お爺さん・お婆さんに聞いた不思議な話・怖い話 – 短編 全35話

スポンサーリンク
お爺さん・お婆さんに聞いた不思議な話・怖い話 不思議な話
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

子供の頃、おじいちゃん・おばあちゃんに聞いた不思議な話・怖い話

子供の頃、おじいちゃんやおばあちゃんに聞いた不思議な話やちょっと怖い話を読みやすくまとめた短編集です。全部で35話の奇妙で不思議でちょっと懐かしいような話を掲載しています。

 

 

消息不明になった部隊

 

ニューギニア?に駐屯していた部隊がジャングルを調査するために偵察部隊を派遣した。
その偵察部隊から「大きな石碑のような物がある」「誰か人がいる」などの無線連絡があり、人間に似ているとの連絡を最後に消息を絶ったった。

 

 

未確認飛行物体

 

うちの爺ちゃん、海軍航空隊の飛行機乗りだったが、当時としてはありえない超高速で、パッパッとあちこちに飛び回る未確認飛行物体を、ちょくちょく目撃したって言ってたなぁ。
でも、ある程度の距離を保ちながらちらを観察してる感じで、全然攻撃して来ないから、当時は「アメ公はものすごい偵察機を開発しやがった!チクショウ!」と思ってたらしいが。

欧州戦線でも頻繁に目撃されてたみたい。ミッドウェー海戦のときにも目撃されてたらしい。

 

 

巨大な細長いワニ

 

真偽のほどは怪しいもんだが、おれの爺さんが駆逐艦海風ってのに乗ってて戦友と一緒にトラック島とかいう日本軍の基地付近で何度か恐竜みたって戦争中の話を聞かせてもらったことがあるんだ。
南の海は暖かいから海の中にはまだ恐竜が生き残ってるんだよとかいい加減な説を言っていたけど、見たのは爺さんだけじゃなくて戦友も一緒に見たっていうから本当なら凄いことだと思う。
ちなみに見たって言ってるのはネッシーみたいな首が長いやつじゃなくて巨大な細長いワニみたいなのだったらしい。

 

 

火の玉

 

戦時中は火の玉とか普通に飛んでたってオカンが言ってたぉ
道で亡くなってる遺体からも蒼白い火が出てたんだって
満員の汽車の車窓に並ぶように飛んでた火の玉を見た時は同じ車両に乗り合わせた坊さんだか僧侶が「御国の為に亡くなられた兵隊様が家族の元にお帰りになるところです」と言ってお経を唱え始めたので皆も手を合わせ冥福を祈ったそうだ
しばらくすると今まで以上に光だしスゥ~っと消えたそうな…

 

 

木刀

 

俺の爺さんは人魂を木刀でかち割ってたらしい
スコーン!!って手応えがあって光がブワッて飛び散るのが楽しかったんだと
爺さんちには「南無妙法蓮華経」って彫ってある木刀があって、「あれあれ、あれで割ってたwww」
みたいに楽しげに話してた。ちなみに南無妙法蓮華経は爺さんの手彫り

 

 

原爆投下直後

 

原爆投下直後の壊滅的なNHK広島放送局から大阪放送局に対して電波が発信されている。
「大阪さん、大阪さん、こちらは広島です。電波が足りません。送って下さい。大阪さん、大阪さん……」綺麗な女性の声だったそうで同時に何万人かが聞いている

> 「電波が足りない」の意味はNHK広島放送局が壊滅したので広島では放送が出来ない戦時中だし電波が途切れるわけにはいけないので大阪さんが送ってください。放送してください。という意味、という仮説がある。

 

 

川の土手いっぱいに火の玉

 

おれの婆ちゃんは広島に生まれ広島で育ち広島で死んだ。
原爆落とされた時、婆ちゃんは家族で親戚のいる岡山に疎開していて難を逃れた。
原爆が落ちてちょうど4日たってから広島に帰った。
婆ちゃんの家の界隈は全部ぶっ飛んでて瓦礫の山だった。
焼け跡にほったて小屋を建ててその日は夜を明かしたそうだ。

夜、ボン!ボン!と音がするので弟と外へ出てみると
家から見える川の土手いっぱいに火の玉が出たり消えたりしてんだって。
広島が壊滅したばかりだったから街灯なんかもまるで機能してなくて、真っ暗の中、とても異様な風景だったらしい。

 

 

教わったこと

 

おじいちゃん先生の話。

空襲→爆撃で怖いのは、爆発の衝撃で飛んでくる爆弾や建物の破片だとか。
学校で、爆撃があったときは伏せろと言われていたのにある友人がつったってたら、飛んできた鉄板で首チョンパ。
あと、戦闘機が来たらまっすぐ逃げずに横に逃げろと教わった。機銃は前にしか撃てないから。
当時「いいこと教わったー」と思ったもんだ(w

