する。

 

癖山(クセヤマ)

川崎市麻生区金程。ここも公園化されている。
「あの山はクセが悪い」
などといい、誰も買うのを嫌ったためという。

埼玉県

 

東秩父村坂本栗和田

栗和田地区近くに「リュウホウの山」、あるいは「リュウホウ院の山」と呼ばれる山がある。
これも付近ではよく知られた「ケヤマ」の一つで、その昔山中に「リュウホウ院」という寺があり、この寺のあった場所の木を伐った者には祟りがあると伝えられ、今も所有者になると必ず家に祟りがあるとされている。

この地域には、豊臣の関東攻略の果てに落城した松山城の上田家の家臣を先祖にもつ家もあり、氏神として八代竜王を祀る家が数軒ある。
「リュウホウ院」と関係があるかは聞かないが、上田家所縁の日蓮宗系の寺院にありがちな山号ではある。

栗和田付近は県道11号線から秩父高原牧場に上って行く途中の閉鎖的な感じの集落で、明るく開けた山上の牧場とギャップがある。

 

血洗島(ちあらいじま)・埼玉県深谷市

その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説がある。

 

行田市 「小埼神社」

小埼沼の傍に建つ、古い神社。境内に生えている草1本抜いてもいけない。
枝も切れないので、荒れはてている。たたりがあるためだが。

 

埼玉県入間市野田方面

昔、入間川の氾濫が多発し、村民全滅、廃墟となる。
それを知った役人が治水工事を名目に罪人と土着渡来人を集め、自然殺害。
その後、被害を免れた者達が密に暮らし、役人に漏れ無い様に『忌み地』とした。
今も住人の大半が同姓で排他色が強い。

茨城県

 

牛久市奥原町

ここにかつて薬師寺、地蔵院の二寺があった。
この寺は修験道の寺院で、明治維新の際に廃寺となり、その持田は民間に払い下げられることになった。
地蔵院は持田40ヘクタール余り、地味も豊かで収穫も良かったが、なぜかこの田を作ると凶事が起き、地元の人は誰も作る人がいなかった。
人手を巡り、多村の者なら障りなかろうと買った者がいたが、やはり凶事に悩まされ手放したと言う。
薬師寺は持田50ヘクタールほど有り、古文書によれば旧藩士に払下げられた後に次々と持ち主が代わり、ある家では長男・次男と続いて事故死したという。
安値に釣られて買った竜ケ崎市内の不動産屋が、たび重なる災難に困り果て、某寺院に寄進してしまった。

 

女化(おなばけ)・茨城県牛久町

キツネが若い女に化けて恩に報いたとするこの伝説から、この地が「女化町」になったという。

 

龍ケ崎市八代町下入代

県道潮来線に、十三角田という田があった。
この田がなぜ忌み田になったのかは定かでない。
葬式の十三仏と田の角の合計が同じだからと言う者もあるが、理由ははっきりしない。
この田を耕作する家には次々と凶事が発生し、永い間荒れるに任せていた。
しかし終戦後の食糧不足と米価の高騰に耐え切れず、この田を耕作する人があった。
この家では間もなく、倅が土方仕事に出てガケ崩れで生き埋めになり死亡。
親父は急に田を手放したくなり、他の人に貸して作らせたら今度はその家で主人が胃ガンで死亡。
家族にも次々と病人が絶えないので遂に放棄した。
荒れ果てていたが耕地整理が進み、今ではどの辺にあったかも判明できなくなり、地主が元の場所あたりを配分され引き受けた。
地形が変わったためか、今では無事だと言う。

 

新利根町芝崎

芝崎の水道という所に、約1ヘクタール程の田があった。
形が出刃包丁に似ていると言うので「出刃田」と呼ばれ、ここの田を耕作すると災難が来ると恐れられていた。
これまで何人となく作る人がいたがすぐに止めてしまい、荒れるに任せていた。
昭和十年頃、河内町下加納の人が作ったところ、間もなく火災に遭って自宅を全焼してしまった。
現在は農地構造改善事業によって所在不明となった。

新利根町曽根の河内屋堤

承応三年、常陸川筋の河道が整備され、利根川の東移が実現したが、この成功により幕府は、関東郡代・伊奈半次郎、大目付・高木伊勢守に命じ、延長約三五キロメートルの新利根川が開発が始まった。
数万ヘクタールの新田開発のため、利根川の水流を利根町で締切り、新たに流路を北に替えたのである。しかしこの新川は勾配が急であったため、沿岸の村々の大水害を招いてしまった。

