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源頼政『鵺退治の伝説』

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源頼政 鵺退治の伝説 妖怪
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源頼政 鵺(ぬえ)退治の伝説

 

 

鵺退治の英雄

 

任平3年(1153年)、東三条の森から夜な夜な黒雲が湧き出して、天皇の住まう清涼殿を覆い、さらに近衛天皇が得体の知れないものに襲われるという事件が起こった。そのモノは鵺(虎鶫とらつぐみ)のような不気味な声で鳴くという。廷臣たちはこれを憂慮し、僧を招いて加持祈祷を行ったが、一向に効き目がなかった。そこでこの化物を退治するために、武勇の誉れ高い源頼政に白羽の矢が立った。彼はあの大江山の酒呑童子退治で知られる、源頼光の子孫である。頼政は邸内の鎮守社(現・頼政神明社)に祈願し、山鳥の尾を矢羽にした矢を用意し、郎党・猪の早太を引き連れて参内した。そして丑の刻、頼政が庭で警護していると、東三条の方角より黒雲が湧き出し、内裏へと近づいて来た。その中から「頭が猿、胴が狸、手足が虎、尾が蛇」という異様なモノが現れた。さてはこれが帝を悩ませている化物か、と頼政は弓に矢を番えると「南無八幡大菩薩」と唱え、化物めがけて射かけた。矢は過たず突き刺さり、化物は恐ろしい悲鳴と共に地面に落下した。そこへ駆けつけた猪の早太が、止めを刺した。退治された化物の死骸は、都中を引き回されたが、疫病が流行し始めたので、バラバラに切り刻んだ上で空舟うつぼぶねに乗せ、鴨川に流した。この功により、頼政は帝から獅子王という名刀を拝領した。以上が『平家物語』に記された話である。なお、謡曲の『鵺』では、流された空舟が淀川を経て摂津国芦屋の里に流れ着いたとされている。人々は祟りがあっては一大事と、その死骸を葬った。それが大阪府都島区にある鵺塚であるという。また明治の頃、鵺塚が取り壊されかけたが、付近の住民に祟りをなしたため、住民の嘆願もあり慌てて修復されたという。この化物の祟りを恐れたのか、京には鵺大明神という祠がある。

 

鵺大明神

二条城の北西に位置する二条公園は、平安時代末期の武将、源三位源頼政の「鵺(ぬえ)」退治にまつわる地となっている。
そこには、射落とされた鵺を祀った鵺大明神(ぬえ だいみょうじん)がある。

また、源頼政が鵺(鵼)退治に使った鏃(やじり)を洗ったと伝わる池が、二条城のすぐ北にある二条公園の一角に存在しています。

 

獅子王 (刀)

平安時代末期の大和刀工の作と見られ、拵(外装)と併せて重要文化財に指定されている。

「獅子王」とは刀身に付けられた「号」であり、刀身自体は無銘である。『源平盛衰記』によれば獅子王丸と呼ばれたともされる[1]。 拵えと併せて「太刀 無銘(号 獅子王)附 黒漆太刀拵(たち むめい(ごう ししおう)つけたり くろうるしたちこしらえ)」と総称される。

『平家物語』と『源平盛衰記』は、獅子王は都を騒がせた鵺を仕留めた恩賞として天皇から源頼政に下賜されたとものであるとの伝承を伝えている。

刃長二尺五寸五分(約77.3cm)反り9分(約2.7cm)、鎬造の庵棟、鎬高く幅広く腰反り高い、カマス切先で地刃に平安期大和物の特色の強い、典型的太刀体配の太刀である。

 

伝説に秘められた意味

一般にこの話は「鵺退治」として知られているが、実際にはこの化物は鵺という名前ではない。先に述べたようにこの化物の鳴き声が鵺(虎鶫)に似ているというだけである。それがいつの間にか化物の名前になったのである。

江戸時代の儒学者で志賀忍は、その著書『理斎随筆』の中で、鵺について書いている。彼は鵺の姿に着目した。鵺を構成する要素は「猿、狸、虎、蛇、鵺(虎鶫)猪(猪の早太)」である。彼はこれらから十二支を連想した。ここに表れる十二支のそれぞれを表にしてみると以下のようになる。

 

十二支 動物 方位 五行・陰陽
東北東 木・陽
南南東 火・陰
西南西 金・陽
西 金・陰
北北西 水・陽

 