 

 

特攻隊への志願アンケート

 

特攻隊への志願は事前にアンケートみたいのとって
「熱望」「志望」「希望」の三択から選ばせたそうだよ。
熱望・希望・希望セズ、もあったみたいだけど、各部隊によって違うだろうし
希望セズを選ぶと部隊の恥にもなってしまうから、選びづらい状況でもあったようだ。

戦争末期のもうケツに火ィついてた頃は特攻希望アンケートなんか取ってない。
つい2ヵ月前まで学生でしたみたいなやつも少し訓練受けさせて飛ばしたって聞く。
しかも経験浅い学徒兵はゼロ戦じゃなく練習機に爆弾積んで行かせたとか。
時代が時代とは言え少々遣り切れないよね。

 

 

飛び込み

 

うちのじいちゃんは痩せすぎで出兵できなかったから戦争の話じゃないんだけど。

じいちゃんは国鉄の運転手をしてた。
その頃でも飛び込み自殺はあったみたい。
不思議と飛び込みがある列車は一緒だったり、飛び込みがあった場所に人が立っているような影が見えたり。

で、ある日、じいちゃんの運転する列車にも飛び込みがあった。
急停車させて線路に降りてその人に駆け寄ったんだけど、真っ二つ。
「こりゃあむごいなぁ」と思っていたら

「水をくださいぃぃぃ」

その人がじいちゃんのズボンのすそをつかんで叫んだ。
びっくりして逃げそうになったけど「がんばれ」って励ましたっていってた。

 

 

白蛇の守り神

 

もう亡くなったけど、母方の父のじいさんの話
三重県のかなり山奥に住んでた、隣が100M先とか。
じいさんが風呂に入ってたら、戸をドンドン叩かれ
「○○やんよ~、○○やんよ~」とじいを呼ぶ声、出てみたら誰もいない。

電話がかかって来て、声の主の家族から病院で亡くなったとこだと無二の友人だった。
人魂のような光が、一軒の家にふらふらと吸い込まれていく
「あ~あ、あそこの○○さんとこもお迎えが来よったわ」
てな感じで村民の死期が予想できた。
一度、プロパンが爆発して部屋と屋根が垂直に吹っ飛んだが、なぜか先逝したばあさんの位牌だけが残った屋根の上に正座してた、じいは無傷。
じいが亡くなったあと、家の前の田んぼには、白蛇が死んでいた。
守り神だそうだ、そいえば、特に蛇は絶対殺生してはいかんと可愛いがわられてた。

ような事が平然と語られた事に子供心に怖かった。
その他、いろんな非現実的なことがいろいろ聞かされた。
当然、うちの母もそこで暮らしてた訳で「ふーん、あったねー」てな感じでした。
ちなみにじいは満州進軍で中国人を2,30人は殺って勲章もらった
が口癖でした、このほうが怖いけど。

 

 

白い動物

 

オレの爺さんはもう死んじまったんだけど昔、猟師やってたんだ。
よく山のおっかねー話も聞かされた。
あるとき、爺さんが山で真っ白いウリ坊見たんだと。
こりゃ珍しいと思って鉄砲でドカンとやったってんだけど
死なねんだと。はずしたかなぁと思って2発、3発と撃ってんだけど当たった様子がない。
あれ、おかしいなぁなんて思ってたら四方八方から猪がわんさか出てきて爺さんぶッ飛ばされた。
牙で足けずられたけど鉄砲でなんとか追っ払ったんだと。

おでは足の傷何回も見せられたけどスゲーな猪は。
爺さんいわくありゃ山の主の子供だなってことらしんだな。
白い動物は怖ぇーな。

 

 

狐憑き

 

うちの婆は、凄い狐憑きを見たって言ってた。

背景忘れたけど、多分誰かのお通夜か葬式だと思うが、(あとから)狐憑きと思われる青年が主面に居る時、後ろで野次る声がしたらしい。

んで、野次った奴が小銭(3枚らしい)を投げつけたんだって。

でもその青年は上にとんで尚且つ、180度回って自分の手の股に有る小銭を野次った奴に見せ付けたんだって。

そんで稲荷信仰しだしましたとさ。

 

 

夜に笑う豆だぬき

 

長崎出身の元猟師の人が話してくれたんだけど、国有林で猟をしてたら豆だぬきを捕まえたことがあるんだって。
豆だぬきというのは、体は小さいんだけど子狸じゃなくて、ものすごく年をとってるやつ。
小さい檻に入れて土間においてたらしいんだけど、
夜に笑うから気持ち悪くて逃がしたって。