このため利根町押付から東村押堀に至る新堀堀削工事する事になり、寛文三年、大阪の豪商・河内屋治兵衛、並びに京都の豪商・伏見屋が工事の請負に当たる事となった。
南堤側の普請、伏見屋は工事が順調に進んだが、北堤を請け負った河内屋は、草が枯れて出来た特有の「ケド土」という土層に突当たり、あらゆる工法を用いても一夜で跡形もなく堤が流されてしまった。
迫る工期、資金の欠乏。重なる心労の末、河内屋は現在の新利根町曽根付近に建てた仮小屋の中で、無念の最後を遂げたという。
その後、この河内屋堤の後は田となったが、耕作すると祟りがあると怖れられ、貧しさに手を出す農家も永くは作ろうとしなかった。

堀川地区に終戦間もない頃、河内屋堤の跡を耕していた家があった。
ある日、父と息子が口論となり、息子が出刃包丁で父を刺し殺す事件が発生した。
この家は現在絶えて、家族の所在を知る者はいない。
この他にも耕している家があったが、余り良い話は聞かないと言う。
いま河内屋の墓地は、新利根町曽根の村道にヒッソリ建っている。

 

新利根町下太田

昔、京塚という小さな塚があった。その一帯は京塚という地名である。
外部から移り住んだ者が、いつの間にか平らに均して屋敷にして使用していたが、娘が若くして癌で死亡したり凶事が続いたという。

 

新利根町堀川

弁天堂の持田で弁天田というのがあった。作ると病気や怪我が絶えないといわれていた。現在、耕地整理で消滅した。

 

新利根町寺内上ノ原(病人畑)

旧阿波街道の道路沿い、窪地で昔から耕作すると災難があると言われていた。
地主が数10年前まで作っていたが、現在は休耕となって篠が生えて放置されている。

 

東町釜井(薬師田)

国道294号、釜井駅バス停付近に昔、薬師堂が建っていた。
免地30ヘクタールが民間に払い下げになったが、病人が出ると言われて荒れていた。現在、国道用地と住宅地になっている。

 

東町伊佐部

ここに塔婆の形をした田が5枚続いてあり、塔婆田と呼ばれていた。
この田を作ると祟りのために家から病人・気狂いが出ると言われ、誰も耕さず荒れていた。現在は耕地整理で均されて消えた。

 

東町阿波崎

万願寺下に女郎塚という小さな塚があった。女郎田と呼ばれ、ここを耕作すると悪い事が続いて発生し、誰も作らなくなった。

 

東町阿波崎

墓場田と呼ばれ、元は墓地であったが改葬されて田にした場所で、深く掘ると人骨が出ると言われている。
ここも作ると怪我や病人が絶えず、永く作ろうとする者はなかった。

 

東町市崎(ショウズカ婆の田)

昔、雪の降った翌朝、一人の女が行き倒れになって凍死していた。
ここの田を夜通るとお化けが出ると言いい、子供は夜になると通らなかった。

 

東町大沼上池

四枚で20ヘクタール程の田で、首切田と呼ばれている田がある。
昔、日照り続きで凶作に喘いだ時に、隣りの田の持ち主と水を盗んだ盗まないで争いになり、持っていた鎌で相手を斬り殺してしまった。
その後、その田は祟りで災いが起きると言われ荒れ果て、水が溜まって池のようになっている。

 

江戸崎町松山

明治の廃仏令で無住のまま立ち腐れになった廃寺跡で、50ヘクタール程の宅地であるが、しばらく身寄りのない老人が一人で生活していた。
老衰で死んだ後は村で無縁仏として埋葬した。
その後、誰もここに手を付ける者はいなかったが、作業小屋を建てて利用した人が子供を癌で亡くし、続いて妻が自動車事故で亡くなるなど悲劇が絶えなかった。
この家では年に何回か土地の供養を行っている

 

江戸崎町松山

鹿島神社の近くの三又に道祖神の石祠があり、(やしんほ道祖神)と呼ばれている。
(やしんほ)とはいやしん坊の事で、何でも欲しがるという意味である。
酒を供えて願を掛ければ利益あるというが、たとえ篠竹一本でも取ると祟りがあるということで荒れ放題であった。
特別信仰の厚い人が供養の上、清掃して綺麗にした。

