【UMA・オーパーツ・謎の事件】世界中にある不思議な話やオカルト話など解明されていない不可解な謎とその概要を一覧にまとめました。
いまだ解明されていない世界の謎
転載元:【閲覧注意】不思議やオカルト話を披露するスレ
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1329016545
バミューダトライアングルの最新の定説
んじゃバミューダトライアングルの最新の定説飛行機は雲が変異でプラズマトンネルの空間を形成、中を飛行すると
電子機器は故障し空間がひっぱられ高速で飛行する説。船舶はメタンハイレードで海底からの気泡に巻き込まれ海底に沈んだ船に
攪拌した泥におおわれわからなくなる。
ロアノーク島集団失踪事件
107名の開拓民と守備要員が忽然と消えていた事件。
捜索隊は島に上陸して捜索したが
小屋や防護柵は雑草に覆われて
いるばかりで、娘も、孫娘も、他の仲間も、誰一人姿を見出せない。
一体、皆はどこに行ってしまったのか。やがて一つの標識が見つかり、きれいな
大文字ではっきりこう記されていた。「CROATOAN」
良栄丸事件 (幽霊船)
1926年(大正15年/昭和元年)12月に千葉県銚子の沖で、和歌山県の
漁船良栄丸が遭難し、乗組員12人が全員死亡/行方不明となった事故。漁業従事中にエンジンが故障、北太平洋をおよそ11ヶ月間漂流した。その間に乗組員は全員死亡したが、
船体は北アメリカ大陸西岸に漂着した。海難事故で生存者がいなかった場合は、一般にその遭難の原因や
経過を知ることが困難な場合がほとんどだが、当事故においては船体が沈没せず、
克明に記された航海日誌が残されており、その漂流の経過が判明している。良栄丸事件で検索すると末期まで綴られた航海日誌見れます
マリー・セレスト号事件
1872年11月5日、マリー・セレスト号という二本マストのアメリカ船が
原料アルコールを積んで、ニューヨークからイタリアのジェノバに向けて出港した。
この船に乗っていたのは、ベンジャミン・ブリッグス船長と8人の乗員、そして、
船長の妻マリー(本によってはファニー)と娘のソフィアの総勢11人であった。ところが、1ヵ月後の12月5日、そのマリー・セレスト号が、ポルトガルとアゾレス諸島の
間の大西洋を漂流しているのが、イギリス船デイ・グラシア号に発見された。
航行している様子はなく、海上を漂っている状態だったため、何か事故が発生したのではと思い、
グラチア号は、マリー・セレスト号に近づいて船を横付けにして声をかけてみたが、
返事がないため船長以下、数人の乗組員か乗り込んで中の様子を確認することにした。しかし、船の中には誰も見当たらなかった。
海賊に襲われたのか? 伝染病に感染して乗組員全員が死亡したのだろうか?
それにしても、死体がないのはおかしい。しかし不思議なことはそれだけではなかった。
船内の様子を調べる内に、次々と奇怪なことが分かったのだ。
無人で漂流していたマリー・セレスト号の船長室のテーブルにあった朝食は食べかけのままで暖かく、
コーヒーは、まだ湯気を立てており、調理室では、火にかけたまま鍋が煮立っていた。船員の部屋には食べかけのチキンと、シチューが残っていた。積荷もそのまま。
12月4日になにがあったのだろうか?
バズビーの椅子
1702年、イギリスの北ヨークシャー州、サースク村に住むトーマス・バズビーは
妻の父親を殺害した罪で絞首刑に処され、殺人犯としてその一生を終えた。
彼には生前、長年愛用した椅子が一脚あった。バズビーの死後このイスは、妻が家財道具を処分した一環で、「バズビー・ストゥープ・イン」というパブに
置かれることになった。ちなみにこのパブの名前は処刑されたバズビーから
つけられたものである。
パブに置かれたこのイスは、それが元殺人犯のものであったことや
持ち主が絞首刑になったこと、このイスには呪いがかけられている
などの色々な噂が広まり、酔った勢いで面白がって座る人たちが結構いた。だが呪いの噂は本当だったのだ。第二次世界大戦中、パブで酒を飲んでふざけて
このイスに座った兵士たちは全員戦死した。その後も噂が噂を呼び、ますます有名に
なったこのイスは、パブで酒を飲んで気が大きくなった若者たちが度胸試しをするのに格好のネタとなった。戦後サースク博物館にもうこれ以上、誰も座ることが出来ないように、今では天井からロープで吊り下げられて展示されている
泣く男の子の絵
複数の種類があって何枚も複写されイギリス国内のデパートで
簡単に手に入る「泣く男の子の絵」ですがこの絵が
イギリス全土を巻き込んだとんでもない出来事を引き起こします、
手に入れた人たちに次々と恐ろしい現象が起きている
深夜に絵が燃え上がりますそして、焼け跡からこの絵が無事な状態で発見されたそうです、複数の家で・・・
津山33人殺し事件(八つ墓村のモデル)
この事件の犯人である都井睦雄(とい・むつお)は、
1917年(大正6年)、岡山県の、ある豪農の長男として生まれた
肺結核が徴兵検査で見つかり兵隊になれず、自暴自棄になり村の人妻などと
夜這いや不倫関係をもち祖母の溺愛によって、散弾銃や刀を集め最後には村民を道連れに自殺した。全戸数23戸、人口111人の小さな村は、その内の12戸が襲われ、
死者は30人(即死28人・重症を負ってまもなく死亡2人)
負傷者3人という大惨事となった。一家全滅は6戸で21人にのぼる。
一説には殺害された住民は、都井の事を噂したり病気発覚後関係を断ったのが標的といわれる。
密教がフランクリン・ルーズベルトを呪殺
第二次大戦中、次第に劣勢にたたされた日本政府は、国内のあらゆる宗教
寺院や神社に戦勝祈祷と敵国大統領を呪わせた。呪いは真言密教が執り行なった
とあり、効果?でルーズベルトは急死する。しかし次期大統領のトルーマンは
原爆投下に積極的だったのは皮肉だろうか。
タイタニック号の悲劇は予知されていた!?