こちらは岐阜の農家の人(猟師でもある)が20年くらい前に話してくれたんだけど、そのおじさんがいうには、狸や狐は化かす、っていってた。
狸の方は、山道を歩いていると煙が立ったようにあたりが急に霧がたちこめるらしい。そこをムリに動くと、迷ったり、変なところに出たりするので、しばらくじっと身を潜めているんだって。
そしたらやがて霧がはれてくる、とかいってた。狐の化かし方は、また違ったんだが、覚えてないなあ…

 

 

山の赤猿

 

子供の頃、ばーちゃん家行くと必ずせがむ好きな話があった。
きぶね山には赤猿がいてよく人に悪さをするという話。
赤猿ってのは人の言葉をしゃべるでかい猿でうっかり出会うとひどい目に会わされる。

ばーちゃんの兄は山で遊んでいたとき偶然、赤猿に出会ってしまい、とっつかまって髪の毛を全部むしられ、挙句の果てにボコボコにぶん殴られて帰ってきたらしい。

 

 

山神様

 

昔、10数年以上昔に、御神酒を届に行った山の社(やしろ)で山神様(?)にあった。
こずきまわされて、大怪我した。(両手、片足、顔、鎖骨、肋骨をそれぞれ数箇所ずつ骨折)
殺されるかと思った。小学生の僕(身長130cm以下)より小さいのに片手で僕の足をつかんで僕を振り回し、何度か地面に叩き付けた……
いつまでたっても帰らない僕を心配した親と祖父母が探しにきて、死にかかっている僕を発見。救急車とパトカーが来たそうです。

その後、大人にに事情を話したら、それが近所に伝わって基地外あつかい。
でも、老人達は僕の味方で「神様は気まぐれだから…災難だったな~」って言ってた。

今考えても夢かと思う出来事だったけれど、僕はいまだにビッコ引いてるから夢じゃない。
悪夢のような出来事でした。

鬼も妖も神の一種類というのが老人たちの意見。
彼ら曰く
「人ならぬ神に人の常識を求めるのは無意味。犬に犬食いは無作法だから箸を使って飯を喰えって言う様なもんだ」

はっきりと目撃しているにもかかわらず、服装や顔みたく細かいところまでは、当時も結局思い出せなかった。
覚えているのは、僕より小柄だった事と、子供じゃなかっただろうって事(あの町には子供が少なかったので当時は、僕らは子供を見たら全てに優先して、片っ端から声をかけて遊びに誘っていましたから….)
神主さんみたいな格好もしていなかったと思う。存在が不自然だと思わなかった相手。

 

 

トトロそっくり

 

怖い話じゃ無いが、ばあちゃんが子供の頃見たと言う化け物がトトロそっくり。
ちなみにまだトトロ放映前に聞きました。
子供にだけ見える。
悪い事はしない。
笑いながら空を飛んでいた。
バスでは無いが生き物のような船に乗っていた。
違う話だが夜明かりを消したらさっさと目をつぶって寝ないと真っ暗な部屋の中に「クラスミ」と言うお化けが出てそれが目に入って目が見えなくなる。
こじつけみたいだが、初めてトトロを見たときはばあちゃんの話を思い出した。

 

 

お婆さんの太鼓

 

祖母がまだ存命のころ,祖母の住んでいた離れに白装束のお婆さんがよく訪ねてきては泊まっていきました。
お婆さんは,家の前でうすっぺらな太鼓をトントン叩いて自分の来訪を家の者に知らせ,それから離れに招き入れられていたようでした。
そのお婆さんの着物は白装束とはいいながらかなり汚れていて黄ばんでおり,ほとんど襤褸といってもいいような代物で,同じ布地でつくった頭巾を被り,顔面だけをみせていました。
いつも,櫃のようなものを風呂敷に包んで背負っていました。おばあさんは何だか嫌な臭いがしました。
いわゆるホームレスな人々が発するあの臭さとは違います。何かかびの生えたような臭いとでも言いましょうか。

私の母は,はっきり口に出すわけではないですが,このお婆さんを乞食か何かのようにみなして,嫌っていたようです。
母はお婆さんが訪ねてきたと知るや祖母を離れから呼び出して,仏壇へのお供えは悪いけど今日はお母さんがやってくださいと言っていました。
離れにある仏壇に毎夕ご飯とお水を備えるのは母の務めでしたが,お婆さんの前に出るのが嫌だったのでしょう,離れには寄りつこうとしませんでした。

小学校にも上がらない子どもだった私は,お婆さんの普通でない格好や臭い,狼に似たその顔が嫌でたまらなかったのですが,お婆さんが訪ねてくると,決まって祖母は私を離れに連れて行き,私をお婆さんに会わせました。
お婆さんは私をじろじろ見ますが,私は怖いので目を閉じたり,そっぽを向いていました。
お婆さんはそのうち例の太鼓を取り出して小さなばちでトントン叩きながら,しわがれた声で呪文のようなものを唱え始めます。あれは今思うとお経でした。が,いつもお寺で聞いていたお経とは違って聞こえたものでした。
呪文が終わると,祖母とお婆さんの間で茶飲み話が始まるので,私はいつもその隙に祖母の離れから抜け出すのが常でした。

