特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙

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特攻隊員49名の遺書 全文一覧|家族に宛てた最後の手紙 泣ける話
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上原 良司

少尉

長野県出身 慶応大学卒 22歳 特操二期 第五六振武隊
昭和20年5月11日出撃戦死

生を享けてより二十数年、何一つ不自由なく育てられた私ハ幸福でした。温き御両親の愛の下、良き兄妹の勉励に依り、私ハ楽しい日を送る事が出来ました。そして梢々もすれバ、我儘になりつゝあつた事もありました。この間、御両親様に心配を御掛けした事ハ兄妹中で私が一番でした。それが、何の御恩返しもせぬ中に先立つ事ハ心苦しくてなりませんが、忠孝一本、忠を尽くす事が孝行する事であると云ふ日本に於てハ、私の行動を御許し下さる事と思ひます。
空中勤務者としての私ハ、毎日々々が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり、遺言であつたのです。高空に於てハ死ハ決して恐怖の的でハないのです。この儘突込んで果して死ぬのだらうか、否、どうしても死ぬとハ思へません。そして、何か斯う突込んで見たい衝動に駆られた事もありました。私ハ決して死を恐れてハ居ません。寧ろ嬉しく感じます。何故なれバ、懐しい龍兄さんに会へると信ずるからです。天国に於ける再会こそ私の最も希ハしい事です。私ハ所謂死生観ハ持つて居ませんでした。何となれバ死生観そのものが飽まで死を意義づけ、価値づけやうとする事であり、不明確な死を恐れるの余りなす事だと考へたからです。私ハ死を通じて天国に於ける再会を信じて居るが故に死を恐れないのです。死とハ天国に上る過程なりと考へる時、何ともありません。
私ハ明確に云へバ、自由主義に憧れてゐました。日本が真に永久に続く為にハ自由主義が必要であると思つたからです。之ハ馬鹿な事に聞えるかも知れません。それハ現在、日本が全体主義的な気分に包まれてゐるからです。併し、心に大きな眼を開き、人間の本性を考へた時、自由主義こそ合理的なる主義だと思ひます。
戦争に於て勝敗を見んとすれバ、その国の主義を見れバ、事前に於て判明すると思ひます。人間の本性に合った、自然な主義を持つた国の勝戦ハ火を見るよりも明であると思ひます。
日本を昔日の大英帝国の如くせんとする私の理想ハ空しく敗れました。この上ハ只、日本の自由、独立の為、喜んで命を捧げます。
人間にとつてハ一国の興亡ハ、実に重大な事でありますが、宇宙全体から考へた時ハ、実に些細な事です。驕れる者久しからずの例へ通り、若しこの戦に米英が勝つたとしても彼等ハ必ず敗れる日が来る事を知るでせう。若し敗れないとしても、幾年後かにハ、地球の破裂に依り粉となるのだと思ふと痛快す。加之、現在生きて良い気になつて居る彼等も、必ず死が来るのです。唯、早いか晩いかの差です。
離れにある私の本箱の右の引出に遺本があります。開かなかつたら左の引出を開けて釘を抜いて出して下さい。
でハ、くれぐれも御自愛の程を祈ります。
大きい兄さん、清子始め皆さんに宜しく。
でハさよなら御機嫌良く。さらバ永遠に

御両親様へ

良司より

 

横山 善次

陸軍大尉
昭和20年8月13日 犬吠埼東方洋上にて戦死
茨木県出身  二十二歳

私は突然征く事になりました。何も言ひ残す事は有りません。只戦が勝つまで頑張って下さい。充分健康に注意して・・・。
私は必ず立派に目的を達成します。私が今頃只本当に御両親様に御世話になり、又数々の御心配をおかけした事は御許し下さい。今迄御両親には何とかして安らかな生活をさせたいと思って居りました。それも出来ませんでした。愚人の空想でした。
ホンノ少しでは有りますが、このトランクに入って居る品、私が一生懸命にためたものです。食べたかったのを食べずにためました。
大きな箱の中に入って居る清酒其の他の品は、七月三十日、出撃準備命令と同時に出撃者のみ頂いたものです。生缶等皆様と一緒に食べたかったのですが、それもできませんでした。本当につまらぬものばかりですが、これが私の最初で最後の心からの品です。箱の中の品は私の写真と一緒に食べて下さい(中略)。
では皆様、充分健康に注意され、最後まで頑張って下さい。私は立派にやります。
さやうなら

 

相花 信夫

少尉(宮城県)

宮城県出身 少年飛行兵14期
陸軍特攻第七十七振武隊
昭和20年5月4日沖縄周辺洋上にて特攻戦死 18歳

母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった

ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと

古谷 眞二

少佐

東京都出身 慶応大学卒 海軍第十三期飛行科予備学生
第八神風桜花特別攻撃隊神雷部隊攻撃隊
昭和20年5月11日南西諸島洋上にて戦死 23歳

御両親はもとより小生が大なる武勇を為すより身体を毀傷せずして無事帰還の誉を担はんこと、朝な夕なに神仏に懇願すべくは之親子の情にして当然也。然し時局は総てを超越せる如く重大にして徒に一命を計らん事を望むを許されざる現状に在り。
大君に対し奉り忠義の誠を至さんことこそ、正にそれ孝なりと決し、すべて一身上の事を忘れ、後顧なく千戈を執らんの覚悟なり

 

小川 清

海軍中尉
死没 1945年5月11日(満22歳没)

お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。

思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。

あの悠々たる白雲の間を超えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大儀に生きる光栄の日は今を残してありません。父母様もこの私の為に喜んで下さい。

殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。

清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。

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