1912年、当時世界一の豪華客船だったタイタニック号が大西洋上で氷山と衝突し
1503名の命と共に沈没したのはあまりにも有名な事件。
特に有名なのは、この事故から14年ほど前に書かれた小説である。小説の名は
「フューティリティ」といい、作者は元イギリスの一等航海士であった
モーガン・ロバートソンという人物。ロバートソンは、この小説の中で巨大な豪華客船「タイタン号」が
沈没する様を書いているが、その様子がタイタニック号の実際の事故と非常によく似ているのだ。船名 タイタニック号 タイタン号(小説)
事故の月 4月 4月
航路 サザンプトン港からニューユーク サザンプトン港からニューユーク
事故の原因 氷山と衝突 氷山と衝突
氷山と当たったときの速度 23ノット 25ノット
スクリューの数 3基 3基
船の規模 世界最大の豪華客船で沈没はあり得ない 世界最大の豪華客船で沈没はあり得ない
救命ボート 数が圧倒的に不足 数が圧倒的に不足
53年後に帰還した爆撃機
2001年12月23日午前0時過ぎ、グリーンランドのトゥーレ
空軍基地の管制本部は、一機の正体不明の飛行機がこの基地に向かっていることに気づいた。
レーダー管制官が「未確認機接近! 緊急配備願います!」と、本部に緊急連絡。外はものすごい雪が吹き荒れ、気温もマイナス52度、瞬間最大風速56キロという大変な悪天候である。
しかし一時間後、未確認機は突然スクリーンから姿を消したのである。夜明け前、ようやく吹雪も弱まったころ、捜索隊が出された。
そして約二時間後、問題の未確認機は発見された。
場所はトゥーレ空軍基地から直線距離で約12海里の地点。氷河の上に胴体着陸をしていた。未確認機の正体はアメリカ空軍 ボーイングB50-Dスーパーフォートレス爆撃機・キングバード50だった。
そして乗組員は全員死亡していた。
全員老化してなく若いままで、当時の到着予定時刻を2時間オーバーしていただけで。
水晶のドクロ
「ヘッジス・スカル」はイギリス人の探検家ミッチェル・ヘッジスが中央アメリカの
ベリーズのルバトュムのマヤ遺跡で発見した、水晶で作られたドクロ(頭蓋骨)の模型である。このドクロは、重さは約5kgで、高さと幅が12.5cm、長さが17.5cm。
外観の正確さはもちろんのこと、下アゴの部分は動くように作られていて、口を閉じたり開いたり出来る。
また、光の屈折率やその効果も計算されており、ドクロの下から光を当てると
ドクロ全体が赤く光り、目の部分が発光する。ドクロの下に文字を書いた紙を置くと、ちょうど目の部分から
文字が読めるようになっており、真上から見ると文字が拡大して見える。
水晶は、非常に堅い物質で、現代の技術をもってしてもこれと同じものを作るのは困難とされている。マヤ人の遺跡から発掘された道具としては、木や石、動物の骨などで、
水晶を加工出来るようなグラインダーのようなものは発見されていない。
マヤ人たちが、こういった高度な技術を要するものをどうやって作ったのかは判明していない。
徳川家康、未知の生物と遭遇
3月4日近畿の空に四角い月が現れる
4月4日駿府城内に奇怪な「肉人」が現れる
徳川家康公が駿府城に居た時の事。ある日の朝、城の庭に子供のように小さく、
指の無い手で上を指す「肉人」とでも云うような異様な者が立っていた。
それを見た城中の者どもは、その奇怪さに一様に驚き、
如何にすべきかがわからず「変化である」と騒ぎ立てるばかりであった。この御庭の騒動に近習は、
このことを家康に伝え、どうすればよいかを伺った。家康は、人目につかぬ場所に追い出せばよい」と答えた。
(記載はないが、肉人を城から離れた山に連れて行き捨てた、と云われる)この話を聞いた学者は、“なんとも惜しいことをしたものだ。騒いだ者らの不学ゆえに、
仙薬を家康公に奉ることができなかったとは。その「肉人」は白沢図に伝わる「封(ほう)」というもの
。
これを食せば力が増して武勇が優れると云われるものであったのに”徳川実記という幕府の正史にも記載されている。
虚舟
虚舟(うつろぶね)とは茨城県大洗町(北茨城市とも語られる)沖の太平洋に突如現れたとされる、
江戸時代における伝説の舟である。虚舟は鉄でできており、窓があり(ガラスが張られている?)丸っこい形をしている。
虚舟には文字のようなものがかかれている。
中には異国の女性が乗っており、箱をもっている。
一説には面倒事に関わりたくない漁民が海に押し流したともある。
アンティキティラ島の機械
1901年にアンティキティラの沈没船から回収されたが、
その複雑さや重要性は何十年もの間気づかれることがなかった。
紀元前150 – 100年に製作されたと考えられており、
同様な複雑さを持った技術工芸品は、その1000年後まで現れることはなかったアンティキティラ島の機械は最古の複雑な科学計算機として知られている。
機械の作りが完璧なため、発見されていない試作品や類似の機械の存在が予想されるが
多くの歯車が組み合わさっており、最古のアナログコンピュータと呼ぶ人もいる 。ギリシャの天文学者らにより進められた天文学と数学の理論に基づいて製作されたとされ、
紀元前150 – 100年に作られたと推定される。ひとつの仮説として、古代ストア哲学者ポセイドニオスによりロードス島に設立され、当時の天文学と数学(ただしギリシア人は「ゼロ」を知らなかった)の
中心として知られていたアカデミーでこの機械は製作されたと考えられており、月の運行の計算技術に天文学者ヒッパルコスの理論が用いられているため、おそらくポセイドニオスかヒッパルコスが製作に