 

いちど,祖母とお婆さんと同じ部屋に一緒に泊まったことがあります。
どうしてそういうことになったのかはわかりません。仏間の隣にある祖母の寝室に布団を枕を三つ並べて,祖母を右,お婆さんを左に,私は真ん中の布団に寝せられました。
夜中に私は怖い夢を見て起きてしまい,父母のいる母屋に戻りたいと思って祖母をおこしました。
隣の布団にお婆さんが寝ているのが怖くて,半ベソ状態だったと思います。

祖母はどう勘違いしたのか私の具合が悪くなったと思って,お婆さんを起こして相談しました。
するとお婆さんは「あの水をやれ」と言います。祖母は茶碗一杯の水を持ってきて私に飲ませましたが,その茶碗はいつも母が仏壇にお供えするときの茶碗でした。
水は苦くて,ひどい味だったので,私は思わず吐き出しました。怖くて心細い思いをしているところに,いきなりそのようなわけの分からないものを飲まされたので,私は本式に大声で泣き出してしまいました。

その泣き声が母屋に届いたものらしくて,母が血相を変えて祖母の寝室に入ってきて,こんなことは二度とさせないとか何とか,もの凄い剣幕でどなりながら私を母屋の方に連れ去りました。
母の様子があまりに激しいので,私は安心するどころか,かえって怖い思いが増したのを覚えています。その晩以来,お婆さんが訪ねてきても私は離れに呼び出されることはなくなりましたが,半年に一度くらいの割で,お婆さんの太鼓の音が外から響いてくると,またお婆さんが泊まりにきたなと,ひどく嫌な気分になりました。

 

私が高校生のころに祖母が亡くなりました。親戚一同が集まり祖母の思い出話に花を咲かせていたとき,私はふと思い出してあのお婆さんのことを父に聞いてみました。
「●●のババことか?」
あのお婆さんにも呼び名があったことは私には新鮮でしたが,父は名前(というか通称)しか知らない。
わずかに祖母の長女,つまり私の伯母が一人,お婆さんは祖母の幼なじみで,長じてからは身寄りが無く,困っていたので祖母がちょくちょく面倒を見ていたようだ,といった話を聞かせてくれました。
でも,お婆さんが何を生業にしていた人なのか,はっきりしたことはわかりませんでした。
今では,お遍路さんと行商人を兼ねたような人だったかと,考えております。

「聞いた」というより「見た」話でした。

 

 

家が無い

 

うちの母方のひいばあちゃん、明治生まれで若い頃は芸子のようなことをしてたらしい。
現在、ばあちゃんちの道向こうは、自前の土地ながら荒れ地同様で、畑なんてわずかに雑草に隠れるようにある位なのだが、それはどうもばあちゃんが若い頃からそんな風に放っぽらかしてあったらしい。
で。そこで若かりしばあちゃんが化かされた。お稽古ごとから帰ってきた時。
家の門を通ったのに、その先にある筈の家が無い。いつまでも家が見えてこない。
目の前には家に続く石畳があるので迷う訳ない。
結局、通りがかった近所の人に声をかけられて我に返ったそうだ。家と反対側の畑に入っていったのだと。近所の人によれば荒れ地の中をまっすぐに突き進んで行ってたらしい。頭を見れば、結い上げていた日本髪もほどけていたそうだ。

…という話を病床で、当時3歳児の私に話していたらしい。実際に聞いたのは父からです。

 

 

木の札

 

俺の爺さんは、戦時中、ミャンマー(当時はビルマか。)で鉄道部隊として戦ってたんだが、捕まっちゃって死刑判決受けたらしい。

で、同じ牢に入れられた人間が段々減っていって、次は爺さんの番…って時になって釈放。
釈放されてからお守りを開けてみたら、中の木の札が真っ二つになってたらしい。

 

 

牛の尻尾切り

 

小中学校なんかでよくある[戦時中の話をお年寄りに聞こう]という課外授業。
京都なんで、空襲とか南方の激戦区とかの話はあまり出なかったんだけど。
「兵隊さんの物資を牛の背中に積んで夜通し歩く」話を近所のおじいちゃんがしてくれた。
疲労困憊した牛は、それこそ途中でテコでも動かなくなる。
その時は、「牛の尻尾を先の方からちょん切る、それで歩く」
これを何度も繰り返すそうな。
リアルで怖かったです・・・

 

