保護者などによって人物の行方が捜されている場合、これに該当する。行方不明となっている間は未解決事件として扱われる場合もある。なお、失踪事件で人物の行方が明らかになるケースとして、家出・監禁事件などで生存している事例、事故・殺人事件などで死亡している事例がある。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』https://ja.wikipedia.org/wiki/失踪事件
世界中にある不可解な集団失踪事件を読みやすくまとめて一覧にしました。謎の多い失踪事件はUFOの仕業、集団神隠し、異世界に落ちたなど様々な説があります。ここでは、有名な23件の集団失踪事件を紹介しています。
原因不明の集団失踪事件
【未解決事件】原因不明の集団失踪事件まとめ
イグアラ市学生集団失踪事件
2014年9月26日、メキシコのイグアラ市の学生43人が失踪。地元政府が学生側の抗議活動を嫌い、警察・犯罪組織に拉致、殺害させていたことが判明した。
ダショー事件
1965年 スウェーデン
4人の若い男性が失踪。
スウェーデン史上唯一の集団失踪事件とされる。1965年7月29日、ヨーテボリで4人の若い男性が忽然と姿を消した。
ゲイ・カールソン、ヤン・オロフ・ダショー、シェル・オーケ・ヨハンソンは造船所の仕事仲間だった。彼らが最後に目撃されたのは、7月の雨が降る朝にブルーのボルボで街を出る姿である。
それぞれの家族から警察に届け出があったのは、別々の時間であった。このため警察は3人が一緒だったことに気づくのが遅れた。
3人は概ね好青年として知られていた。
関連性は不明だが、その日ヨーテボリではもう1人行方不明者が出ている。ヒュブナー・ルンドクヴィストはリューセヒールへ向かうため、ヨーテボリを通過。そこで「万事順調、心配いらないよ!」というハガキを家族に郵送している。
消失したインダス文明
紀元前1500年
インダス文明が消失した理由は、核攻撃を受けたからだという説がある。その標的が、インダス文明が興った地であるモヘンジョダロとハラッパー。
遺跡の調査からは、下水、風呂、水道などの高度な設備があったこと、発掘された複数の人骨の分析から突然の死がうかがえる。
英国の研究者デビッド・ダベンポートが文献を研究した結果、放射線と物質が融合した証拠を発見し、どれも突然の強烈な熱にさらされたことを示していたいう。
ハーメルンの笛吹き男
1284年、ハーメルンに「鼠捕り」を名乗る色とりどりの布で作った衣装をまとった男がやって来て、報酬と引き換えに街を荒らしまわるネズミの駆除を持ち掛けた。
ハーメルンの人々は男に退治の報酬を約束した。
すると男は笛を取り、笛の音でネズミの群れを惹き付けると、ヴェーザー川におびき寄せ、ネズミを残さず溺死させた。
ネズミ退治が成功したにもかかわらず、ハーメルンの人々は約束を破り、笛吹き男への報酬を出し渋った。
怒った笛吹き男はハーメルンの街を後にしたが、6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び戻って来た。住民が教会にいる間に、笛吹き男は再び笛を吹き鳴らし、ハーメルンの子供達を街から連れ去った。
130人の少年少女が笛吹き男の後に続き、洞窟の中に誘い入れられた。
そして、洞窟は内側から封印され、笛吹き男も洞窟に入った子供達も二度と戻って来なかった。
ローマ第9軍団ヒスパナの集団失踪
ローマ第9軍団は、紀元前58年以前にガリア遠征の際にガイウス・ユリウス・カエサルによって創設されたものと考えられている。
紀元2世紀、スコットランドからの攻撃に対抗するためにローマ第9軍団は前線へと出陣。
スコットランド軍を相手に、第9軍団は苦戦を強いられた。進撃の途中で、ローマ第9軍団は突然その消息を絶ってしまった。
『第9軍団のワシ』という映画にもなった。
フィラデルフィア計画
1943年10月28日、ペンシルベニア州フィラデルフィアの海上に浮かぶ「エルドリッジ」を使って、遂に大規模な実験が秘密裏に行われた。
