禁足地とは、その地にまつわる歴史や宗教上の背景から、絶対に立ち入ってはいけないとされる場所のことです。
聖域でもある禁足地には、入ってはいけない理由が明確でない場所も存在します。
神社神道では、神域を示す結界の境界線を示すために、境内や社では意図的に段差を設けたり、柵、鳥居や注連縄などを用いられています。また古来より郊外の集落につながる道の辻などに配置された道祖神、庚申塔、祠、地蔵などの石仏は、神域との結界の役割をしていたともいわれています。
他にも沖ノ島などは社(やしろ)や森だけでなく島全体が神域となっていて禁足地になっている場所もあります。
ここでは、日本に存在する聖域・神域と言われる禁足地、恐怖を感じさせる禁足地を紹介していきます。
絶対に立ち入ってはいけない日本の『禁足地』
「沖ノ島」福岡県宗像市
「神の島」と呼ばれ、島全体が宗像大社沖津宮の御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも一般人は毎年5月27日の現地大祭以外は上陸を基本的に認められず、その数も200人程度に制限されてきた。世界遺産登録に際して、島への接近・上陸対策の強化をユネスコから要請されたため、2018年からは研究者らを除く一般人の上陸は全面禁止とすることを宗像大社が2017年7月に決定した。
沖ノ島は不言様(おいわずさま)とも呼ばれており、島の中で見たものや起きたことは他言無用とされてきました。
年に1度、5月27日に行われる沖津宮現地大祭の日に一般人の上陸を認めていますが、その際には以下のような厳しい決まり事が設けられています。
島に入れるのは男性のみ。女人禁制
上陸前に禊をすること
島内で4本足の獣の肉を食べてはいけない
島にあるものを外部に持ち出してはいけない
「腹切りやぐら」神奈川県
禁忌のやぐら
・心霊スポット名:腹切りやぐら-はらきりやぐら
・住所:神奈川県鎌倉市小町3丁目
名前だけでも近づきたくないです。
腹切りやぐらにまつわる伝説
東勝寺跡にある「腹切りやぐら」は、元弘3年(1333年)に新田義貞に攻め込まれ、敗走した北条高時が自ら一族郎党800余人と共に自決した場所である。
東勝寺跡は現在ハイキングコースとなっているのだが、腹切りやぐらの近くを通ると気分が悪くなる人が続出しているらしい。
他にも、落ち武者の幽霊の目撃談が数多く報告されている。
しかしこの周辺に住んでいる方は
近隣に住む方から話を聞いてみると“ただただ静かなところ”だと言う。それが近年になり、深夜に訪れる方々の騒がしい行為に、ほとほと頭を悩ませている様子も伺えた。
画像にもあるように参拝以外の立ち入りは禁止ですので悪ふざけで行くのはやめましょう!!
以下、ネットでの書き込み。
夥しい血を吸った 禁忌のやぐら(岩窟)
鎌倉駅東口から徒歩20分、自然に囲まれたハイキングコースにある、その古びた立て札の前で足を止める人は今では少ない。
ただし、近くに住宅街があるにもかかわらず、その付近は一種異様な静けさをたたえている。
あぜ道は先細りで狭くなり(その幅50㎝という場所も)、その横は切り立った崖で、それがなおさら不気味さを演出しているようだ。
ここを通る人の中には気分を悪くして引き返す人も多いという。
崖と曲がりくねった細道に幻惑され、パース感覚が狂うからだ。
いわゆるパース酔いである。現地の人でもときどき足を滑らせるというから注意が必要だ。
ここはかつて東勝寺があった場所として知られている。
同寺は、13世紀前半に鎌倉幕府の三代執権北条泰時が創建した寺院だ。
元弘3(1333)年、新田義貞らの鎌倉攻めの時、北条高時以下の一族郎党約800名がここに立てこもり、火をかけ、壮絶な自害を果てたといわれる場所でもある。
通称、腹切りやぐら。
「やぐら」といっても、盆踊りなどで立つあのやぐらではなく、岩窟のこと(正式名称は「宝戒寺二世普川国師入定窟」)。
そして武士にとっての自害とは言うまでもなく切腹のことである。
800余人が、高さ2m、幅3mもない、深さ100m程度の洞穴の中で、腹を十文字にかっさばいて果てたのだ。
夥しい血は悪魔の口のように洞窟を真っ赤に染め、幾筋の川となって大地に流れ込んだという。
しぼり出させるうめき声は反響し合い、こだまとなってはるか三里先の村落にまで届いたと伝えられている。
そして寺院を焼く炎は遠目には赤い金屏風のように見えたとも。
大正の初めころまで、洞窟を掘ると三つ鱗の印のある北條氏ゆかりの瓦に混じって人骨が発見されたらしい。
寺はその後直ちに再興され、室町時代には関東十刹の第3位に列する名刹となったが、戦国時代には廃絶したといわれている。以後、長らく顧みるものもなく、不気味な洞窟とそれにまつわる怪談だけが残った。
その怪談とは、曰く「血だらけの武者の亡霊を見た」。曰く「やぐらの近くに散らばっている落ち葉を触ったら人間の血がついていた」云々。
現在は足利尊氏ゆかりの宝戒寺の管理下にあり、供養のためか無数の卒塔婆が立てられているが、この中にときどき赤い卒塔婆が混じっていると、これまた怪談じみた都市伝説がまことしやかに伝わっている。
卒塔婆に「高倉健」と回向主の名を記されたものを散見する。
あの俳優・高倉健(本名・小田剛一)その人である。
実は健サンのご先祖はこの地で没した北条氏豪族のひとり、苅田式部太夫篤時(北条篤時)だったりするのだ。
篤時は自刃する際、まだ幼いわが子を哀れみ、岡山経由で北九州に逃した。
その子孫が後世、筑前(福岡)で両替商を営む小田家となり、それが健サンの実家なのだという。
律儀で人情家として知られる健サンだが、700年も前に不幸な死を遂げたご先祖様の供養をかかさないとは、いかにも彼らしい。
むろん、正式の手続きを踏めば、誰でも供養の卒塔婆を建立できる。
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