 

ミッドウェー周辺海域

 

この体験をしたのは日本に帰国するとき再びミッドウェー海戦跡周辺海域を通ったとき夜に甲板に出てみたときの体験です。

あと、怖いというか不思議体験といったほうがいいですね。実際、幽霊的な体験はしましたが・・・

あれは、練習艦隊で日本に帰国する途中フィリピンに向かう途中夜に、ミッドウェー周辺海域を移動中に甲板に出たときのことです。船の後部には、人はあまりいなく、1人になったときでした。正直その時、かなり疲れ切ってました。
そして、しばらく立たずんで何もない漆黒の海を眺めてました。そしたら、ホントに突然、背後に人の気配を感じました、振り返ってみると同期のAが立ってました。。。

そして、Aが話しかけてきました。
しかし、話してるうちに何か違和感を感じました。
普段から真面目なヤツだったのですが、この時ばかりはなんというか緊張感がみなぎった感じ…
というか、切迫した感じで話しかけてきました。
「敵がくるぞ!」とか「急げ!」まるで、戦争中であるかのような会話で
今思えば、その時に真面目なAが支離滅裂なことばかり言う異変に気付くべきでした。
しかし、私は疲れていてAが冗談を言っていると思い軽くあしらい、船内に戻ろうとしました。ところが、突然Aが「♪~∀☆万歳!!!」とか叫んで海に飛び込もうとしてました。思わず急いで駆け寄り「オイ!なにをやってるんだ!!」とAをゆさぶりました。
そうするとAが「あれ?オレなにやってんだ?」とまるで記憶がなかったかのように発言しました。
困惑した私は起きたことをAに問い詰めてもなにも知らない、わからないと言いました。とりあえず、その時はよけいに詮索せずに船内に戻ることにしました。

次の日、忙しさのあまり甲板で起きたことを私は気にもとめてませんでした。Aも記憶が曖昧だったため、その日、最初に会った時も普段通りでした。
しかし、その日さらに同期のOが私に話しかけてきました。「なぁ、昨日甲板で誰と話してたんだ?」と尋ねてきました。甲板は真っ暗だったため、わからなかったのかと思い「Aだよ。」と答えました。すると

すると「違うだろ。海自の作業服じゃない半袖半ズボンの作業服をきてたし、顔が半分ふきとんでて、血まみれのヤツだったじゃないか。オレ、怖くて逃げちゃったよ」と言ってきました・・・

以上でこの話は終わりますが、今思っても不思議に思います。あれはなんだったのだろうか・・・と

 

 

硫黄島視察

 

二、三年前に防衛庁長官が幕僚長と一緒に硫黄島に視察に行って一泊したが
長官が朝起きて幕僚長に会うと「昨夜は部屋に英霊が訪ねてきて、そのおかげでよく眠れませんでした」
と笑いながら言われたそうだ。
ちなみにこれは当時の毎日新聞に載っていた長官のインタビュー記事。

硫黄島は天皇陛下が慰霊してから霊現象がなくなったと聞いたが。
それが平成6年のこと。

 

 

扶桑か山城

 

オフクロの実家の伯父(オフクロの兄貴)さんに聞いた話。

母方のジイさんが長門に乗艦していて、昭和19年11月…だったかな?…マニラ攻撃の帰り道で「扶桑か山城を見た」…らしい。
作戦には扶桑も山城も参加していなかったハズなので、上官に報告すると、とたんに青ざめた顔になり、こっぴどく叱られ「誰にも言うな!!」と、ジイさんを含めた目撃者数人に固く口止めしたんだとか。

でも、海自に入った伯父さんが調べたら、ジイさんが「見た」1ヶ月くらい前に扶桑も山城も沈んでいたそうな。

ジイさん…いったい何見たんだ?。

 

 

寝るのを嫌がるベッド

 

第二次大戦の頃の、日本の航空母艦の話です。
零戦にのっかっていた人の体験談です。それほど怖い話ではないですが…

とある空母の部屋の中に、みんなが寝るのを嫌がるベッドが一つあったそうです。
なんでって、そこに兵士の幽霊が出るから。
語り手の元兵隊さんは気にせず寝ていたそうですが、やはりその兵士の幽霊を見たと。

調べてみると、以前その空母が出撃した際に、問題の部屋が敵機の雷撃を受けて吹っ飛んだんだそうです。
戦闘中ですからドアを施錠していたそうなのですが、どういうわけか部屋に閉じ込められてしまった兵隊さんが雷撃で命を落とし、今でもその部屋に漂っているんだとかなんとか。

まぁ、当時も『その話、本当なのか!?』と眉に唾つけて見る人も多かったそうですが。

 

 

帰還

 