当時は第二次世界大戦の真っ只中であり、実験は新しい秘密兵器「磁場発生装置テスラコイル」を使い、「レーダーに対して不可視化する」というものであった。 エルドリッジの船内には多くの電気実験機器が搭載されており、そのスイッチを入れると強力な磁場が発生 駆逐艦がレーダーからはもとより、肉眼でも認められなくなった。実験は成功したかのように見えたが、不可思議な現象が起こる。実験の開始と共に海面から緑色の光がわきだし、次第にエルドリッジを覆っていったのである。次の瞬間、艦は浮き上がり発光体は幾重にも艦を包み、見る見る姿はぼやけて完全に目の前から消えてしまった。
「実験開始直後に、駆逐艦はレーダーから姿を消す」、ここまでは実験参加者達の予定通りであった。しかし直後にエルドリッジは「レーダーから」どころか完全に姿を消してしまい、おまけに2,500km以上も離れたノーフォークにまで瞬間移動してしまっていたのである。それから数分後、またもや発光体に包まれ艦はもとの場所に瞬間移動した。
再び戻ってきたエルドリッジだが、驚くべきことに乗員は、次のような惨状に陥っていた。
体が突然燃え上がった
衣服だけが船体に焼き付けられた
甲板に体が溶け込んだ
発火した計器から火が移り、火だるまになった
突然凍り付いた(冷凍化)
半身だけ透明になった
壁の中に吸い込まれた
また、生き残った乗組員も精神に異常をきたし、エルドリッジの内部は、まさに地獄絵図の如くであった。唯一、影響を受けなかったのは、鉄の隔壁に守られた機械室にいた、一部のエンジニアたちだけだった。
こうして実験自体は成功したが、「行方不明・死亡16人、発狂者6人」という、取り返しのつかない結果になった。このことに恐れおののいた海軍上層部は、この極秘実験を隠蔽したといわれている。
ロアノーク植民地集団失踪事件
ロアノーク植民地はウォルター・ローリーにより出資、組織化された殖民事業である。
1585年から1587年にかけて数度の植民地建設が試みられたが、どれも放棄されるか開拓者が死亡するかした。
最後の100名余の開拓者集団は、おりからの英西戦争のためにイングランドからの補給がないまま3年が経過した後に全員姿を消していることが確認された。
開拓者たちの行方は分かっておらず、以後ロアノークは「失われた植民地」と呼ばれ語り継がれることになり、研究・考察が進められている。
少ない手がかりといえば、砦の柱に彫られた「クロアトアン(CROATOAN)」という言葉と、近くの木に彫り付けられた「クロ(CRO)」という言葉だった。
アナサジ族
1200年代後半 アメリカ
アナサジ族は600年ごろから5世紀以上にわたって繁栄した、北アメリカの先住民族。
チャコと呼ばれる巨大な都市をつくり、最盛期には数千人が住んでいたともいわれますが、13世紀末には集落を捨て、忽然と姿を消しました。
180以上の断崖住居が発見されており、その中でもクリフパレスと呼ばれる断崖の宮殿は4階建てで200以上の部屋を有する集合住宅で当時の高度な建築技術をうかがわせます。
南京の中国兵士集団失踪事件
1939年12月10日のことである。中国軍は日本軍に攻勢をかけるべく、南京付近に集結していた。
相手は南京を制圧済みで圧倒的優位にあった日本軍。そこで、攻勢を有利にすべく援軍が要請され、約3,000人の兵員が現地に到着、夜のうちに2マイルにわたって前線に展開した。
数時間後、司令部のもとに、部隊が無線に応答しないとの一報が入る。司令官が前線に赴いたが、そこは既にもぬけの殻と化していた。大砲は所定の位置に配備されたまま、野営の火は燃えたままであったにも関わらず、兵士達が一夜のうちに一人残らず姿を消していたのである。
日本軍側にもそれらしい捕虜の記録は残っていない。兵士達の行方は、今もって明らかではない。
オエル・ベルデ村
1923年2月、ブラジルの小村オエル・ベルデ(Hoer Verde)で暮らしていた600人が、身の回りのものを残したまま一夜のうちに忽然と姿を消した。
調査隊が村に足を踏み入れて隅々まで調べるが、村には誰一人いないことが判明してした。しかも、その周辺では何の音も聞こえないという不可思議な現象も同時に発生している。