関わっているとみられている。
火星のモノリス
アポロ11号の月面着陸40周年を記念して行われたTVインタビューのなかで
バズ・オルドリン宇宙飛行士が火星で人工的に作られたと見られる「モノリス」を発見したと
言及したことに関連して、オルドリン宇宙飛行士が言及した火星の衛星画像の管理を行っている
アリゾナ大学は、問題の物体は巨礫(きょれき)である可能性が高いとの見解を発表した。
巨礫とは岩石の塊を示す地質学の用語。
サン・ジェルマン伯爵
宝石を散りばめた衣装をまとい、丸薬とパンと麦しか口にせず、ギリシア語、ラテン語、
サンスクリット語、アラビア語、中国語に加えて仏・独・英・伊・葡・西の各国語を話したといわれる
身なりに気を使い、クラヴサンとヴァイオリンの名手であり、作曲もこなした。
また化学と錬金術に精通しており、ついには不死を可能にする著作をものしたともいわれる。前世の記憶とそれに関連する知識がある、あるいは、常軌を逸した長寿をもたらす秘薬を持ち、
その結果2000年とも4000年ともいう驚異的な記憶を有していたといわれる。
カナの婚礼やバビロンの宮廷を巡る陰謀などを語ることができた。ヴォルテールは1760年4月15日のフリードリヒ2世に宛てた書簡で、サンジェルマンについて
「決して死ぬことがなく、すべてを知っている人物」であると書き、
フリードリヒ2世は彼を「死ぬことのできない人間」と記している。ニコラ・シャンフォール (Nicolas Chamfort) によれば、サンジェルマンの使用人に
「あなたの主人は本当に2000歳なのですか」と問うたところ、彼は「それはお教えすることができません。わたしはたった300年しかお仕えしていないのですから」と答えたという。
ヴォイニッチ手稿
暗号とおぼしき未知の文字で記され、多数の彩色挿し絵が付いた
230ページほどの古文書。暗号が解読できないので、
何語で書かれているのか、内容が何なのか不明である。
また、多数の挿し絵も本文とは無関係であるとの説もある。作成時期は14世紀から16世紀頃と考えられている。
アリゾナ大学で行われた放射性炭素年代測定により、
使用されている羊皮紙は1404年から1438年に作られたと判明した。
だが執筆時期はさらに後年の可能性がある。手稿の名称は発見者であるポーランド系アメリカ人の古書商、
ウィルフリッド・ヴォイニッチ(en)にちなむ。彼は1912年に、
イタリア・ローマ近郊のモンドラゴーネ寺院で同書を発見した。
現在はイェール大学付属バイネキー稀書手稿ライブラリが所蔵する。
肉付きの面
越前の吉崎観音の霊験物語。
邪悪な姑が鬼女の面をかぶって嫁を脅すと、その面が顔に食いついて外れなくなった話。お経を唱えると面は取れたが、内側には顔の皮膚や前頭部の毛根がついたままだったと云う
巨大化したニワトリ
1986年4月26日、旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で、原子炉の一つが暴走し、
爆発するという事故が起こった。原発史上最悪の事故として世界中が報道した事件である。この事故により大量の放射能が放出され、30人以上の死者が出た。
放射能はヨーロッパ各地で計測された他、5月上旬にはほぼ
北半球の全域で計測されるほどの大量なものであった。その原発事故からしばらく経った時、発電所の近くで、
大量の放射能を浴びて巨大化したニワトリが発見された。
このニワトリの大きさは大人の男性と同じかそれ以上の身長があり、体重も100kg以上あるという。発電所近くの農家で飼われていたものだと思われるが、放射能のためか、
全身の羽は抜け落ちていた。クチバシと目が異様に巨大化し、足の部分も肥大していた
捕獲後は研究所に送られたということであるが、研究所に送られてからもまだ成長を続けた。
写真を撮影されると死ぬと予言された国王
アラビア半島南の石油産出国である、イエメンの国王を務めていたイマーム・ヤフヤー王(1869年 ~ 1948年)。
この、イエメンの国にはある有名な占い師がいた。
占い師というより、予言師といってもいいくらいの人物だった。幼い頃、ヤフヤー王は、この占い師から「決して自分の写真を撮られてはなりません。
もし誰かに写真を撮られたら、あなたは不慮の死を遂げることになるでしょう。」と予言された。この予言を完全に信じたヤフヤー王は、これ以降、決して人に写真を撮らせないように最大限の配慮をしていた。
だから国民も、ヤフヤー王の顔を見たことがなかったのだ。だがある時、国王に面会を許された、あるイタリア人の画家が、
その面会中に国王の顔を完全に覚えてしまい、面会が終わってからすぐに国王の肖像画を描きあげてしまった。
ヤフヤー王にしても、写真は撮られないように注意してはいたものの、絵にまでは考えが及ばなかったのだ。
この肖像画は、後にアメリカのリプレーという作家の元に渡り、さらに精巧な肖像画が新聞に掲載された。確かに写真ではないが、絵という媒体を通じて国王の顔は多くの人の目に触れることになってしまった。
この記事が掲載されたのは1948年2月20日。
そしてアメリカで記事が掲載されたちょうどこの日、全くの偶然か予言通りなのかイエメンにクーデターが起こり、
ヤフヤー王は反乱部隊の手によって殺害されてしまった。クーデターは、王位継承を狙う一人の王子の陰謀であり、このクーデターによってヤフヤー王自身と、
16人の息子のうちの3人が暗殺されてしまったという。
