穢地山(ケガチヤマ)
川崎市麻生区万福寺。博打打ちが仲間に斬り殺されたためになった山だといい。
持てば持ち主に祟るという。
柳田によれば、ケヤマのケは(物の怪)のケというが、ここでは穢れた場を意味する。
癖山(クセヤマ)
川崎市麻生区金程。ここも公園化されている。
「あの山はクセが悪い」
などといい、誰も買うのを嫌ったためという。
埼玉県
東秩父村坂本栗和田
栗和田地区近くに「リュウホウの山」、あるいは「リュウホウ院の山」と呼ばれる山がある。
これも付近ではよく知られた「ケヤマ」の一つで、その昔山中に「リュウホウ院」という寺があり、この寺のあった場所の木を伐った者には祟りがあると伝えられ、今も所有者になると必ず家に祟りがあるとされている。
この地域には、豊臣の関東攻略の果てに落城した松山城の上田家の家臣を先祖にもつ家もあり、氏神として八代竜王を祀る家が数軒ある。
「リュウホウ院」と関係があるかは聞かないが、上田家所縁の日蓮宗系の寺院にありがちな山号ではある。
栗和田付近は県道11号線から秩父高原牧場に上って行く途中の閉鎖的な感じの集落で、明るく開けた山上の牧場とギャップがある。
血洗島(ちあらいじま)・埼玉県深谷市
その昔、この辺りで合戦があり(一説に平安時代に八幡太郎義家の奥州遠征の途中)家臣の一人が切り落とされた片手を洗ったので血洗島と言い、土地の人がその手を近くに葬った墓が手墓と言う伝説がある。
行田市 「小埼神社」
小埼沼の傍に建つ、古い神社。境内に生えている草1本抜いてもいけない。
枝も切れないので、荒れはてている。たたりがあるためだが。
埼玉県入間市野田方面
昔、入間川の氾濫が多発し、村民全滅、廃墟となる。
それを知った役人が治水工事を名目に罪人と土着渡来人を集め、自然殺害。
その後、被害を免れた者達が密に暮らし、役人に漏れ無い様に『忌み地』とした。
今も住人の大半が同姓で排他色が強い。
茨城県
牛久市奥原町
ここにかつて薬師寺、地蔵院の二寺があった。
この寺は修験道の寺院で、明治維新の際に廃寺となり、その持田は民間に払い下げられることになった。
地蔵院は持田40ヘクタール余り、地味も豊かで収穫も良かったが、なぜかこの田を作ると凶事が起き、地元の人は誰も作る人がいなかった。
人手を巡り、多村の者なら障りなかろうと買った者がいたが、やはり凶事に悩まされ手放したと言う。
薬師寺は持田50ヘクタールほど有り、古文書によれば旧藩士に払下げられた後に次々と持ち主が代わり、ある家では長男・次男と続いて事故死したという。
安値に釣られて買った竜ケ崎市内の不動産屋が、たび重なる災難に困り果て、某寺院に寄進してしまった。
女化(おなばけ)・茨城県牛久町
キツネが若い女に化けて恩に報いたとするこの伝説から、この地が「女化町」になったという。
龍ケ崎市八代町下入代
県道潮来線に、十三角田という田があった。
この田がなぜ忌み田になったのかは定かでない。
葬式の十三仏と田の角の合計が同じだからと言う者もあるが、理由ははっきりしない。
この田を耕作する家には次々と凶事が発生し、永い間荒れるに任せていた。
しかし終戦後の食糧不足と米価の高騰に耐え切れず、この田を耕作する人があった。
この家では間もなく、倅が土方仕事に出てガケ崩れで生き埋めになり死亡。
親父は急に田を手放したくなり、他の人に貸して作らせたら今度はその家で主人が胃ガンで死亡。
家族にも次々と病人が絶えないので遂に放棄した。
荒れ果てていたが耕地整理が進み、今ではどの辺にあったかも判明できなくなり、地主が元の場所あたりを配分され引き受けた。
地形が変わったためか、今では無事だと言う。
新利根町芝崎
芝崎の水道という所に、約1ヘクタール程の田があった。
形が出刃包丁に似ていると言うので「出刃田」と呼ばれ、ここの田を耕作すると災難が来ると恐れられていた。
これまで何人となく作る人がいたがすぐに止めてしまい、荒れるに任せていた。
昭和十年頃、河内町下加納の人が作ったところ、間もなく火災に遭って自宅を全焼してしまった。
現在は農地構造改善事業によって所在不明となった。
新利根町曽根の河内屋堤
承応三年、常陸川筋の河道が整備され、利根川の東移が実現したが、この成功により幕府は、関東郡代・伊奈半次郎、大目付・高木伊勢守に命じ、延長約三五キロメートルの新利根川が開発が始まった。
数万ヘクタールの新田開発のため、利根川の水流を利根町で締切り、新たに流路を北に替えたのである。しかしこの新川は勾配が急であったため、沿岸の村々の大水害を招いてしまった。
このため利根町押付から東村押堀に至る新堀堀削工事する事になり、寛文三年、大阪の豪商・河内屋治兵衛、並びに京都の豪商・伏見屋が工事の請負に当たる事となった。
南堤側の普請、伏見屋は工事が順調に進んだが、北堤を請け負った河内屋は、草が枯れて出来た特有の「ケド土」という土層に突当たり、あらゆる工法を用いても一夜で跡形もなく堤が流されてしまった。
迫る工期、資金の欠乏。重なる心労の末、河内屋は現在の新利根町曽根付近に建てた仮小屋の中で、無念の最後を遂げたという。
その後、この河内屋堤の後は田となったが、耕作すると祟りがあると怖れられ、貧しさに手を出す農家も永くは作ろうとしなかった。
堀川地区に終戦間もない頃、河内屋堤の跡を耕していた家があった。
ある日、父と息子が口論となり、息子が出刃包丁で父を刺し殺す事件が発生した。
この家は現在絶えて、家族の所在を知る者はいない。
この他にも耕している家があったが、余り良い話は聞かないと言う。
いま河内屋の墓地は、新利根町曽根の村道にヒッソリ建っている。
新利根町下太田
昔、京塚という小さな塚があった。その一帯は京塚という地名である。
外部から移り住んだ者が、いつの間にか平らに均して屋敷にして使用していたが、娘が若くして癌で死亡したり凶事が続いたという。
新利根町堀川
弁天堂の持田で弁天田というのがあった。作ると病気や怪我が絶えないといわれていた。現在、耕地整理で消滅した。
新利根町寺内上ノ原(病人畑)
旧阿波街道の道路沿い、窪地で昔から耕作すると災難があると言われていた。
地主が数10年前まで作っていたが、現在は休耕となって篠が生えて放置されている。
東町釜井(薬師田)
国道294号、釜井駅バス停付近に昔、薬師堂が建っていた。
免地30ヘクタールが民間に払い下げになったが、病人が出ると言われて荒れていた。現在、国道用地と住宅地になっている。
東町伊佐部
ここに塔婆の形をした田が5枚続いてあり、塔婆田と呼ばれていた。
この田を作ると祟りのために家から病人・気狂いが出ると言われ、誰も耕さず荒れていた。現在は耕地整理で均されて消えた。
東町阿波崎
万願寺下に女郎塚という小さな塚があった。女郎田と呼ばれ、ここを耕作すると悪い事が続いて発生し、誰も作らなくなった。
東町阿波崎
墓場田と呼ばれ、元は墓地であったが改葬されて田にした場所で、深く掘ると人骨が出ると言われている。
ここも作ると怪我や病人が絶えず、永く作ろうとする者はなかった。
コメント