回天特攻隊員
お母さん、私は後3時間で祖国のために散っていきます。胸は日本晴れ。本当ですよお母さん。少しも怖くない。しかしね、時間があったので考えてみましたら、少し寂しくなってきました。
それは、今日私が戦死した通知が届く。お父さんは男だからわかっていただけると思います。が、お母さん。お母さんは女だから、優しいから、涙が出るのでありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが死んだといって寂しく思うでしょうね。
お母さん。こんなことを考えてみましたら、私も人の子。やはり寂しい。しかしお母さん。考えて見てください。今日私が特攻隊で行かなければどうなると思いますか。
戦争はこの日本本土まで迫って、この世の中で一番好だった母さんが死なれるから私が行くのですよ。 母さん。今日私が特攻隊で行かなければ、年をとられたお父さんまで、銃をとるようになりますよ。
だからね。お母さん。今日私が戦死したからといってどうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。お母さんは優しい人だったから。お母さん、私はどんな敵だって怖くはありません。私が一番怖いのは、母さんの涙です
茂木 三郎
神風特別攻撃隊 第5神剣隊
少尉
昭和20年5月4日 沖縄周辺にて特攻戦死 19歳
僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。お母さん、良く顔を見せて下さい。
しかし、僕は何んにも「カタミ」を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕の別れのあいさつです。
広田 幸宣
少尉
新潟県出身 海軍甲種飛行予科練習生第十期
第一神風特別攻撃隊葉桜隊
昭和19年10月30日 比島方面にて戦死 21歳
拝啓 たびたびのおたよりうれしく拝見致しました。
この前の便箋七枚の手紙を見ては涙がとめどなくほゝを伝はりました。何回も何回もくりかへして読みました。金送りましたが、こんなによろこんで頂けるとは思ひませんでした。神様などへそなへなくともよろしいですから、すぐ用立てて下さい。少し金持らしくやつて下さい。財布が底抜けにならぬ様一ヵ月に一回は必ず補給します。・・・・・・
私は貯金はこちらでたくさんやつてゐますから、送つた金はぢゃんぢゃん使つて下さい。・・・みかん着いたさうで何よりです。出来たらもつと送りませう。玉ちやんにも小遣ひ出来るだけ送りますからお嫁に行く日の貯金に、
お母さんの書いてよこされたことも近い中にあるかも知れません。こんど金が自由になつたらゆつくりと面会にこられないですか。やがては泊りもありますし、二十四時間のやすみもありますから、ゆつくり話も出来ますし、共に寝ることも出来るわけです。汽車は酔はなければよいのだがなあ。トランク要るなら送つてもよいです。ではお体大切に、
ベッドの中で
なつかしい母上様、かあちゃんよ!!
緒方 襄
中尉
熊本県出身 関西大学卒 海軍第十三期飛行科予備学生
第一神風桜花特別攻撃隊 神雷部隊桜花隊
昭和20年3月21日 九州南方洋上にて戦死 23歳
出撃に際して
懐しの町懐しの人
今吾れすべてを捨てて
國家の安危に
赴かんとす
悠久の大儀に生きんとし
今吾れここに突撃を開始す
魂魄國に帰り
身は桜花のごとく散らんも
悠久に護國の鬼と化さん
いざさらば
われは栄ある山桜
母の御もとに帰り咲かなむ
小松 武
海軍上等飛行兵曹 (高知県)
昭和20年2月21日 硫黄島周辺の艦船攻撃中戦死
待ちに待った晴れの出陣を、明日に控えました。突然でいささかあわてましたが、大いに張り切っておりますので、何とぞご安心下さい。
生を享けて、ここに二十二年になります。何の恩返しも出来ず誠に申し訳ありません。何とぞお許し下さい。国家のために散って征くことを、最大の孝行としてお受け下さい。
私が戦死したと聞きましたら、赤飯を炊き、黒い着物など着ず、万歳と叫んで喜んで遺骨を迎えてください。多分骨はないものと思いますから、体操シャツを一枚送ります。これは昭和十七年七月十一日土浦航空隊に天皇陛下が行幸されたときに使用した記念すべき品です。私と思って大切にしてください。
今となっては別に言い残すことはありません。とにかく、命のあるうちは徹底的に頑張り抜く覚悟でおります。必ずや、敵空母の一隻や二隻は沈めてみせるつもりです。取り急ぎ乱筆になりました。感無量で何もかけません。これでペンを置きます。ずいぶんとお元気で、いつまでも暮らしてください。 小父さん、小母さんたちによろしく。ではご機嫌よう。さようなら。
母上様
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