ヤフヤー王殺害のニュースはその日のうちにアメリカに伝わり、夕刊に記事が掲載された。
生涯の半生を洞窟で過ごした一家
シベリアのチュメニに住むジナイダ、リジア、アナスターシャ、ニーナの4姉妹は、
地下の洞窟の中に住んでいた。父は管理責任者。
洞窟に住んでいるというと変に聞こえるかも知れないが、
正確には「洞窟を利用して作られた、(旧)ソ連軍の地下倉庫」である。ある日洞窟で落盤事故がおこり、入り口が塞がってしまった。
幸い軍需用保管庫でもあり空気と水はなんとかなったが、
救出はついにこなく40年後偶然空いた場所から外に出たのである。
父は死んだが保管された食料を食う寝るの繰り返しだけで40年生き抜いてきた4姉妹であった。
ホープのダイヤ
ダイヤが発見されたのは9世紀。インドの西北部ガット山脈のバルカット峠のふもとで、
ある農民が畑を耕していると、クワの先端に何か硬いものが当たった。
そのまま掘り起こしてみると、見るも美しい青く透明な石が現れた。
宝石商に持っていって鑑定してもらうと、279カラットもあるダイヤだということが分かって、
農民は大喜びした。以下所有者の末路である。発見者の農民 ・ペルシアの軍隊が攻め入ってきて、
必死に握りしめていた農民の腕ごと切断されて奪われるという悲惨な結末となった。
ダイヤを奪ったペルシア軍の隊長・ダイヤを献上する予定だが自殺。
17世紀に仏像に埋められるが盗まれる。フランスのタベルニエ・盗んで仏本国に帰還。王室に売り多額の富を獲るが事件で没落、狼に食われる最後。
マリー・アントワネット・入手後革命でギロチン台で首切られる。
ヘンリー・ホープ・ロンドンの大銀行家。数々の不幸に見舞われ、最終的に破産。
彼が所有していた時に「ホープのダイヤ」と名づけられた。他にも災難をもたらすけど多いため割愛。
現在、ダイヤはスミソニアン博物館の人気展示品になっている。
ミシガン・トライアングル
魔のミシガン・トライアングルをご存知だろうか。
バミューダ・トライアングルはあまりに有名だが、この五大湖のひとつミシガン湖にも、数々の怪事件が起きている。魔の三角は、ラジントン(ミシガン州)、ベントンハーバー(ミシガン州)、マニトウォクを結んでいる。
この地域では、たとえば、1937年4月28日、貨物船マクファーランドの
船長ジョージ・R・ドンナーが、船のキャビンから忽然と消失してしまった。また、1950年6月23日には、ニューヨークからミネアポリスに向かっていた、
ノースウェスタンエアライン2501が、3人の乗組員と55人の乗客とともに、突如、消失してしまったのだという。今度はニューヨーク市からミネアポリスへと飛び立ったノースウェスト航空機が、
ミシガントライアングル上空にてまるで蒸発するかのように消え去ってしまった。
この事件はその後長年にわたって調査されているが、残骸は未だ発見されていない。
ツチノコ
ツチノコを記した文献は古くからあり、なんと現存する日本最古の歴史書「古事記」で野の神として登場している。
さらに、同じく最古の勅撰正史「日本書紀」にも記されている。
その他にも多数の文献に登場する。
呼び名は地方によっていろいろで、「バチヘビ」、「ノヅツ」、「タワラヘビ」などがある。
劉備人肉を食す
戦に負け、敵将である曹操のもとへ落ちのびる道中、
劉備は猟師である劉案という人物の家にかくまってもらいます。
劉案は疲れた劉備たちをもてなそうと、夕食に肉料理を準備しました。劉備はその肉料理をとても美味に思い「何の肉ですか?」と訪ねたところ、
劉案は「オオカミの肉です」と答えました。翌朝になり、劉備は台所で劉案の妻の死体を発見します。
死体の一部の肉が削ぎ取られていたため、昨日の肉料理が劉案の妻のものだったことに気づきます。
貧しいため食材を買えず、妻を振舞った話です。
ロンドン塔
ロンドン塔は、1078年に征服王ウイリアムによって要塞兼宮殿として
建造された当時としてはヨーロッパ最大の城である。
それ以後も、各王によって拡張工事が続けられ、その結果、18エーカーの広大な敷地には、
いくつもの塔や館が建てられた。この900年の歴史を持つ古塔は主に王位継承争いで破れた王妃、
貴族、反逆者などを閉じ込める場所として使われてきた。
そして、残虐な拷問が繰り返し行われ、首を斧でたたき切るという
残酷な処刑が長年続けられてきた忌わしい恐怖の場所でもあるのだ。今では観光名所の一つになってはいるが、深夜一人では決して近づきたくない場所だといえよう。
また、ロンドン塔には地下75メートルにあって全く闇だけの小部屋があり、
ここに入れられると、どんな意志の強い人間でも発狂したと言われている。
罪人は、恐ろしい闇と全く静寂だけが支配する恐怖の部屋で、
苦痛と幻覚を味わった挙句に、精神が破壊されてしまうのである
フィラデルフィア消磁実験
全ての準備が整い、メインスイッチが入れられた瞬間、不気味な振動と共に、テスラ・コイルの
周囲から異様なほど美しい青白い光が乱舞し始めた。やがて、ドーム状にエルドリッジの船体を
包み込むと、今度はどこからともなくシュルシュルッと虫の羽音のような音が響き渡った。そして船内の至る所からパチパチッという電気的なスパークが発生し、その閃光が走った。この時
実に恐るべきことが起こった。エルドリッジの姿が消えたのである。大勢の軍人が見守る中、
忽然と消滅してしまった。資料には、それはあたかも霞のように空中に消えたと描写されている。一方、エルドリッジの船内では、次々に異様な現象が起こり始めた。青白い光が船体を包み込むと、
