特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙

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特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙 泣ける話
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林 市造

海軍大尉
昭和20年4月12日
南西諸島方面にて戦死
福岡県宗像郡赤間町出身
京都帝國大學 海軍第14期飛行科予備学生 23歳

お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。

親思う心にまさる親心
今日のおとずれ何ときくらむ

この歌がしみじみと思われます。
ほんとに私は幸福だったのです。
我ままばかりとおしましたね。
けれどもあれも私の甘え心だと思って許して下さいね。

晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできず死んでゆくのがつらいのです。
私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、ということは、立派に死んだと喜んで下さいということはとてもできません。けど余りこんなことは云いますまい。
母チャンは私の気持をよくしって居られるのですから。

婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかって居たのですがどうしてもことわることができませんでした。
又私もまだ母チャンに甘えたかったのです。
この頃の手紙ほどうれしかったものはなかったです。一度会ってしみじみと話したかったのですが。

この手紙は出撃を明後日にひかえてかいています。
ひょっとすると博多の上をとおるかもしれないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。

千代子姉さんにもお会い出来ず、お礼いいたかったのですが残念です。
私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが宮崎町の家と共に思い出されて来ます。
母チャン、母チャンが私にこうせよと云われた事に反対して、とうとうここまで来てしまいました。
私として希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母ちゃんのいわれる様にした方がよかったかなあとも思います。

でも私は技量抜群として選ばれるのですからよろこんで下さい。
私達ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんてほんとは出来ないのです。
選ばれた者の中でも特に同じ学生を一人ひっぱってゆくようにされて光栄なのです。
私が死んでも満喜雄さんが居ますしお母さんにとっては私の方が大事かも知れませんが一般的に見たら満喜雄さんも事をなし得る点に於い絶対にひけをとらない人です。

千代子姉さん博子姉さんもおられます。
たのもしい孫も居るではありませんか。
私もいつも傍に居ますから、楽しく送って下さい。
お母さんが楽しまれることは私がたのしむことです。
お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。
みんなと一緒にたのしくくらして下さい。

お母さん、私は男です。
日本に生まれて男はみんな国を負うて死んでゆく男です。
有難いことに、お母さん、お母さんは私を立派な男に生んで育てて下さいました。
情熱を人一倍にさずけて下さいました。
お母さんのつくって下さいました私は、この秋には敵の中に飛びこんでゆくより外に手をしらないのです。
立派に敵の空母をしずめてみせます。
人に威張って下さい。

大分気を張ってかきましたが、私がうけた学問も私が正しい時にかく感ずるのだと教えています。
ともすればずるい考えに、お母さんの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけど、これはいけない事なのです。
洗礼をうけた時、私は「死ね」といわれましたね。
アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い出して居ります。
すべてが神様の御手にあるのです。
神様の下にある私達には、この世の生死は問題になりませんね。

イエス様もみこころのままになしたまえとお祈りになったのですね。
私はこの頃毎日聖書をよんでいます。
よんでいると、お母さんの近くに居る気持がするからです。
私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます。
それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんからいただいたお守りです。

結婚の話、なんだかあんな人々をからかったみたいですがこんな事情ですからよろしくお断りして下さい。
意思もあったのですから。
ほんとに時間があったら結婚してお母さんを喜ばしてあげようと思ったです。
許して下さいと、これはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。

お母さんは偉い人ですね。
私はいつもどうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。
お母さんは苦しいことも身にひきうけてなされます。
私のとてもまねのできない所です。
お母さんの欠点は子供をあまりかわいがりすぎられる所ですが、これはいけないと云うのは無理ですね。
私はこれがすきなのですから。
お母さんだけは、又私の兄弟達はそして友達は私を知ってくれるので私は安心して征けます。
私はお母さんに祈ってつっこみます。
お母さんの祈りはいつも神様はみそなわして下さいますから。

この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。
やっぱり恥ですからね。
もうすぐ死ぬということが何だか人ごとの様に感じられます。
いつでも又お母さんにあえる気がします。
あえないなんて考えるとほんとに悲しいですから。

私のもちもの、日記類なんか、ほんとに汚いものですからやきすてて下さい。お願いします。
お母さんがみられてもいやですね。お母さんだけなら仕方がないですが、こればかりは他人には絶対にみせないで下さい。
私の浅ぱくさがばれるのですから。やはり見栄坊の私は人にあらをみせるのがいやなのです。
必ずやきすてて人にみせないで下さい。
その他の本とか何とかお母さんの気のままに処分して下さい。