 

江戸崎町松山

底なし田。これは元、東光寺の免田であったという。
底知れずの深い田で、怖れて耕作する者がいなかった。
ある家で作ったが、妻は病気がちで夫は働かなくなり、家庭不和で若くして夫婦とも病気で亡くなった。

 

龍ヶ崎市愛戸町

愛戸に昔、般若院の病人田と呼ばれる、真中に松の木が生えている田があった。
一年中陰湿で下草は茂り放題。白い蛇が出るといって近寄る人がなかった。
ここを作った家では気狂いが出たり、病人が絶えなかった。

 

利根町羽中

病人田と呼ばれる田が白鷲団地の方にあって、深い田の真中で女の笠だけが浮いていた。
笠を被っていた女が、田植えの最中沈んでしまったといい、この田を買うと悪い事があるという。

 

利根町羽根野台

羽根野と早尾の間に城山という寂しいところがある。
昔、喧嘩で誰かが殺された所だという。
景気の良い人が買ったところ、良くない事が起きたという。
また、切腹山という場所もあり、武士が10人余り自害した所だといい、ここを持つとやはり良くないという。

 

龍ヶ崎市羽黒町

羽黒町から利根町の羽根野にいく道は、昔は昼でも寂しい所だった。
羽黒には大きな木と石を祀った神様があり、誰もさわらない。
やれば必ず病気になると言われ、周りが宅地化された今でもそこだけ残っている。
土建業者もよく知っているので、ここは手を付けない。

 

龍ヶ崎市長沖町

首切り田というのが長沖町のシンタクの田にある。
長沖町の幼稚園の先の辺りだといい、昔は畑で首切り畑と呼んだが元は処刑場(首切り場)だという。
昭和10年に耕地整理の際、そこを田にして作った人が1年で死んだという。
その他、長沖には位牌田といい、寺の持田だった田が2~3ヶ所ある。

 

龍ヶ崎市古城

城山から利根町奥山の観音様に抜ける道は、上がり坂で馬坂と呼んだ。
現在の龍ヶ崎潮来線の一部であるが、その近くに城根と呼ぶ場所がある。
昔、龍ヶ崎城と奥山城の戦いがあり、奥山城主敗退の際に流れ矢を受け死んだ場所だといい、作った人は必ず田の中で死ぬという。
現在は龍ヶ崎二高の一部になっている。

 

龍ヶ崎市川原代町

西道内に稲荷のある篠藪があり、女が夜通ったところ、人の首だけが出たという。

 

龍ヶ崎市下町

代官畑というのが下町の南にある。
旧幕時代、代官の次男がその畑で働いていた娘に言い寄ったが、拒まれて恨みに思い、罪に落とし入れた上に虐殺してこの畑に埋めたという。ここを耕作すると不幸になると言われている。
父親の代官も暴政を振るった者で、訴えに来た村民を投獄しては獄死させたという。

 

龍ヶ崎市下町

鏡田という2ヘクタール程の田が、上町と下町の境にあった。
色々言われているが、大体次の2通りの話がある。
○昔、ここの農家に非常に顔の醜い娘がいた。家人は娘に鏡を見せずに暮らしていたが、ある日田に映った自分の顔を見て驚き悲嘆し、田に落ちて死んだとも、自殺したともいわれている。

○並木の所に店があり、下女に顔の醜いタケという女がいた。
毎日田んぼで化粧をしていたが、ある時主人に(悪戯か、故意か)
後から押され、田に落ちて気絶して死んだという。

この田を作ると凶事が起きると言われていたが、戦後ある菓子メーカーが付近一帯と共に購入、工場を建てた。
当初は経営が上手くいったが、何年も経たずに倒産してしまった。
近所の人は、やはり良いことがなかったと話したという。
現在は幼稚園になった。

 

龍ヶ崎市宮淵町

昔、ここの内野という所に、祟りがあると嫌われる病人田があった。
アヒル小屋と言われてアヒルを飼っている家があり、そこの者が耕作したところ病人や怪我人が絶えず、困り果てて作るのを止めた。
農地構造改善事業で今はない。

 

龍ヶ崎市貝原塚町

昔、根町の般若院がここの篠藪で覆われた荒れ野にあったと言われ、大きな塚が寺領の片隅にあったという。
般若経をこの塚に埋めた場所で、祟りのあるとする藪畳だった。
龍ヶ崎ニュータウンとして宅地開発され、消滅した。
発掘をした担当者が事故で怪我をしたという。
また、ニュータウン用地となった場所には念仏塚という塚もあり、経石が籠一杯出たが、掘った者に不幸が起きて又埋め戻したと言う。