頭上の青空は一瞬にして消え失せ、メインマストのアンテナと送信機材が超高熱で溶けてしまった。
被害は突出している部分ほど激しく、雷に打たれたように爆発して弾け飛んだとある。強烈な電磁場に包まれた船内では恐ろしい事態が相次ぐ。体が燃え上がる者、
硬直状態になったままの者、おぞましいことに、船室の壁に体が埋め込まれてしまう者さえ続出した。
まさに船内は地獄絵図の様相を呈していた。この時すでに、乗組員のほとんどが精神錯乱状態にあった。全てが終わった後、エルドリッジに乗り込んだ軍人たちは、この世のものとは思えぬ惨状を目にした。人体の一部、あるいは全身が真っ黒な灰と化した人間の姿、発狂したまま空をにらむ者、体が硬直したまま呼吸が停止した者、さらに異様なものがそこにあった。
船内の各所から、人間の体の一部が突き出ていたり、生えていたのである。
正確に言えば、人体と船体が合わさった状態で発見されたのだ。
また、生き残ったエルドリッジの水兵は、全員例外なく体の不調から入院し、そこから精神病院に送られる者が続出している。結局、生き残った者で復帰した者はなく、全員廃人同然か死亡する結果となった。関係者の間でかなり動揺が走ったが、信じがたい結果になった中での一応の成功とされた。
バビロンの空中庭園
現在のバグダード郊外にそれらしき遺跡が残る。紀元前600年頃に新バビロニアの王、ネブカドネザル2世が、メディア出身で砂漠の国に輿入れするのを嫌がった王妃アミュティスを慰めるためにバビロンに建造した。
宮殿の中に作った高さ25m、5段の階段状になっているテラスに土を盛り、水を上まで汲み上げて下に流し、樹木や花などを植えた。あまりの大きさのため、遠くから見ると、
あたかも空中に吊り下げられているように見えたという。
一番上の面積が60平方メートルと推定される。紀元前538年のペルシアによる侵略の時に破壊されたという。ストラボンやディオドロスなどの歴史書やプリニウスの『博物誌』では言及されているが、ヘロドトスには知られていない。ニネヴェにあったという別の庭園と混同されているのでは、という説もある。
ストラボンの説明によると、柱や地下室は煉瓦で作られ、
四隅を柱で支えられ高いところへ据えられた立方体のテラスに土を盛って庭を構成し、
その上にアーチ上の屋根が架けられていたという。「吊り下げられた庭園」という誤解があるが、
それはギリシア語のkremastosまたはラテン語のpensilisの不正確な翻訳のせいらしい。水を汲み上げる方法については、らせん水揚げ機などの説明がされているが決定的ではない。
グリゴリー・ラスプーチン
帝政ロシア末期の祈祷僧。
奇怪な逸話に彩られた生涯、怪異な容貌から怪僧・怪物などと形容される。
ロシア帝国崩壊の一因をつくり、歴史的な人物評はきわめて低い反面、その特異な
キャラクターから映画や小説など大衆向けフィクションの悪役としては昔から非常に人気が高く、
彼を題材にした多くの通俗小説や映画が製作された。
世界大戦で活躍した奇術師
第二次世界大戦が始まるとマスケリンは自分の技術をカモフラージュに役立てられると考え、イギリス軍の工兵隊に参加した。彼はテームズ川で鏡と模型を使ってドイツ軍艦のイリュージョンを作ってみせ、当初は懐疑的だった士官を納得させた。
1941年1月、アーチボルド・ウェーヴェル大将は欺瞞と防諜を目的とした部隊「Aフォース」を設立した。
ここに任命されたマスケリンは建築家、絵画修復技術者、大工、化学者、電気設計士、電気技師、画家、舞台技師など14名からなるグループを組織した。
彼等はマジックギャングという通称で呼ばれた。マジックギャングは数多くの手品を行なった。
彼等は絵の描かれた布と合板を使ってジープを戦車のように見せかけ、
キャタピラの痕跡まで偽装する一方、戦車をトラックに見せかけたりもした。
彼等は軍隊や軍艦のイリュージョンも作ってみせた。彼の最大の手品はアレクサンドリアのスエズ運河を隠蔽してドイツ軍の爆撃機の方向を誤らせるものである。
彼はアレクサンドリアから3マイル離れた湾に夜明かり、建物、灯台、高射砲隊といったものの模型を作った。
またスエズ運河を隠すために回転する円錐状の鏡を用いて、回転する光で幅9マイルに及ぶ光の輪を作った。1942年、マスケリンは第二次エル・アラメイン会戦に先立つバートラム作戦に参加した。
これはドイツ軍のロンメル将軍に連合軍が南から攻撃してくると思わせるためのもので、
実際にはイギリス軍のモントゴメリー大将は北からの攻撃を計画していた。
北には千台もの戦車がトラックに偽装されていた。南にはマジックギャングによって二千台の戦車の偽物が置かれていた。
偽の線路、偽の無線会話、偽の建築音まで偽装された。
偽の水用パイプラインも敷設され、攻撃が行なわれるのはずっと後であるように見せかけた。
ロンギヌスの槍
キリストを貫いた槍でもあり、これを手中にした者は過去の歴史上覇権を確立してきた
そして時は流れて20世紀、この「ロンギヌスの槍」の魔力に魅せられたもう一人の男がいる。第三帝国を率いたアドルフ・ヒトラーである。
1938年にナチスがオーストリアを併合した際、ヒトラーはハプスブルク家の
財宝を奪い去ったと言われているが、一説によれば、ヒトラーはまず何よりも
「ロンギヌスの槍」にこだわり、第三帝国の名の下においてそれを奪還、
同年10月13日にはヒトラーの命令で武装したSS専用の列車に槍を積み込み、ニュルンベルクに輸送したという。その後ヒトラーは快進撃を続け欧州を席巻するが、ロシアへの進軍で致命的な敗北を喫する。