グアム島・・・某ホテル・・・深夜・・・
住職が、寝室で休んでいるとき、廊下の向こうから、多数の兵隊が行進してくる軍靴の音が・・・。
そして、その行進は、住職の部屋の前で止まり、部屋の中に入ってきたそうです。
「自分は、福島県出身の〇〇一等兵であります。
この度は、戦友一同共に祖国日本への帰還を願いに参りました」
・・・・と、
隊列の中から一人が前へ出て住職に向かって言ったそうです。
そこで、住職が般若心教境を唱えると、彼らは、その般若心教に乗って日本へ帰還したとのこと。

同じように、戦死したアメリカ兵も住職の元へ現れて、
住職の唱える日本語の般若心境に乗ってアメリカへ帰還していったとのことです。
宗教、宗派は違っても、宗教は全ての人・霊の幸福のために存在することをこのことは示しているような気がします。

 

 

日本に帰りたかった

 

マ○○○○島は、その最前線にあって、サイパン本島からの救援もなく、脱出も出来ず、
最後には弾薬も尽きて、全将兵が刀を持って突撃して、全滅したといわれてます。
この話は、サイパンの現地係員の経験のある先輩の体験談です。
夕方、某ビーチを歩いていると、海岸線後方の木々の茂みの中から、
「突撃ィー!」
という声が聞こえたかと思うと、何百人もの旧日本兵が・・・、
「うわぁーー」と、海岸線に向かって突撃してきたそうです。
次の瞬間、
ダダダダダダダァ、
トガァーン!
機銃や大砲の音が鳴り響き、兵士達は次々と倒れていき、
あっという間に、先輩の周りは兵士の死体で埋め尽くされたそうです。
しばらくすると、機銃や大砲の音も止んで、あたりが静かになると
倒れていた日本兵達はスゥーと消え・・・、

次の瞬間、再び、
「突撃ィー!」
という声が聞こえたかと思うと、何百人もの旧日本兵が、
「うわぁーー」と、
海岸線に向かって・・・・・・。

その時、ビーチには、日本からの観光客も沢山いたそうですが、
ほとんどの人は、何も見えていないのか、そのまま遊んでたそうです。

ただ、先輩も含めて、幾つかのグループは、真っ青な顔をして、ビーチから逃げ出したそうです。

私は、私が手配した団体旅行の出迎えのために国際空港にいました。

私が、到着ロビーで待っていると・・・、
たくさんの10代後半~20代位の女の子たちが、ワイワイ騒ぎながら出てきます。
話の様子ではサイパンに行ってみたい。
その彼女たちが、私の真横を通った、その瞬間、急に背筋が、凍りつくような悪寒を感じて振り向きました。
彼女たちを見ると、背中に、血だらけの旧日本軍の兵士を一人ずつ背負っているんです。

「あの子達、マ○○○○島で・・・・・・・。」

そのまま、呆然として、彼女たちの背中の日本兵を見ていると、1人の日本兵が振り向いたんです。
満ち足りたような笑顔を見せて・・・・・・・。

「あー、兵隊さん達、日本に帰りたかったんだ。」

彼女たちには悪いけど、遠い島で亡くなった日本兵が、帰国できたのは良かったのかも・・・・。
少し切ない気持ちになりました。

 

 

「まだ来るな」と言う仲間の声

 

戦時中祖父の乗っていた船が撃沈され、祖父は陸まで何とか泳ぎ生き延びたそうですが殆どの仲間が他界されたそうです。
戦後亡くなった友人達の遺族の方に挨拶回りをし、全て回り終わった祖父は自決しようとしたそうです。
素晴らしい人達が沢山死に自分だけ生き残った事を悔やんだ祖父は、遺書を書き軍服に着替え切腹しようとしました。
「皆に寂しい思いをさせてすまん、自分ももうすぐそっちに行く」と言い、短刀で腹を切ろうとした時「まだ来るな」と言う仲間の声がはっきり聞こえたそうです。
祖父は泣き、生きたくても生きられない仲間の為にも生きる事を決心したそうです。

 

 

やっとおじいちゃんに会えたね

 

10~11年前の秋に姉夫妻がマレーシアに赴任してシンガポールで出産したので、祖母・両親・俺で会いに行くことになった。

高齢の祖母を連れていくのは難しいと両親は考えたが、祖母のたっての希望で準備を進めた。
当日、祖母が祖父の遺書と形見を小さな巾着の中に入れていて、俺は生れて初めて祖父の筆跡を見た。