注目すべきはその方位である。酉を除くととそれぞれ、「寅(東北東)、巳(南南東)、申(西南西)、亥(北北西)」となり、四方を指すことになる。これから推理されたのが、この鵺退治の物語は退魔の神事を象徴しているのではないか、という説である。奉射神事というものをご存知だろうか。神社によっていろいろあるが、松尾大社の奉射神事の場合、艮(北東)から始まり順番に巽(南東)、坤(南西)、乾(北西)と射て、それから天と地を射るというものだ。鵺退治に出てくる干支の方位は若干ずれるものの、概ね奉射神事の方位と合っている。そして鵺は矢で退治されたということも符合してくる。

だが鵺を退治する役に源頼政が選ばれたことは、ある程度説明がつく。彼は何と言ってもあの酒呑童子を退治した源頼光の末裔である。言わば鬼キラーの血筋とでも言おうか。またかつて八幡太郎源義家が近衛天皇の病魔を、名乗りを上げつつ弓の弦を鳴らして退散させた、という故事がある。あまり知られていないことだが、武士は現実的な武力と共に、魔を払う役割も担っていたのである。以上の理由から、源頼政が抜擢されたというわけだ。

 

源頼政の波乱に満ちた生涯

源頼政は源氏の嫡流である。摂津源氏の棟梁として保元の乱、平治の乱に参戦し、いずれも勝者の側についている。武将として優秀であっただけでなく、機を見るに敏なところがあったのだろう。何故なら平治の乱では初め源義朝(頼朝、義経らの父)の軍に参加していたが、変心して平家側に寝返ったからである。そのため平家政権下で源氏が排斥される中、異例の従三位に叙せられるなど、唯一栄進した。平清盛の信任も厚かったという。しかし同族の源氏からはかなり恨みを買ったと思われる。
武張った印象が強い頼政であるが、歌人としても知られており、『源三位頼政集』がある。乱後は源氏の長老格として平氏政権内に留まったが、その処遇については不満を抱いていた。彼は正四位下だったが、従三位にどうしても昇進したかったのである。それは従三位からが公卿であるからだ。彼が晴れて従三位に昇ったのは、70歳を過ぎてからのことだった。これには面白い逸話があり、頼政は昇進を熱望する歌を詠み、それによって清盛は頼政が未だに正四位に留まっていたことを知り、昇進させたのだという。

念願の昇進を果たし、穏やかな晩年を迎えるかと思われた頼政であるが、突如誰もが予想しなかった行動に出る。後白河法皇が清盛との対立から幽閉され、安徳天皇が即位した。それに反発した法王の皇子・以仁王と頼政は手を組み挙兵を計画したのである。その経緯については様々な説があり、『平家物語』では頼政の嫡男。仲綱が清盛の三男・宗盛に侮辱されたとか、安徳天皇即位に反発したからなどとされている。彼らは「平家討伐の令旨」を全国に雌伏する源氏へと飛ばし、決起を呼びかけた。しかし計画がずさんだったのか、あっさりと露見してしまう。清盛は驚き、すぐさま討伐の兵を編成した。

園城寺に立て籠もった以仁王への討伐軍 は、平宗盛を総大将に一門をずらりと揃えたものであった。しかしその陣容をよく見ると、先鋒に源頼政の名がある。おそらく清盛は平治の乱で平氏側に寝返り、また自分の力で従三位まで昇格させた頼政が齢70を過ぎてから、このような行動に出るとは夢にも思っていなかったのであろう。事ここに至ってしらばっくれるわけにもいかず、頼政は自ら屋敷に火を放つと、一族郎党を率いて園城寺に入り、旗幟を鮮明にした。期待していた延暦寺が平氏の工作により中立化するなど、事態は圧倒的に不利になり、やむなく園城寺を捨て興福寺(奈良)へ脱出を図る。しかし夜間の行軍の上、極度の疲労から以仁王が落馬を繰り返し、宇治平等院で休息せざるを得なくなった。そこへ平氏軍が追いつき、宇治川を挟んで対峙した。以仁王・頼政軍がわずか1000余騎に対し、平氏軍は2万8000騎。「橋合戦」と呼ばれる激戦の末、歴戦の将である頼政は橋を落とすことに成功したが、平氏軍が意を決して強行渡河を決行したため、後退を余儀なくされる。平等院に籠城した頼政は以仁王を逃すことには成功するが、衆寡敵せず息子たちが倒れていく中、自らも自害して果てた。なお、以仁王も敵に追いつかれ、戦死した。

時勢を見る目をもち、それ故に栄達を果たした頼政であったが、この時ばかりはちと早過ぎた。しかし、結果的にこの挙兵が全国の源氏を奮起させることになり、平氏打倒のきっかけとなったのである。

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