そして1945年4月30日午後2時10分、米軍のウォルター・ウィリアム・ホーン中尉が「ロンギヌスの槍」を
保管していたニューンベルクの教会に踏み込み、槍を再び奪還、ヒトラーは「ロンギヌスの槍」を失うことになる。ヒトラーがベルリンの地下壕で拳銃自殺したのは、それからわずか80分後のことである。
現在、世界には数本の「ロンギヌスの槍」が存在するが、
そのうちのいずれかが本物のであるのか、全てが中世の捏造物であるのか、
あるいは南極大陸の奥底に今も眠るのか。真実は闇の中である。
トゥーレ協会
1918年にミュンヘンで結成された秘密結社。トゥーレはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの
『ファウスト』『トゥーレの王』にも登場する伝説の地「トゥーレ」から命名された。1月に右翼政治結社・ゲルマン騎士団の委託を受けたルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフにより、
騎士団の非公式バイエルン支部として設立された。
正式名称を「トゥーレ協会・ドイツ性のための騎士団」といい、
スワスチカ(ハーケンクロイツ)と剣をシンボルマークとした秘密結社であった。表向きの協会の目的はゲルマン古代の研究であったが、
実際にはゲルマン騎士団員グイド・フォン・リストによって神智学を元に提唱された
アーリア主義を範として、民族主義と結びついた
異教的神秘主義・人種思想・反ヴァイマル共和国的扇動、反ユダヤ的プロパガンダを広めることだった。ナチ党の前身であるドイツ労働者党とドイツ社会党を設立した
アントン・ドレクスラーとカール・ハラー、ミュンヘン大学講師で地政学者の
カール・ハウスホーファーもトゥーレ協会の会員であった。
また、ルドルフ・ヘス、アルフレート・ローゼンベルク、ディートリヒ・エッカート、
ハンス・フランクなどの、後にナチ党で重要な役割を果たすことになる党員たちもトゥーレ協会に属していた。1937年にフリーメイソンおよびその類似団体の活動が禁止されたことに
伴ってトゥーレ協会とゲルマン騎士団は解散した。
思想はナチスに引き継がれていく。
フーファイター①
第二次世界大戦中世界中でよく目撃されたという「フーファイター」。目撃した各国のパイロットたちは自機にまとわりついてきたり周囲をめぐったりする謎の輝く物体を敵国の秘密兵器かと疑ったという。
フーファイター②
1942年ロサンゼルス上空に出現した謎の発光編隊。米軍が迎撃するが撃墜の戦果無し。
1942年2月25日(日本軍の真珠湾攻撃の80日後のことである)、ロサンゼルスの西、
約193kmの地点を、20~25個もの点滅する「銀色の光」:未確認飛行物体の編隊が、
太平洋岸の米軍事施設および海軍基地に向かっているとの情報が
海軍情報部から、極東戦略作戦本部へ発信された。午前2時15分、問題の物体は日本軍の航空機の疑いがあるとして、
第37沿岸砲兵旅団の対空砲兵中隊が警戒体制に入った。
この銀色の20~25個の飛行編隊は湾岸近くで高度約4000mから
約2600mまで降下して、戦術的飛行編隊に戦力を分散し(各3~6機の編隊)、
軍のレーダー、探査用光学機器、ロス市警、市民などによりその存在が確認された。西部防衛司令部は、未確認飛行物体は防空当局に登録されておらず、
これらは「合衆国の航空機ではない」と主張した。
「ロサンゼルス・タイムス」の公式写真から見て、当時件の円盤型機械は
いかなる「地球起源の航空機」とも異なり、無音で低高度を低速で
(時速150m~200m)で飛行し高性能の対空放火をまったく無視するように回避している。
これだけの対空砲弾の中、1機も撃墜されなかった言うのはありえないことであるとしている。
異形の者 – 件(くだん)-
古くから日本各地で知られる妖怪。「件」の文字通り、半人半牛の姿をした怪物として知られている。
その姿は、古くは牛の体と人間の顔の怪物であるとするが、
第二次世界大戦ごろから人間の体と牛の頭部を持つとする説も現れた。
慶応3年(1867年)4月の日付の『件獣之写真』と題した瓦版によると「出雲の田舎で件が生まれ、『今年から大豊作になるが初秋頃より悪疫が流行る。』と予言し、3日で死んだ」という。明治42年(1909年)6月21日の名古屋新聞の記事によると、十年前に五島列島の農家で、
家畜の牛が人の顔を持つ子牛を産み、生後31日目に「日本はロシアと戦争をする」と予言をして死んだとある。この子牛は剥製にされて長野市の八尋博物館に陳列されたものの、
現在では博物館はすでに閉館しており、剥製の行方も判明していない
阪神大震災と東日本大震災直後にも、闇で踊ってる異形の人?の目撃談もある。世界で類似してるのがソロモンの魔王72柱のモラクスだと思われる。、
博識伯。36個軍団を指揮する総統でもある。
雄牛の身体に醜い人間の頭を持っていたり、人間の身体に雄牛の頭を持っていたりする。
魔術師にとっては大いに役立つ悪魔で、天文学、占星術だけではなく、
宝石や薬草を魔法に利用する方法にも詳しく、その知識を与えてくれるという。
また、解剖学の専門家にもしてくれたり、魔術師に使い魔を与えてくれることでも知られている。
果心居士(カシンコジ)
筑後の生まれとある。大和の興福寺に僧籍を置きながら、
外法による幻術に長じたために興福寺を破門されたという。
その後、織田信長の家臣になりたいという思惑があったらしく、信長の前で幻術を披露して