 

龍ヶ崎市宮渕町

堀田と呼ばれていた地区に、江戸時代の総代名主の屋敷跡があった。
御白州もあり、罪人の仕置きも行われた場所で、昔は蔵からお化けが出るとか女の泣き叫ぶ声がするという噂もあった。
近辺住民の子供らなど、夜は恐怖していたらしい。
ある家で次男が分家の際、この跡地の一部を買って家を建てた。
すると夜は夢の中に恐ろしい姿の人や光景が出て悩まされ、とうとう精神を患い入院してしまった。
人に勧められ、お寺で供養してもらってからは平穏無事であるという。

 

牛久市島田町

かろうど畑という畑が鹿島神社近くにある。
この地域の人などによく知られた祟りある畑で、昭和50年頃までは一人暮らしの老人が野菜を作っていたが現在は荒れている。
付近の人は貰ってもいらないと忌み嫌われている畑で、幾人もの人を不遇な目に遭わせてきた話がある折り紙つきの因縁畑である。
「かろうど」とは唐棺の事だと指摘する人もあり、昔は古墳があったといわれている。
以前まで畑の中に藁で出来た粗末な祠があったらしい。

 

牛久市島田町

小野川の土堤に近い場所に薬師様の田というのがある。
以前ここに薬師堂があり、地元では祟りがあるとの事で誰も作らなかった。
20年程前、龍ヶ崎市大塚町の青年たちが何かの資金稼ぎの為に共同で作り始めたが、先立った者が何人か死ぬという事故が起き、そのまま耕作を止めてしまったという。

 

龍ヶ崎市若柴町

ここにも薬師様の田んぼといわれる田がある。
大羽谷津の松原近くにあり、この田に入るとデキ物が出来るといってタニシ取りになど行かなかった。
(利根流域は住血吸虫の害があった)
この近くには昔化け物がよく出たといい、ある人が刀で斬ると消えてしまった。
血が流れていたので跡を着けてここまで来ると、古道具を埋めた所だった。
掘ったら刀傷のある箪笥が出てきたという。

群馬県

 

古戦場跡

群馬県の神流川の近くには、首塚八幡宮、胴塚稲荷という滝川一益と北条氏直の激戦の戦死者を祭っていますし、有名な関ヶ原古戦場の柴井には西首塚(胴塚)があり、JR東海道本線の敷設の際、埋葬者の白骨が相当量出たといわれており忌み地です。
八王子城のある高尾山も前田利家、上杉景勝らに率いられた豊臣勢3.5万が落として後北条小田原本城勢に大きな衝撃を与えた地ですが、屍が山を覆った八王子城跡は里人が恐れて足を踏み入れるのを嫌う忌み山になっています。

しかし、首塚八幡宮では頭の病気や怪我にご利益があると知られ、参拝者も多く一概に忌み地・忌み山はマイナスの性格だけを持つものではありません。

忌み山も多くは、奈良吉野の妹山のように、859(貞観元)年前に大名持神社が山腹にまつられてから、周辺地城の人々の崇敬をあつめた忌み山として入山を禁止されてきたような信仰の山、神体山としての性格から畏れられた為で、信仰上のご利益はあったのです。
奥多摩のお話も日原川、巳ノ戸谷周辺にある「忌山御前」にまつわる伝説が元になっている話であり、山神に悪事なす行いをしなければ、そう怪異を招く事はありません。すべては人の業だと思いますね。

静岡県

 

吉原市江尾町(現在の富士市)「ごぜの森」

森と云っても直径20mほどで、雑木や雑草が生い茂っている。
その昔は天狗が住んでいて、夜になると時々怒って、木を嵐の如く揺らしたという。また、ある者が森に茂っていた草を刈って持ち帰る途中、僧に「その草は森へ返せ。後の祟りがひどい。」
と言われた。気に止めずに持ち帰ったところ、その年より不幸な生活を送るようになった。
住民は今でも祟りを恐れ、そばを通るのも気味が悪いという。

 