その後に警察によって捜査が開始されると学校に意味不明な文字が書かれた黒板を発見する。
「救済はない」黒板にはこう書かれておりそれが何を意味するのかはいまだに謎となっている。
アンギクニ湖 イヌイット村人集団失踪事件
1930年11月、カナダのヌナプト順州アンギクニ湖付近にある小さなエスキモーの村を毛皮猟師であるジョー・ラベル氏が訪れた。
不思議なことに、この村には大人と子供を合わせて30人(1,200人という話もある)くらいのエスキモーが住んでいたはずなのに人が一人もおらず、無人の村となっていた。
食べかけの鍋の中身がそのまま残っていて、木につながれた数十頭の犬は餓死していた。また、集落の墓地は掘り起こされ、中に埋葬されていた筈の死体が消えていた。
ソリや船もそのまま残されてあり、30人全員がどこへ消えたのか今だに判明していない。
ノーフォーク連隊集団失踪事件
1915年。イギリス軍のノーフォーク大隊は、エーゲ海のガリポリ半島に上陸した。兵士たちは、サル・ベイ丘の六十号丘陵と呼ばれる小高い丘の占拠を目指し歩みを進めていた。
その日は、快晴であったが、丘の中腹には6~8個ほどの楕円形の形をした異様な雲が掛っていた。それはピンク色をした異様な雲であっその雲は、強い南風が吹いているにも拘わらず、形も変えずに、長い間そこに留まっていたという。
丘の上へと行軍を続けるノーフォーク連隊の兵は次々に雲の中へと消えていった。
その場所に一時間ほど留まっていた雲は、その後、北に移動して消えていった。
その様子を後方で目撃していた別の隊が、その丘まで行ってみたが、雲の中に入った兵士たちの影はどこにも無かった。
総勢266名ノーフォーク連隊は「行方不明」として処理され、彼らに何が起こったのかは今日でも不明である。
アイリーン・モア灯台事件
1899年12月、フラナン諸島最大の島・アイリーン・モア島に灯台が建造された。
アイリーン・モア島には侵入者を歓迎しない妖精がいるという伝説が古くから語り継がれてきたが、この付近の海は難所として知られており、付近を航行する船の安全を確保するのが目的だった。
その灯台には3人の男、ジェームズ・デュカット、ドナルド・マッカーサー、トマス・マーシャルが灯台守として常駐していた。
しかし、1900年12月15日、ヘブリディーズ諸島の沖を航行していた貨物船アーチャー号が、アイリーン・モア灯台の光を探したが、奇妙な事に光はどこにも見当たらず、応答もなかった。
それから10日余り経った12月26日、定期的に食料等を補給していたヘスペラス号が島に到着、船長は汽笛と大砲の音で灯台に呼びかけてみたが、何の応答もなかった。船員達が調査のためボートに乗って灯台に向かったところ、灯台の中はきちんと整っており、灯台のランプにも何の異常もなかった。しかし、そこには3人の灯台守の姿がなくなっていた。
航空機の失踪事件
ノースウエスト・オリエント航空2501便
1950年、ミシガン湖に沈んでいると思われるものの、機体は発見されていない。ダイバーたちによって座席などの残骸や遺体の一部は発見されたが、機体そのものは見つからず、当時ではアメリカ史上最悪の航空機事故となった。
ニューヨークからミネソタ州ミネアポリスを経由し、ワシントン州シアトルに向かっていたダグラス社製DC-4機に搭乗していた乗客55名と乗員3名は墜落によって死亡したと思われる。現地のある歴史家は2008年、1950年代に事故の犠牲者と思われる遺体が多く岸に流れ着いたが、家族らに知らされることなく無標の墓にまとめて埋葬されたと証言している。
マレーシア航空370便墜落事故
マレーシア航空370便失踪事件とは、マレーシアのクアラルンプールから中国の北京に向かっていたマレーシア航空の定期旅客便である。
370便(ボーイング777-200ER)がタイランド湾上で消息を絶った事件である。
370便は離陸の約50分後、ベトナム南部の海岸近くの海上を航行中の午前1時30分を最後に、
クアラルンプールの西南西約15kmにあるスルタン・アブドゥル・アジズ・シャー空港(スバン空港)の管制当局との交信を絶った。