信長から賞賛されたが、仕官は許されなかったと言われている。猿沢の池の水面に笹の葉を放り投げると、たちまち笹の葉が魚になって泳ぎ出した。
上記の術を信用しない男の歯を楊枝でひとなですると、歯が抜け落ちんばかりにぶら下がった。松永久秀とはとくに親交があり、久秀が「幾度も戦場の修羅場をくぐってきた自分に恐ろしい思いをさせることができるか」と
挑んだところ、数年前に死んだ久秀の妻の幻影を出現させ、震え上がらせた。豊臣秀吉に召されとき、果心居士は秀吉がだれにも
言ったことのない過去の行いを暴いたために不興を買い、捕らえられて磔に処された。
しかし、このとき果心居士は鼠に姿を変えて脱出し、それを鳶がくわえてどこかに飛び去ったともいう。古老茶話によると、次のような記述が見られる。
「慶長17(1612)年7月、因心居士というもの、駿府公の御前に出る。
神君むかし御覧あるもの也。いくつになるぞとおたずねこれあるところ、八十八のよし申し上げる」
生没年不明だが現存していた記録だけが残る。幻術師
をのこ草紙
約280年前(1730年頃)、八代将軍徳川吉宗が
享保の改革を実施していた頃に流布したといわれる幻の予言書。神道天行居の創立者として有名な友清歓真(1888~1952)の
名著『神道古義地之巻』に引用され、いまに伝わる。
友清は昭和5年に、ある人物から次のような雑誌の切り抜きを送られたとして、『をのこ草紙』の一部を紹介している『をのこ草紙』によれば、西洋の物質文明や価値観により日本人の心はしだいに失われ、
その果てに大地震や大洪水、大火災や台風などの異変が発生し、人口は半分に減って、
外国の軍隊が攻めてくる事態も予想されるという。
その時期はなんと1980年から始まっているらしいのだ。とすると、神のごとき大神(ミロク?)が現れるのは2080年頃となり、
その時までわれわれは、狂喜じみた世の中で苦しみ続けなければならないことになる。
ロシアのマイクロスプリング
ロシアの針葉樹林から直径10センチの石ころに5ミリ程度のボルトが突き刺さっていて
そのボルトっていうのがまた不思議材質がなにで出来ているのかが全く不明。しかも凄いことに、そのボルトに数トンの圧力をかけても全くびくともしないし、
変形はおろか傷一つ付けることさえできなかったのだよしかもその石を調べると
形成された年代は15億年前といわれる。周辺一帯は隕石の落下形跡がある。
メスカルティタン
メスカルティタン(Mexcaltitan) はメキシコ合衆国・ナヤリット州の湖に浮かぶ人工島の小都市である。
州都のサンティアゴ・イスクイントラから約36km北西に所在する。
アステカの神話上の故郷の地、アストランであったとされる(諸説あり)。1091年、アステカ族はウィツィロポチトリの神託を受け、メスカルティタンを出て理想郷を探す長い旅に出る。
現在のメスカルティタンは人口895人(2005年)。
徳川に仇なす刀 村正
村正の刀は、本来美濃伝の刀として、その切れ味や機能美をそなえたもの
しかし、徳川の人間が何人か痛い目にあった、というだけで、
妖刀にされてしまった、不幸な刀といえます。家康の祖父を殺した刀であり、信長によって切腹させられた
長男を介錯した刀であり、父広忠もこれによって斬りつけられています。
昔の人間は、今の人間以上にジンクスにこだわるものであったし、
家康が忌み嫌うのも、分らなくはない。
世界で怖い女性の絵
(2007年当時)春ごろから、中国のあちこちの掲示板に
貼られた「世界で最も怖ろしい」絵。描かれている清楚にして凄艶な女性は東南アジア某国に住まう人妻。
これほどの美女を妻にめとりながら、夫は外に愛人をつくり、
結果彼女は絶望して自殺したのだそうです。悔やんでも悔やみきれない夫は全勢力を傾けて、妻の肖像を描き上げました。
そして描き上げると同時に飛び降り自殺、帰らぬ人となりました。
以降、この絵は第三者の手にわたりましたが、持ち主はいずれも発狂して
死に至り、薬はいっさい効かず、ベッドのなかで大小便をたれ流し、
顔をかきむしって死んでいったといいます。
ノアの方舟
旧約聖書の『創世記』(6章-9章)に登場する、大洪水にまつわる、ノアの方舟物語の事。
または、その物語中の主人公ノアとその家族、多種の動物を乗せた方舟自体を指す。
「はこぶね」は「方舟」のほか、「箱舟」「箱船」などとも記されるノアの方舟がたどり着いたところは、
今のアララト山(現在のトルコ共和国東端の標高5.165mの山)の山頂、あるいは山腹だと記されている。ヴァージニア大学リッチモンド大学助教授、ポ-チャー・テイラー氏の研究によれば、
アララト山の物体は長さ309m程であり物体の長さは、かのタイタニック号、そして戦艦ビスマルクといった巨大船よりも更に大きく、丁度現代における最大クラスの空母とほぼ同じサイズであるという。
即身仏
密教系の日本仏教の一部では、僧侶が土中の穴などに入って瞑想状態のまま絶命し、
ミイラ化した物を「即身仏」(そくしんぶつ)と呼ぶ。
仏教の修行の中でも最も過酷なものとして知られる。
この背景にあるのは入定(にゅうじょう)という観念で、「入定ミイラ」とも言われる。
本来は悟りを開くことだが、死を、死ではなく永遠の生命の獲得とする考えである。
入定した者は肉体も永遠性を得るとされた。日本においては山形県や新潟県に多く分布する。
目的はその時期に飢饉や疫病、天災などを納める、祈願で入定する。
衆生救済修行上最高の難易度(終盤は木の実と水のみ)
状態よく残ってるのが少なく実際にはもっと多くあったと思われる。