静岡県駿東郡小山町一色に椿畑という畑

秀吉が北条氏を攻めた時、この付近にあった北条方の下古城(シモフルシロ)が落城した際城主の妻のお椿さんという方がこの畑で自害したらしいこの畑は生姜を作っていたが自害したあと生姜を収穫すると血のように赤くなったらしくそれ以来この畑では生姜の栽培が禁じられている。
現在畑の傍らに椿大明神の祠が祭られている。

 

静岡県駿東郡小山町竹之下

帝釈天さんの森 入ると祟られると里人が恐れている 竹之下合戦の犠牲者の塚か古墳ではないかと伝えられでいる

 

静岡県浜松市三ヶ日町鵺代

誰が住んでも1代続かない、祟り地があります。
昔、ここで惨殺された巡礼達の怨霊であるといわれており、石垣や門は残っていますが荒れ放題のままで、町民は近づきもしません。

 

静岡県相良町黒子「翁橋」

蛭ヶ谷川に架かるが、この橋の付近では「ぢんぢん川」と呼んだ。
狐狸か妖怪か判らないが、夏の夜などに
みすぼらしい身なりの老人が現れたり、川土手の草が綺麗に刈り取られていたり、
痩せ細り青白い顔をした怪物が、もの凄い形相で研ぎ澄ました鎌を持って
現れたりした。
老人→じじい→ぢんぢんとのこと。

爺さんは濡れ衣のような気もしますが。

 

静岡県相良町西萩間「万法印」

丸尾原へ上る御相談坂の登り口に、小さな橋がある。
手前を左に行くと子生れ石、橋を渡り右に行くと、田がある。
この田を作ると、何かしら禍があるというので嫌われている。
この田は昔、字原平に住んでいた万法印と呼ばれる法師のものであった。
彼は土地への執着が強かったゆえ、縁もない者に耕されるのが無念で祟るのであろうということである。
現在は、地主が耕している。

 

賀茂郡中川村(現在の賀茂郡松崎町の内陸部)

障子山(難山?)と云う山には、現在は埋まってしまったが、障子山という人が戦の時に隠れたという穴があった。
この山は木が大きくなったのだが、買う人がない。
この山の木を切った家には災難があり、家にない場合には木を積んだ船に悪いことがあると言われている。
なお、前述の穴に白旗が立っているのを見た人は、3年以内に死ぬと言われている。

 

「お菊澤」静岡県

榛原町かな?金谷町かな?とにかく、牧ノ原

牧ノ原は、「布引の原」という別名を持つ。
昔、相良のお菊という娘が、金谷の大工と恋仲になった。彼女は夜ごとに牧ノ原を越え、男の元へと通ったが、当時は原野であった牧ノ原は物騒でもあり、やはり恐ろしかった。そこで、頭の上に糸枠を載せ、鏡とロウソクを立て、白い着物を着、白布1反を引いて歩いた。怪物を装えば、盗賊などは近づかないと思ったのである。
ところが、化け物の噂は腕自慢の者達を呼び寄せる結果となり、お菊は肝試しに来ていた一人に斬り殺されてしまう。
彼女の殺された場所を「お菊沢」と呼び、祟りがあるといって恐れた。
太平洋戦争の直前、牧ノ原に海軍の航空隊が配置され、営舎が建設されることとなったが、沢の周辺で事故が相次ぐので、お菊の祟りであろうと噂が立った。
沢の土を、大沢原の西光寺に運んで供養をしたそうで、地蔵尊が残っているとのこと。

 

榛原郡上川根村(現在の榛原郡本川根町)

昔、八幡神社があった所で、現在は帝室林野局出張所の屋敷になっている敷地内の、大きな石が二つあった。その石が目障りなので、埋めてしまいたいと所長が言ったのだが、恐ろしがって埋めようと言う者がいない。結局、小使がやることになった。
しかし、穴が掘り上がろうという頃に、石が穴に転がり込み、小使は石の下敷きになった。穴から救い出されたが、まもなく死んだ。彼の息子の話によると、穴が石に近すぎたために転がりこんだのではなく、石は外にあった時のままの状態で穴に入っており、上部を少し土の上に出していたという。
林野局の官舎を建てた時、請け負った親方連中が、その後まもなく
病気になった者が多かったので、地元では恐れていたということである。

現在、どうなっているか不明。

 

賀茂郡下河津村(現在の河津町)