救難信号などは出されていなかった。
フライング・タイガー・ライン739便
1962年3月16日、グアムからフィリピンのマニラにあるクラーク空軍基地に向けて飛び立った当機に乗り込んでいた米兵93名、南ベトナム兵3名の消息は今も不明のままだ。失踪したロッキード社製L-1049機の捜索は、太平洋上では史上最大級の規模で行われたが、結局機体は発見されず。CAB(米民間航空委員会)は空中で爆発したことが原因だと結論付けた。
アルゼンチン空軍 ダグラスC-54D行方不明事件
1950年1月26日、 アメリカ・アラスカ州からモンタナ州に向かっていた輸送機が失踪。現在まで機体および乗員の発見には至っていない。
乗員からは救難信号が発せられ、コスタリカの都市リモンを迂回するとの知らせがあったが、それを最後に交信は途絶えた。その後、ボカス・デル・トーロ列島で25個の救命ブイや乗員の所持品、機体の破片が発見されたが、機体の本体や乗員らが見つかることはなかった。
ヴァリグ・ブラジル航空967便
1979年のヴァリグ・ブラジル航空機遭難事故
日本とブラジルを結ぶ貨物機は1月30日、成田空港を離陸してからわずか30分後に消息を絶った。貨物便のため乗員は6名だったが、120万ドル相当ともされる絵画などを積み込んでいた。現在に至るまで機体、乗員、積み荷などは何一つ見つかっていない。
船の失踪事件
メアリー・セレスト号事件
メアリー・セレスト号は、1872年にポルトガル沖で、無人のまま漂流していたのを発見された船である。
発見当時、なぜ乗員が一人も乗っていなかったかは今もって分かっておらず、航海史上最大の謎とされる場合もある。
船長室のテーブルに置かれた朝食は食べかけのままで、コーヒーはまだ暖かく、湯気を立てていた。
そしてかたわらに置いてある、赤ん坊のミルクビンは、少し飲みかけのままであった。また、船の倉庫にはたくさんの食料や飲み水もあり、8万ドル相当のアルコールの樽も置いてあったが何も盗まれた気配がない。
救命ボートも全部そのままで綱をほどいた形跡もなかった。また、調理室では、火にかけた鍋がグツグツと煮立っており、水夫の部屋では食べかけの鳥の丸焼きと、シチューがそのまま残っていた。
3隻の姉妹艦の失踪
アメリカ海軍の給炭艦である USSプロテウス、USSサイクロプス、USSネレウス。
1910年に進水したアメリカ海軍の給炭艦であったUSSサイクロプスは、1918年に大西洋のバミューダトライアングル付近で消息を絶ったが、その原因は約100年が経過した今日まで特定されていない
1918年2月、ブラジルの港を出港したサイクロプスは、3月3日までにバルバドスを出たことまでは確認されている。そこで通信が途絶え、船員300人と乗員とともに忽然と姿を消してしまった。
船の行方や失踪した原因は現在でも不明。
興味深いことにプロテウスの3隻の姉妹艦の内、サイクロプスとネレウスの2隻は、第一次世界大戦および第二次世界大戦中にプロテウスと同様の任務中、バミューダトライアングルにおいて行方不明となっている。
Kaz II オーストラリアの幽霊船の謎
2007年4月18日にオーストラリア北東80海里(グレート・バリア・リーフ)の海上で発見された難破船。
「オーストラリアの幽霊船の謎」が人々の注目を集めた。
乗船していたのはそれぞれ船長のデレク・バッテン(56歳)、ペーター・タンスティード(69歳)、ペーターの弟であるジェームス・タンスティード(63歳)、の3名の男性だった。
スキッパー船「ジリアン」の船長が2007年4月16日、ボーエン (クイーンズランド州)沖のサンゴ礁で釣りをしていた際、乗組員不在のまま漂流中のKaz IIを発見し通報した。発見時には既に乗組員は見当たらず、また片方の帆がずたずたに切り裂かれていたと証言している。
クイーンズランド緊急管理事務所のジョン・ホールは地元ラジオのインタビューに対し、
救助隊が船内に入った際、乗組員たちは発見出来なかった。
ヨットの帆は上がったままで、片方の帆は破れていた。
エンジンはかかったままだった。
