松尾 巧
海軍一等飛行兵曹 享年20才
佐賀県出身 乙飛17期
謹啓 御両親様には、相変わらず御壮健にて御暮しのことと拝察致します。小生もいらい至極元気にて軍務に精励いたしております。今までの御無沙汰致したことをお詫び致します。本日をもって私もふたたび特攻隊員に編成され出撃致します。出撃の寸前の暇をみて一筆走らせています。この世に生をうけていらい十有余年の間の御礼を申し上げます。沖縄の敵空母にみごと体当りし、君恩に報ずる覚悟であります。男子の本懐これにすぎるものが他にありましょうか。護国の花と立派に散華致します。私は二十歳をもって君子身命をささげます。お父さん、お母さん泣かないで、決して泣いてはいやです。ほめてやって下さい。家内そろって何時までもいつまでも御幸福に暮して下さい。生前の御礼を申上げます。私の小使いが少しありますから他人に頼んで御送り致します。何かの足しにでもして下さい。近所の人々、親族、知人に、小学校時代の先生によろしく、妹にも……。後はお願い致します。では靖国へまいります。
四月六日午前十一時記す
神風特別攻撃隊第二御盾隊銀河隊
関 行男
大尉
父上様、母上様
西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段、お許し下さいませ。
今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以て君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。
鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき、其の御恩に報ずる事も出来ず征く事を、御許し下さいませ。
本日帝国の為、身を以て母艦に体当を行ひ、君恩に報ずる覚悟です。皆様御体大切に
満里子殿
何もしてやる事も出来ず散り行く事はお前に対して誠にすまぬと思って居る
何も言わずとも、武人の妻の覚悟は十分出来ている事と思ふ 御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様
色々と思出をたどりながら出発前に記す
恵美ちゃん坊主も元気でやれ
教へ子へ
教へ子よ散れ山桜此れの如くに
父親への遺書
山口 輝夫
少尉
御父上様
なんらの孝養すらできずに散らねばならなかった私の運命をお許しください。
急に特攻隊員を命ぜられ、いよいよ本日沖縄の海へむけて出発いたします。命ぜられれば日本人です。ただ成功を期して最後の任務に邁進するばかりです。とはいえ、やはりこのうるわしい日本の国土や、人情に別離を惜しみたくなるのは私だけの弱い心でしょうか。死を決すればやはり父上や母上、祖母や同胞たちの顔が浮んでまいります。だれもが名を惜しむ人となることをねがってやまないと思うと、本当に勇気づけられるような気持がいたします。かならずやります。それらの人々の幻影にむかって私はそう叫ばずにはいられません。
しかし死所を得せしめる軍隊に存在の意義を見出しながら、なお最後まで自己を減却してかからねばならなかった軍隊生活を、私は住み良い世界とは思えませんでした。それは一度娑婆を経験した予備士官の大きな不幸といえましょう。いつか送っていただいた大坪大尉の死生観も、じつは徹し切っているようで、軍隊の皮相面をいったにすぎないような気がします。正を受けて二三年、私には私だけの考え方もありましたが、もうそれは無駄ですから申しません。とくに善良な大多数の国民を偽瞞した政治家たちだけは、いまも心にくい気がいたします。しかし私は国体を信じ愛し美しいものと思うがゆえに、政治家や統師の補弼者たちの命に奉じます。
じつに日本の国体は美しいものです。古典そのものよりも、神代の有無よりも、私はそれを信じてきた祖先たちの純真そのものの歴史のすがたを愛します。美しいと思います。国体とは祖先たちの一番美しかったものの蓄積です。実在では、わが国民の最善至高なるものが皇室だと信じます。私はその美しく尊いものを、身をもって守ることを光栄としなければなりません。