ころ柿山には、その名の如く幾百年経ったか分からないくらいの、ころ柿の木がある。その年、柿がたくさん成り、村では男も女も皆で採りに行った。
男が木に登って柿を採り、女は下で落としてくれとせがんでいた。
が、ふとした拍子に一人の女が木に触れると突然、木が女をくるっと巻き込んでしまった。
今でも、巻くから、と言って女をその木に近づけない。

 

富士郡芝富村(現在の芝川町)

長貫では、以前から正月にどんど焼きをしない。
昔、どんど焼きをしていると白鳥山から白坊主が「ほーいほーい」
としきりに呼ぶので、気味悪くなって止めてしまった。
翌年にまた、どんど焼きを始めると同じように呼ぶ。
それ以来、この行事は止めてしまうことにした。

芝川町役場の辺りの話。白鳥山は、山梨県南部町?富沢町?との境にある山。標高567m。

 

富士郡富岡村(現在の名称不明富士宮市か?)

淀師に、「やみた」という田があり、作ると必ずその家の誰かが病気になる。
昔、殿様がここに深い池のような牢を造って、罪人を生殺しにした所だというが、確かなことは分からない。

 

富士郡富士根村(現在の富士宮市JR身延線の駅があります)

「やみ田」は、集落に必ず一つ二つはある。この田には、石で造った小さな祠のような物が祀ってあるので、すぐ分かる。この田を作ったり、また作ると約束しただけでも、死ぬか非常に重い病に悩まされるので、嫌われている。
2ヶ月前にも「やみ田」を作ると約束した人が亡くなったので、祟りだと言って村では益々嫌っている。

 

榛原郡白羽村(現在の榛原郡御前崎町白羽)

白羽村字小杉原に、千人塚がある。その上に松が植わっていて、椀貸せ松という。この松を切ると血を出すと言って、手をつける者はいなかったが、明治20年の頃に切って畑と成し、今は跡さえもない。
この松を切った者は、当時富裕の資産家であったが、今は全く零落して家屋敷も留めていない。一家は死んだ者あり、病んだ者あり、全く離散してしまった。松の祟りではないかと言われている。
松を直接切ろうとした人夫も、枝打ちに上ったところ、過って墜落し腸を出して死んだという。

 

庵原郡高部村大内(現在の静岡市こないだまでの清水市)

護良親王の首を、内裏山に納め奉る。今もなお、五輪の陵墓がある。
現在F氏の所有する土地である。同氏は近年ここの発掘に努めているのだけれども、途中まで掘ると異様な物音が生じ、めまいがして、どうしても掘り出すことができないということである。
菊の御紋章が付いた位牌とか、刀鏡などは採掘したとのこと。

 

富士郡島田村(現在の富士市国139と県171の交差辺り?)

依田原新橋の東外れ、和田川の西側の土手を南へ一町ばかり行った所に、幅一間ばかりの川がある。土橋が掛けてあり、ここを「お園水道」という。
昔、お園という芸者がこの川に入って死んだという。そして、ここに住む者は決して成功しないという。
ある人は御稲荷様まで祀ってお祓いをしたけれども、やはり思わしくなく余所へ移ってしまった。今もその御稲荷様は、古びたまま残っている。

 

静岡市(北安東、柳新田、池ヶ谷の境くらい?)

「吉塚」姑があって、嫁を酷使し一人でここの田の植え付けをさせた。
嫁は植え付けが終わると死んでしまった。そこで、この塚ができた。
この田を耕す者は、必ず家内の死者を出すということである。
それは死んだ嫁の祟りであるとされる。今となっては作る者もなく、またここを買う者もいない。

 

島田市長島「聖坂」

小川から長島に下る坂。
昔、高野聖が不案内から道に迷い、山中で一夜を明かそうとしたが、オオカミに喰い殺された。その屍と、傍らにあった経巻を郷人が焼いたところ、灰は風に吹かれ幾多の雀と化し、この山に群がるようになった。
土地の者が付近に焼き畑を作付けすると、群雀に食い尽くされるという。

 

島田市伊久美字犬間

どういう理由か判らないが、犬間で鶏を生き埋めにした。
それ以来、その場所を夜に通ると鶏の鳴き声が必ずするので、恐れられている。

栃木県

 

庚申山

神奈川県川崎市多摩区の長沢の北にあった高さ100 m、広さ300ヘクタールほどの丘陵で、普段人が入って木を伐ったりすると、怪我したり死んだり、気が狂ったりすると言われていた。
以前は大きな樹が茂っており、トオノコシ谷戸(平瀬川付近)の庚申講の持山であったが、一度国有地となり、民間に売りに出されたが買い手が付かなかった。
(今ではマンションや住宅が犇めいている)
明治の中頃まで同族で構成された庚申講による一党祭祀が続き、8年から10年に一度取り行われる祭りの時にだけ入山したという。