家はお盆の時は墓と靖国神社に行く。祖父が遺書に

「死んだら靖国に行く。もし、○○(祖父の幼馴染で戦友)が亡くなっていたら○○は一人者だから○○の分まで弔うように」

と最後らへんに書いてあった。(意訳)
だから、○○さんの分も家の墓地に墓石がある。
で、シンガポールで日本人慰霊碑に参拝して姉夫妻と子供と会って食事をしてホテルに戻った時、父親がおかしい。
何度も俺に「はっきり言え、何を言ってんだ?」と俺に聞いて、「何も言ってないよ」と返していた。
そうこうしてるうちに、初孫の嬉しさでしこたま酒を飲んだ父親は寝てしまった。

俺はリッチな海外旅行に浮かれて、ルームサビースでシンガポールスリング等を取って、ベランダで「赤ちゃんに乾杯」とかやってふざけていた。
一人で遊ぶのも疲れてきたのでベットでテレビを見てた時、ケタタマシイいびきとともに父親が

「親父!俺の背中に乗れ!俺が連れて帰る!恥ずかしくないおぶってやる!」

と、大きな声でハッキリしゃべったからびっくりした。
その後、声が小さくなり「父さん、父さん、僕の父さん」と泣きながら呟いて又眠った。
びっくりする出来事だったが、感慨深いものがあった。父が生まれる前に祖父は戦死したので、抱かれた事もなければ、無論話を交わした事すらない。写真の中と祖母が話す祖父しか知らない。
父親は父がいなくても頑張ったんだなと思うと泣けてきた。
朝になって、寝言の事が気になったが黙っていた。別部屋で寝てた母と祖母と合流して、朝食を食べてる時にばあちゃんが「昨日ね祖父さんと○○さん(祖父の戦友)がね迎えに来てくれて、ありがとうって出てきてくれたのよ。

祖父さんがね、足が悪いからって、俺の父親さんがおぶってくれたの。
○○さんが横で泣いててね。私は一緒に帰れますねって言ったのよ」と言い出した。
正直、小便ちびりそうだった。父親を見ると目を真っ赤にして泣きそうだったので、俺が夜、見聞きした事をその場で話した。
一同黙っていたが、祖母が

「はーやっぱり来てよかったわ。私の人生の悔いがなくなったし、俺の父親さんの姿を見て、私と一時を共にして良かったと思ってらっしゃるでしょう。幸せな方よね祖父はw」

と笑顔で言った。
それを聞いた父親は「よかったな」って笑顔に戻ったのが印象的だった。
幽霊とかそんな話じゃないけど、まだ帰れない人もいるんだなと思った。

余談
祖母が亡くなる前に、祖母が母親に

「あの時、私の顔がおばあちゃんになってるから、祖父さんもびっくりしたでしょうね。でもお婆さんになった顔を一度見てるから、迎えに来る時はまっすぐ来てくれるわね安心、安心」

と言ってたそうだ。
祖母は最後すこし呆けて、祖父と出会った頃に戻って母親にノロケてたらしい。
祖母の葬式の時、火葬場で母親が「おばあちゃん、やっとおじいちゃんに会えたね」って笑顔で泣いていたのが印象的だった。

 

 

硫黄島玉砕後の話

 

米の帰還兵を乗せた輸送機がいよいよ出発する時、なぜかいつまでたっても離陸しない。
どうしたんだと上官が兵士に聞くと、
「日本の兵隊さんがタラップにいっぱいしがみついていて離陸できません」
と涙ながらに答えたという。

 

 

太平洋戦争中の妖怪

 

あとうちのじいさんから聞いたんだが、当時じいさんはゼロ戦闘機のパイロットだった。
んで特攻する戦闘機を援護する任務のとき敵艦からの反撃が激しくて特攻隊はほぼ全滅。
じいさんたち援護隊も被害が甚大でもう駄目だってときに、いきなり天狗みたいな奴や化け物がどこからともなく空を飛んできて敵艦からの集中砲火を引きつけてくれたらしい。
じいさんいわく、そいつらのおかげでなんとか生きて帰ることができたらしい。

 

 

生かされとるんよ

 

その方は特攻隊の教官だったので、終戦後すぐ捕まって裁判受けるハメになり、有罪となってシベリア抑留されたそうです。
あまりの寒さに仲間が毎日死んでゆく中、ある夜、こんな夢を見たんだそうです。
それは雲海からぽっかり頭を出した杉の木の先、そのバックには富士山の頂上付近。
なぜかハッと目が覚め
「大丈夫だ!俺達は全員日本へ帰れるぞ!」
とみんなを奮い起こしたそうです。
すると間もなく本当に生き残った全員揃って日本に無事帰国。