私は軍隊に入って変に自信をもちました。
私達は少くとも綺麗な心をもつように育てられたということです。
心の点では、たいがいのものにまけないという自信です。
私の周囲がよかったのですね。
家、そして友達、高校の友達なんかことに有難いです。

出撃が明朝に極りあわただしくなり落着かないのですが、せめて最後の言葉を甘えたいと思って居ます。
家のこと思い出すと有難くて涙が出るばかりですからもうこのことについてはかきますまい。
私がその中に居たことが嬉しいのです。
千代子姉さんは光兄さんのこと御心配でしょうが、大丈夫ですよ。
私は妙な確信をもって居ます。
潤子チャン陽子チャン達が私にかわってお母さんを喜ばしてくれることをお願いします。

今桜がさかりですね。校庭にもつくしが生えていましょう。
春休みがなつかしいですね。
萩尾先生や校長先生や妹尾先生立石の小母さん、松田、井口の小母さん達によろしく。
汽車の中は人が一杯でうごきもきれずたのしかったですね。

結婚の話、みんなでみて品定してその結論をさしあげたのですがあれも私の最後をかざる思い出です。

梅野にきてもらってチャートにコースを入れて居ます。
博多上空をとおります。
宗像の方もとおりますから。
桜の西公園を遠目に遥か上空よりお別れをします。

お母さん、でも私の様なものが特攻隊員となれたことを喜んで下さいね。
死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私達ですからね。
でも、お母さん、やはり悲しいですね。
悲しいときは泣いて下さい。
私もかなしいから一緒に泣きましょう。
そして思う存分ないたら喜びましょう。

私は賛美歌をうたいながら敵艦につっこみます。
まだかきたいこともありますがもうやめましょう。
お母さんは私を何もかにも知って居られるのですから私の気持は、お母さんがお思いになるとおりに考えて居ました。
軍隊という所へ入っても私は絶対にもとの心を失いませんでしたから、甘える心だけは強くなりましたが。
お母さん、くれぐれも身体を丈夫に長生して下さい。お願いします。
千代子姉さん、博子姉さん、満喜雄さんと、潤子チャン陽子チャン宏明チャンの生長をたのしんでらくにくらして下さい。

変な手紙になりましたが書きなおすのもめんどうだからこのまま出します。
お母さん。くれぐれも身体に注意して下さい。お願い致します。

出撃前日

さよなら
市造

母上様 姉上様

一足さきに天国に参ります。
天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈つて下さい。
お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。 お母さん。さよなら。

母マツヘさんの手記
泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。 けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。
日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。
そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。
一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり(戦後識す)

 

兄弟への遺書

 

高須 孝四郎

昭和20年8月9日
一飛曹  23才
神風特別攻撃隊第七御盾隊第二次流星隊員として、本州東南洋上にて戦死

出典:予科練資料館
http://www.yokaren.net/modules/tinyd/

攻撃直前記す。
御姉上様、合掌、最後に当たり何も言うことはありません。僕が常夏の国南米伯国より日本の国へ帰って、何も知らない僕を、よく教え導いてくださったことは、心から感謝しております。
身を海軍に投じて以来未知の生活、日本の兵隊生活は最後の魂の道場でした。海軍に入営してより、日夜の訓練によって心身共に磨き清めて来ました。今、国のために散って行く私です。
日本に帰るときに母様より呉々も言われた事、頼まれたことを果さずに散ってゆくのは心が残ります。
最後に年老いた両親に迷惑かけたことを、深く悔やんでおります。
今私は澄んだ気持ちです。白紙の心です。皆々様もお元気に。
では私は只今より攻撃に行きます。再合掌。

姉上様

水知 創一

海軍大尉
回天特別攻撃隊「轟隊」昭和二十年七月十六日 本邦東南海面にて戦死
兵庫県出身 早稲田大学 二十一歳

愼二様
急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。では元気でしっかりやって下さい

 