テーブルの上には食事の用意がされていた。
ノートパソコン、ラジオの電源は入ったままだった。
GPSが作動中だった。
3人分の救命胴衣を含む、緊急時のサバイバルキットは船内で発見されたが、救命筏は失われていた。
としており、また「乗組員が不在であることを除けばほとんど全てが正常な状態であり、乗組員が居ない理由の兆候は見つからなかった」とコメントしている。
バミューダ・トライアングル
失踪した船舶・航空機 | バーリッツ『謎のバミューダ海域(完全版)』 | |
---|---|---|
1 | 1840年8月 ロザリエ |
ヨーロッパからハバナへ向かう途中、トライアングル内で積荷を残し帆を張った状態で発見される。乗員のみ行方不明。 |
2 | 1880年1月 アタランタ |
イギリスのフリゲート艦。290人を乗せバミューダからイギリスへ向かう途中、消滅。 |
3 | 1881年 エレン・オースティン |
ニュー・ファウントランドに向っていたアメリカのスクーナー船。アゾレスの西を航行中に遺棄船を発見し、回航要員を乗せて帰港しようとした矢先にスコールが発生、両船は互いを見失ってしまう。2日後にエレン・オースティンは同じ遺棄船を発見、再度回航要員を乗せるも、再びスコールに遭遇、遺棄船と回航要員が姿を見せる事は二度と無かった。 |
4 | 1902年10月 フレヤ |
ドイツの帆船。キューバのマンザニロを出帆した直後に無人となって発見。マストが折れ、船内のカレンダーは10月4日を示していた。 |
5 | 1918年3月4日 サイクロプス |
米海軍補給船。309人を乗せてバルバドスを出帆、ノーフォークへ向かう途中、好天のもとで無線連絡もなく消滅。残骸は一切発見されず。 |
6 | 1925年 来福丸 |
日本の貨物船。バハマ諸島とキューバの中間から救助を求める無線を発した後、行方不明に。 |
7 | 1925年12月 コトパクシ |
汽船。チャールストンからハバナへ向かう途中で消滅。 |
8 | 1931年10月 スタヴェニィエル |
貨物船。バハマ諸島のキャット島付近からの無線連絡が最後。 |
9 | 1932年4月 ジョン&メアリー |
二本マストのニューヨーク船籍。バミューダの南50マイルで遺棄され漂っているところを発見。 |
10 | 1938年3月 アングロ・オーストラリアン |
乗員39人の貨物船。アゾレスの西から「すべて順調」との無線連絡が最後。 |
11 | 1940年2月3日 グロリア・コライタ |
ヨット。西インド諸島のセント・ヴィンセントを出帆した直後、アラバマ州モービルの南200マイル地点で遺棄船として発見。船内は整然と片付いていた。 |
12 | 1944年10月22日 ルビコン |
キューバの貨物船。メキシコ湾流中を漂っているところを沿岸警備隊が発見。無人だったが一匹の犬だけが残されていた。 |
13 | 1945年12月 5機のアヴェンジャー爆撃機 |
訓練飛行のためフロリダのフォート・ローダデールを飛び立った2時間後、何らかの異変を報告するような謎の無線を発した後、基地の北東225マイル辺りで行方を絶つ。乗組員はベテラン揃いであった。 |
14 | 1945年12月 マーティン・マリナー飛行艇 |
上記アヴェンジャー爆撃機の捜索に向うも、消失。 |
15 | 1947年 スーパー・フォートレス |
バミューダ沖100マイルの地点で消失。 |
16 | 1948年1月 スター・タイガー |
四発チューダー4型旅客機。バミューダ北東380マイル地点からの連絡を最後に消息を絶つ。事故調査の査問会議も謎を解けず、「何らかの外部的原因」を示唆している。 |
17 | 1948年12月 DC3 |
民間チャーター便。プエルトリコのサンファン発、マイアミ行き。 |
18 | 1949年1月 スター・エリアル |
ロンドン発、バミューダ及びジャマイカ経由サンチアゴ行き。バミューダ南南西380マイル地点で無線が途絶える。 |
19 | 1950年3月 グローブマスター |
米空軍機。アイルランドへ向う途中、トライアングルの北端で消息を絶つ。 |