富山県

 

人喰谷(ひとくいだに)・富山県城瑞町

冬に生活物資が不足すると、ボッカという人達が雪の中、峠を越えて平野まで行って物資を運び出していたが、この谷は雪崩が多く、また雪崩に流されると雪が解けても、人も荷物も出てこなくなることから、人喰谷と呼ばれるようになったという。

滋賀県

 

滋賀県信楽町[ゴズメ山]

明治初期、その山にゴズメという老女祈祷師が住んでいた。雨乞いや狐払いに優れ、村人は尊敬していた。
彼女の祈祷は小動物と米を山に供え、山神を体に憑依させて行うもので、霊験あらたかだが危険の多いものだった。彼女はある日、村人に今晩、小屋に火をかけるよう頼んだ。
祈祷の際、強い荒神に体を取られ、災い封じに死を選んだのだ。件の村人は尊敬のあまり実行できなかったが、朝には彼女の姿は消えていた。その後、山から狂女の笑い声が響くようになり、山に入ると発狂したり死ぬ者が続き入山禁止となった

奈良県

 

奈良県東吉野村三尾「まのはら(魔の原?)」

三尾の集落に入る左手前、道路と四郷川の間の一段低いところに10坪ほどの平地があり、以前より「まのはら」と呼ばれていたとの事。
今から30年ほど前に、その場所に製材所を建てた人がいましたが、その後その人の一家には変死者が相次ぎ、最後には全員が死に絶えたと聞いています。
ちなみに、今現在製材所は廃墟と化してますが、街灯がほとんど無い場所なので夜に横を通ると雰囲気たっぷりです(;´Д`)

なお、川を挟んだ対岸の崖の上には鉱山の坑道が残っていますが、かつてはその坑道の中で幽霊が出没したという噂も聞いています。

愛知県

 

東栄町「御戸の丸山」

大笹山の大入川側の山中に、すり鉢を伏せたような、どこから見ても同じ形をした山があるという。昼なお暗い、寂しい所だという。
この山には、つい先程まで何物かがいたかのように、枯れ草が取り除かれ草も生えていない綺麗に掃除された一角がある。あまりに人為的なものなので、気味が悪いのだという。集落では今でも、一人では絶対に行ってはならないとされており、必ず二人以上で登る。
以前、一人で丸山に登った人は、巨大な白ヘビを見たと後に語ったそうだ。
このヘビは山の主であり、主を見る事は凶兆とされている。

京都府

 

京都府与謝野町・岩崎橋周辺

昔、橋の脇に松の大木が生えており、その枝は太く、道にせりだすほど立派なものでしたが、枝で首を吊る人が多かった為、首吊り松と呼ばれていました。松は数十年以上前に切り倒されましたが、その跡地はずっと手付かずでした。やっと周囲の土地ごと買い取られて工場が建っても、首吊り松の跡地周辺だけ、建設予定地の看板を立てたまま25年も放置されています。
近年、松の跡地から50Mほどの土地に家を建てた方の奥さんは、
越して1ヶ月ほどで亡くなりました。死因は偶然かも知れませんが首吊り自殺でした。

三重県

 

三重県Y市

昭和40年代、三重県Y市の海水浴場で、何人かが高波で同時に溺れ死んだことがあった。
しかし、一命を取り留めた人たちもなぜか一様におびえている。そのおびえ方があまりにひどいため、介抱した人が理由を聞くと、口を揃えて「足を引っ張られ、海底に引きずり込まれそうになった」という。
緊急避難的な状況だから自分を責めないようにと慰めようとしたが、そうじゃないと血相を変えて言った。水の中を見ると、足を引っ張っていたのは、必死の形相で足にしがみつこうとするモンペと防空頭巾の女性だったんだそうだ。

その砂浜は、空襲で川に飛び込み、そのまま溺死した人たちが流れ着いた場所だったんだとさ。

広島県

 