上西 徳英

回天特別攻撃隊多聞隊
海軍一等飛行兵曹
第十三期甲種予科練出身十八歳

妄想する勿れ。

故郷を憶うも、自から限度あり。

先輩の霊、照覧しあり。

自ら省み恥ずべき行ひ、否、考えすら持つべからず。
家人もしこの項を見られなば、深く蔵して人目に曝す勿れ。

特攻隊といへども人間なり。

何も言はず、考ふるも直ちに忘れ、ただ純忠に生くる筈なり。

神なり。
人に非ず。

深くこの点を考えよ。
夢は、正常なりや。

余りにも見る夢の、真に迫る。

以心伝心なりや。

故郷の夢
ばかり。
明日は必ず死なん。

予感あり。
祖国を既に千海里、南十字星を仰ぎつつ、偲ぶは故郷か、想ふは誰か、彼の人か。
勇士陣中に閑ありて、雲と波とその世界。

歌あり、詩あり、涙あり。
剣の心得。

「迷はず、疑はず、怯まず」と。
剣の道は無我、死とは、無なり。
遺書
お父さん、お父さんの鬚は痛かったです。
お母さん、情けは人の為ならず。
忠範よ、最愛の弟よ、日本男児は″御盾″となれ。

他に残すことなし。
和ちゃん、海は私です。

青い静かな海は常の私、逆巻く濤は怒れる私の顔。
敏子、すくすくと伸びよ。

兄は、いつでもお前を見ている。

 

大石 清

伍長
「妹への手紙」

静(せい)ちゃん
お便りありがとう。
何べんも何べんも読みました。

お送りしたお金、こんなに喜んでもらえるとは思いませんでした。

神棚などに供えなくてもよいから、
必要なものは何でも買って、つかって下さい。

兄ちゃんの給料は
うんとありますし、隊にいるとお金を使うこともありませんから、
これからも静ちゃんのサイフが空っぽにならない様、毎月送ります。

では元気で、
おじさん、おばさんによろしく。

大石清の日記──
〈昭和二十年四月一日、快晴
新宮の伯父より電報あり。母、重態。父の死の衝撃と旅の疲れが原因ならん。鎌本軍曹殿の厚情により、区隊長殿から休暇を受く。本日十五時、新宮に向ふ。出発時、軍曹殿から見舞金を頂戴する。この温情、死すとも忘るべからず。父を失ひたる病床の母、幼なき妹、暗澹たる思ひ。車中にて涙流るゝ〉

第六航空軍本部への鎌本軍曹の書状──
〈一、ト号隊員ノ遺族ニ関スル相談。
〔相談〕隊員大石清伍長ノ父ハ国民学校訓導ナルモ先日殉職シ(四十四歳)、家ニハ重病ノ母(四十四歳)、妹(十一歳)一人ナリ。家産ナク父ノ収入ニテ生活シアリタリ。家族ノ生活ヲ保証スル方法ナキヤ〉

大石清の日記──
〈昭和二十年四月八日、曇後晴
十九時、帰隊。母の死を区隊長殿、鎌本軍曹殿に申告す。われ新宮到着の前日、母すでに逝かれてありたり。母の遺骨、父の遺品とともに丹鶴城の桜の見ゆる木下家の墓地の一隅に葬る。「(妹の)米子は、小(こま)い頃からお城の花が好きぢやつた」と伯父上の御言葉。ただ有難し。伯父上への手みやげ、航空ウイスキイ、煙草。美代子伯母上にはドロップ、落下傘のマフラー。妹にチョコレート、乾パン。
妹のことを伯父上にたのみ、新宮駅にて訣別。妹泣く。伯父上夫婦も泣く。せめてあと数日、妹の傍に居りてやりたし〉

〈四月二十二日、晴
午後、特攻攻撃に関する学科あり。九七戦を爆装及燃料タンクを装着すれば150Kに速度が落ちるといふ……。
わが命、ながくともあと一ケ月ならむか。妹へ写真、伯父上夫婦に鎌本軍曹はじめ隊員みなが集めてくれた志の航空糧食、煙草その他を小包にして送る。(なかに隊員一同からの妹への激励文、みんなの集合写真を入れる)

大石伍長の遺書

なつかしい静ちゃん!
おわかれの時がきました。

兄ちゃんはいよいよ出げきします。
この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。

思いがけない父、母の死で、
幼い静ちゃんを一人のこしてくのは、
とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちゃんのかたみとして
静ちゃんの名であずけていた
ゆうびん通帳とハンコ、
これは静ちゃんが女学校に上がるときにつかって下さい。

時計と軍刀も送ります。
これも木下のおじさんにたのんで、売ってお金にかえなさい。

兄ちゃんのかたみなどより、
これからの静ちゃんの人生のほうが大じなのです。

もうプロペラがまわっています。
さあ、出げきです。
では兄ちゃんは征きます。

泣くなよ静ちゃん。
がんばれ!

『整備兵、大野沢威徳からの手紙』(万世基地にて)

大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げきされました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやうを大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこしや落下さんのバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。 さやうなら

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