地元に戻って兄弟の経営していた会社に入り、寝食忘れてバリバリに働いていたそうです。
生きるために、禍まがしい記憶を吹き飛ばす為に、その頃は割りと荒々しい生き方をしてたそうです。
そんなある日静岡から山梨へ仕事で行ったとき、なぜかふと身延山に登りたくなったんだそうです。
信仰してる訳でもなく、なぜか富士山でも他の山でもなく、なぜか身延山へ。
その頂上まで登り着いたとき。
自分がシベリアで見た夢と同じ光景が目に飛び込んできたんだそうです。
雲海から一本にょっきり飛び出した杉の木の先っちょと、その向こうに富士山。
その時
「汝、判ったか?汝は生かされたんだぞ」
と耳元で声がしたそうです。
その声で、初めて生きて帰って来れた事を痛感し、また、死んで逝った戦友や仲間、指揮官達を思って帰国後初めて声をあげてワンワン泣いたそうです。
それまで生きてきて後にも先にも「感謝」で号泣したのは、その時が最高だったそうです。
80歳超えた今でも大変にお元気な方で、リアルに戦争の話を知らない私達に会う度に
「自分が生きてるんじゃなかよ。生かされとるんよ。その事だけは絶対に忘れちゃいかんですよ」
と、優しく説いて下さいます。

こういう語り部の方々には、いつまでもお元気でいて戴きたいものです。

 

 

立派な戦死

 

婆ちゃんは汽車に乗って行く用事があって、その汽車の時間に遅れそうで急いでいた。
途中駅まで数百メートルのところで不意に誰かに突き飛ばされた。
その自分を突き飛ばした人の方を見たが、太陽を背に立っていたため顔はあまり良く見えなかったらしいが、そこにいたのはたしかに日本兵の軍服を着た弟だったと言う。

今、陸軍に行っているはずの弟がなぜと思って必死に呼びかけたが、返事もせずに林の中に入り、消えるようにすぐ見えなくなった。
弟の事も気になったが大事な用事を思いだし、駅に向かったが汽車はすでに到着し、出発寸前。
その時、轟音が。
敵の戦闘機が飛んできて、駅と汽車に向けて機銃掃射したそうで、まさに蜂の巣状態になってしまったという。

数日後、弟は指の骨だけになって帰ってきた。立派な戦死だったそうだ。

 

 

柱時計

 

当時、父は父(叔父)と母、長男、次男(父)の4人で暮らしていました
しかし、戦局が厳しくなると、当時、学生だった長男も出征する事になりました
駅で汽車に乗り込む際、母は泣きながら近くの神社のお守りを手渡し、父は
長男が生まれた日に買った柱時計のぜんまいを巻くネジを手渡して
「これはお前に預ける、帰ってきてお前が巻くんだ… 良いか、絶対だぞ!!」と言ったそうです
それから数ヶ月経ったある日の夜、両親は突然金縛りにあって目が覚めました
同時に、玄関の扉がガラガラと開く音がしました
そのまま、コトコトと足音が一家の寝ている寝室に迫ってきて… 部屋の襖が開きました
泥に汚れた靴、足に巻いた包帯、軍服に白襷、そして鉄兜… 月明かりに照らし出されたその姿と顔は、まさしく長男でした
彼は、まだ幼かった次男と柱時計を見てにこりと微笑み、両親に一礼したそうです
同時に、カチンという音と共に別の時計が1時を指しました (柱時計はぜんまいが伸びていたので動いていませんでした)
はっとして再び長男の立っていた所を見ましたが、そこには誰もいませんでした
ただ、そこにはあのネジとお守り、そして「生きて帰る事が出来ず申し訳御座いません」と書かれた1通の手紙がおいてありました
数日後、家に電報が届きました…  そこには、やはりと言うべきか
「歩兵○連隊は、午前1時、現地時間○時ごろ、○島にて決死の突撃を敢行し、見事全軍玉砕せり」と書かれていました
あれから早六十数年、当時の家も取り壊され、叔父も逝き、父ももう長くはありません
長男も今、どこかの島の土の下で眠っています
あの手紙やお守りは今も大事にしまってありますし、柱時計も今、この瞬間も時を刻んで鐘を鳴らしています(ネジももちろんあります)
少なくとも、私が生きている限りはこれらの品々は絶対に残していきます

 

 

100人針

 

豊橋の13歩兵連隊に所属し、満州戦線で戦闘を行った時の事。
戦場を警戒しながら歩いてると、腹の辺りの皮膚に激痛が走ったんだと。
思わず前屈みになってしまったんだが、その刹那、頭上でガチーン!って音が!
狙撃されてたらしい。何とかその場から生きて生還したんだけど、
あの時前屈みになってなかったら側頭部を直撃されてたって言ってた。
ちなみにその激痛感じた腹部には嫁さん(つまり俺のばあちゃん)から貰った100人針があったそうな。
たいそうばあちゃんに感謝したらしいんだけど、晩年はよく喧嘩してたw

でも渾身の狙撃を避けられた支那狙撃兵はビビっったろうなw

コメント

タイトルとURLをコピーしました