広島県 芦田川・高屋川合流地点付近

昔はこのあたりは海だったという言い伝えがある。はるか昔、漆を大量に積んだ船が大風によって難破し、そこの山は漆山と呼ばれるようになった。この地では、昔の漆の気が残っているために、訪れるものは皆かぶれるといわれていた。春から夏の季節の変わり目に耕作のために田に入ると、足の脛に小さな発疹ができ、耐えられぬほどの痛さ痒さに襲われる。やがては下痢や嘔吐を起こし、寝汗をかき肉は落ち、腹だけは鼓のように膨れ、最後は足にむくみが来て落命する。
20世紀初頭、日本住血吸虫感染が原因であることが証明された。

岡山県

 

血吸川(ちすいがわ)・岡山県総社市

桃太郎の攻撃に傷ついた鬼が血を流しながら逃げたもの(その時に川が赤く染まり、その赤が現在でも落ちない)の捕えられた川として伝えられている。

大分県

 

血野(ちの)・大分県安心院町

安心院を納めていた安心院氏滅亡のとき、峠で城主の息子で7歳の安心院千代松丸と家来たちが戦で亡くなりました。
その惨劇のあった地区を「血野」と呼んだそうです。

香川県

 

香川県M町まがつ田(凶つ田?)

香川用水が出きるまで讃岐は水不足に悩ませられる地であった。
特有の瀬戸内海気候のため、乾燥し、夏場はいつも水が不足していた。
水不足を補うため、隅々に溜池と掘割が作られた。
しかし、溜池の水では全ての田を潤すことは限界であり、そのため溜池の水を巡って争いがあった。

讃岐には水に関し様々な伝承があり、それに伴い忌まれる地もまた多い。
M町の「まがつ田」もそのひとつである。
M家とI家が水のことで争い、M家のものがI家のものを殺し、その死体をこの田に投げ入れた。
下手人であるM家のものは、同じM町で磔にされた。
以後、この田は「まがつ田」と呼ばれ、所有者であるI家は耕作を放棄した。
この田を耕すものは熱病で死ぬと言われた。
大正時代にある政治家が所有し、耕作したが良くないことが続いた。
現在は荒地となっていて、所有者が立てた祠があるだけである。
農地改良事業の際にも、「あそこにはふれてはいけない」という意見が多く、
その土地には手を加えられず、今でも荒地として残っている。

 

香川県某所せんこうやみ(線香病み?)

溜池からの水は各々の田に水路を使って分配されるが、
自然に水を流すと、当然に溜池に近い田のほうが多く水を得られる。
よって、争いが起こらないよう、各々の田に水を流す時間は、集落の集いで決めていた。
当然に各田公平に水か与えられているのではなく、
集落の身分や力関係で決定されていた。
ところで、水を流す時間を測定するものは何であるか?
それは「線香」である。

ある被差別階級に属するとされた人の話である。
集落の身分上、水が与えられる時間はわずかであった。
しかし、より多くの水を得たいと考えたこの人物は、「燃えにくい」線香で自分の時間を図った。
当初は上手く言ったが、結局線香に細工」していることが発覚し、結局彼の田には、水は与えられないことになったという。
娘は売られ、息子は無頼の徒になり、夫婦は自殺したという。
残された田は「せんこうやみ」として忌み田になり、放置された。
農地改良事業により場所ははっきりしなくなった。

 

香川県S市みずしたたり(水主たたり?)

雨が少なかった瀬戸内地域では、夏場に雨を祈る一方、川や池等が自然発生的に崇められてきた
「水主」というのは水を持っている人、ないしは水を蓄えている土地に対する敬意として送られた言葉である
水主神社が、大小あわせていくつか存在する
ところで、昭和30年代に、ある地元資本の商店が町の繁華街に出店したが、この際水主神社を潰して出店した
地元の住民からは恐れられ、公然と批判する者も多かったという
経営は上手くいかず、出店した店舗どころか、商店自体も倒産した地元の人は「水主様の祟りだ」とうわさしあった
以後、その土地で、様々な店舗が展開したが、悉く商売が失敗した
現在では、主要な道路が移ってしまったので、往時の賑わいは無いがそれでも比較的有利な土地なのに、いっこうに買い手が無い状態が続いている
水主さまの祟りといって、冠婚葬祭はもちろん、地元の中学生が定期試験の時も「成績が下がる」といってその土地の前を通るのを避けるという

長崎県

 

血田(けつだ)・長崎県松浦市

元軍の残党を掃討する海上戦で、上陸した元兵との血みどろの戦いを行い田んぼが血で真っ赤に染まったことが由来と言われている。

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