20 | 1950年6月 サンドラ |
殺虫剤を積んだ350フィートの貨物船。ジョージア州からベネズエラに向かう途中、フロリダ州のセント・オーガスティン沖を通過した後に失踪。 |
21 | 1952年2月 ヨーク・トランスポート輸送機 |
英の空軍輸送機。ジャマイカに向う途中、トライアングルの北部で消滅。 |
22 | 1954年10月 スーパー・コンステレーション |
米海軍機。42名の乗員とともにトライアングルの北部で消息不明。 |
23 | 1955年9月 コンネマラ4世 |
ヨット。バミューダの南西400マイル地点で、なぜか(原文ママ)遺棄されていた。 |
24 | 1956年4月 B25 |
民間の輸送機に改造されたもの。「大洋の舌」の南東で消息を絶つ。 |
25 | 1956年11月 マーティン・マリーン |
米海軍P5M水上機。バミューダ付近で10人の乗員と共に行方を絶つ。 |
26 | 1958年1月 リヴォノク |
レーシング・ヨット。陸地が見える海域で行方不明。 |
27 | 1962年1月 KB50 |
米空軍給油機。ヴァージニア州ラングレー空軍基地を飛び立ちアゾレスへ向う途中、消滅。「得体の知れぬ難儀に巻き込まれたことを暗示するように、かすかな無電が聞こえた」という。 |
28 | 1963年2月 マリン・サルファ・クイーン |
液体硫黄を運ぶ貨物船。テキサス州ボーモントからヴァージニア州ノーフォークへ向かう途中、無線・手がかり・残骸を一切残さず消滅。 |
29 | 1963年7月 スノーボーイ |
漁船。全長63フィート(19.215メートル)。ジャマイカのキングストンから80マイル南のノースイースト・ケイに向う途中、40人の乗組員と共に消滅。 |
30 | 1963年8月 KC135ストラトタンカー2機 |
米空軍四発給油機。フロリダのホムステッド空軍基地を飛び立ち、バミューダ南西300マイルの地点で行方を絶つ。 |
31 | 1963年9月 C132カーゴマスター |
アゾレスに向う途中、行方不明。 |
32 | 1965年6月 C119 |
大型輸送機。通称「空飛ぶボックスカー」。バハマ諸島の南東で消滅。 |
33 | 1967年1月 チェイスYC122 |
民間用に改造された輸送機。メキシコ湾流の中に姿を消す。 |
34 | 1967年12月 ウィッチクラフト |
キャビン・クルーザー。マイアミから1マイル沖のブイの横に停泊している最中に消滅。 |
35 | 1970年4月 ミルトン・イアトライデス |
貨物船。ニューオーリンズからケープタウンに向かう途中で消滅。 |
36 | 1973年3月 アニタ |
貨物船。ノーフォークからハンブルグに向かう途中で消滅。 |
出典:バミューダ・トライアングル(バミューダ三角海域)
日本での集団失踪事件
埼玉愛犬家連続殺人事件
1993年(平成5年)に日本の埼玉県熊谷市周辺で発生した殺人事件。マスコミ報道が先行した事件であり、被疑者の映像が連日映し出された上、完全犯罪を目論んだ残忍な結末が明らかになるなど異常性の高い事件であった。
北関東連続幼女誘拐殺人事件
1979年(昭和54年)以降、栃木県と群馬県で発生している誘拐および殺人事件。冤罪事件となった足利事件も含まれている。
1979年(昭和54年)以降、4件の女児誘拐殺人事件と関連が疑われる1件の女児連れ去り事件(失踪事件)が栃木県と群馬県の県境、半径20キロ以内で発生しており、これら5事件まとめて「北関東連続幼女誘拐殺人事件」とされている。
これら事件の特徴として、以下の点が共通点としてあげられている。
被害に遭ったのが4歳から8歳までの児童である
3事件においてパチンコ店が行方不明の現場になっている
3事件において河川敷で死体遺棄されている
4事件において金曜、土曜、日曜および祝日に事件が発生している
また、これら5事件全てが未解決事件となっており、犯人特定・逮捕には至っていない。
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