沖縄は五島と同じです。私は故郷を侵すものを撃たねば止みません。沖縄はいまの私にとっては揺籃です。あの空あの海に、かならず母や祖母が私を迎えてくださるでしょう。私はだから死を悲しみません。恐しいとも思いません。ただ残る父上や、多くのはらからたちの幸福を祈ってやみません。父上への最大の不幸は、父上を一度も父上と呼ばなかったことです。しかし私は最初にして最後の父様を、突入寸前口にしようと思います。人間の幼稚な感覚は、それを父上にお伝えすることはできませんが、突入の日に生涯をこめた声で父上を呼んだことだけは忘れないで下さい。
天草はじつに良い所でした。私が面会を父上にお願いしなかったのも、天草のもつよさのためでした。隊の北方の山が杉山と曲り坂によく似た所で、私はよく寝ころびながら、松山の火薬庫へ父上や昭と一緒に遊びに行った想い出や、母の死を漠然と母と知りつつ火葬場へ車で行った曲り坂のことなど、想わずにはおれませんでした。
私が死ねば山口の方は和子一人になります。姉上もおりますし心配ありませんが、万事父上に一任しておりますから御願いいたします。
歴史の蹉跣は民族の滅亡ではありません。父上たちの長命を御祈りいたします。かならず新しい日本が訪れるはずです。国民は死を急いではなりません。では御機嫌よう。
輝夫
母親への遺書
18歳の回天特攻隊員の遺書
お母さん、私は
後3時間で祖国のために散っていきます。
胸は日本晴れ。
本当ですよお母さん。
少しも怖くない。
しかしね
時間があったので考えてみましたら
少し寂しくなってきました。
それは、今日私が戦死した通知が届く。
お父さんは男だから
わかっていただけると思います。
が、お母さん。
お母さんは女だから、優しいから
涙が出るのでありませんか。
弟や妹たちも兄ちゃんが
死んだといって寂しく思うでしょうね。
お母さん。
こんなことを考えてみましたら
私も人の子。
やはり寂しい。
しかしお母さん。
考えて見てください。
今日私が特攻隊で行かなければ
どうなると思いますか。
戦争はこの日本本土まで迫って
この世の中で一番好きだった母さんが
死なれるから私が行くのですよ。
母さん。
今日私が特攻隊で行かなければ
年をとられたお父さんまで
銃をとるようになりますよ。
だからね。
お母さん。
今日私が戦死したからといって
どうか涙だけは耐えてくださいね。
でもやっぱりだめだろうな。
お母さんは優しい人だったから。
お母さん
私はどんな敵だって怖くはありません。
私が一番怖いのは、母さんの涙です。
小松 武
神風特別攻撃隊 第二御盾隊
海軍上等飛行兵曹 (高知県)
昭和20年2月21日 硫黄島周辺の艦船攻撃中戦死
出典:予科練資料館
http://www.yokaren.net/modules/tinyd/
待ちに待った晴れの出陣を、明日に控えました。
突然でいささかあわてましたが、大いに張り切っておりますので、何とぞご安心下さい。
生を享けて、ここに二十二年になります。何の恩返しも出来ず誠に申し訳ありません。何とぞお許し下さい。
国家のために散って征くことを、最大の孝行としてお受け下さい。
私が戦死したと聞きましたら、赤飯を炊き、黒い着物など着ず、万歳と叫んで喜んで遺骨を迎えてください。
多分骨はないものと思いますから、体操シャツを一枚送ります。
これは昭和十七年七月十一日土浦航空隊に天皇陛下が行幸されたときに使用した記念すべき品です。私と思って大切にしてください。
今となっては別に言い残すことはありません。
とにかく、命のあるうちは徹底的に頑張り抜く覚悟でおります。必ずや、敵空母の一隻や二隻は沈めてみせるつもりです。
取り急ぎ乱筆になりました。感無量で何もかけません。これでペンを置きます。
ずいぶんとお元気で、いつまでも暮らしてください。 小父さん、小母さんたちによろしく。ではご機嫌よう。さようなら。
母上様
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