石室を作り、竹筒を差し空気吸入口として密閉、小型の鐘に似た手持ちの仏具
を鳴らしながら経文を唱え続ける、鐘の音=生存の証。
ヒバゴン
1970年代に広島で目撃されたという大型類人猿型の未確認生物。
複数の目撃情報があり、人間によく似ているのだが、
顔は逆三角形で、目が鋭くぎょろっとしていると言われている。
全体に薄い黒にちかい茶褐色の毛に覆われており、頭には5センチメートルほどの毛あり、
逆立っているのが特徴。身体全体は、黒にちかい茶かっ色の毛に覆われているという。
動作は鈍く人を恐れる様子はないと言われている。正体については、諸説いり乱れているが、
大猿や熊の見間違い、逃げたしたオランウータン、
あるいは浮浪者か、世捨て人のように山で暮らす人ではないかと様々で、
昭和初期に、比婆山に近い山村で身重の娘が姿を消したという話から、
その娘が山中で産み落とした子供が野生児としていきていたのではという話まである。1974年10月11日の目撃を最後に、ぷっつりと消息がとだえている。
頭蓋穿孔
トレパネーション。頭に穴をあけて脳を解放することで血流量を増やし、
脳を活発化させて、日々の倦怠感から解放し、多幸感を得ようという医学界では認められていない施術。太古から行われていた外科施術の一つと言われている。
正規の医師の管理下によらず、自らドリルを手に頭頂部に穴をあける人たちもいる。
医学的には全くの根拠が無いと否定されているが、
長らくうつ病に苦しんだ末、トレパネーションによって活動的で幸福な人生を手に入れたと主張する人たちは、
うつ病の解決策の一つだとして、トレパネーションを推進しようし、医学界が積極的に取り組まないのは、
巨大な抗鬱剤市場をもつ薬品業界の陰謀であると主値している。そもそも、近代トレパネーションの発端は、
1965年にオランダで発生したプロボという社会変革活動と密接な関係がある。
アーチストやアナーキストや学生運動家などを含んだプロボタリアート(プロボ活動に参加する人)たちは、
世間にその主張を訴える行動をプロボケーションという手法を取った。そのプロボケーションとは言い換えれば「世間を挑発すること」であり、
プロボタリアートの唯一の武器として機能し、一時は地方議会の議席を得るまでになっていた。
そしてプロボケーションの手法の一つとして、ドクター・フヘスが、
直接的に頭蓋骨に穴をあけるトレパネーションを唱えた。これを第三の目運動という。当時、彼らプロボタリアートは、
LEDなどにも積極的に取り組み「大脳の活性化」という目標をたてており、
このトレパネーション、第三の目運動が目的と合致するとされた。またアフリカには石器で頭頂部を切り開くような、
伝統的なトレパネーションが未だ残っている。
ピトケアン島
南太平洋上に浮かぶイギリスの海外領土、ピトケアン諸島。
この島の周囲300kmには、他に人の住む島は無い。この絶海の孤島に人が住み着くようになったのは、バウンティ号の反乱事件である。
1789年、トンガ沖のバウンティ号で反乱を起こした乗組員たちは、船を掌握すると一旦タヒチに戻った。しかし、その後本国の執行官に逮捕されることを恐れ、首謀者のクリスチャンと
8人の反乱者はタヒチ島の現地人(男6人、女11人、赤子1人)を乗せて再び、
航海に出た。そして地図にない島、ピトケアン島を発見し、
そこを永住の地として船を解体して生活を開始する。1808年1月にアメリカ船トパーズ号が、ピトケアン島にやってきた時には、
水夫のジョン・アダムスと子供二十数名、ポリネシア人女性10名が
ピトケアン島に生活しているだけであり、
残りの反乱者達は既に、病気、自殺、事故、喧嘩などにより死亡していた。その後、島はアメリカ生まれのジョシュア・ヒルという
詐欺師によって支配され独裁政治が行われることになる。
1832年イギリス政府に派遣されたと嘘をついたヒルは、
逆らう島民達を投獄し、むち打ちの刑を課し島を支配したという。その後1838年に、島民の訴えで事情を知った
イギリス海軍がヒルを追放するまで、この支配が続いた。
ピトケアン諸島少女性的暴行事件
長年、閉鎖環境に置いておかれたピトケアン島は、外の世界からも忘れられた存在であった。
1999年、ふたたび世間の耳目を集めることとなる。
この島に研修に来ていたイギリスの女性警察官が、この島の大部分の成人男性が、
島の14歳以下の女性と性交渉をもっているという事実を告げられたのだ。
その後、捜査の結果、事実が明らかになり、大部分の成人男性の島民が逮捕されることとなる。ただしこれには島独自の風習も考えなくてはならない。
ピトケアン諸島では、12歳を過ぎたら結婚できる資格があると考えられおり、
大半の女性が12歳から15歳の間に最初の出産を経験していた。
このため12歳の少女との性行為は倫理的にも問題ないと考えられていたという主張である。島の成人女性達も、この事件対する会議を開き、島の男性達を弁護すると決定した。
彼女たちによれば
「少女に性行為を要求することは1790年の島への入植以来のポリネシア文化の伝統と認めるべきだ」
というものである。ただ、この会議についても女性全員が参加しているものではないという点や、
成人男性のほとんどが収監されてしまうと島の経済がたちゆかなくなるという事情が
加味されたのではないかと言う指摘も一部ある。最終的に裁判では6人が有罪判決を受けることになり、この事件によって
加害者とされる側も、被害者とされる側もひどく傷ついたと言われている。その後、ピトケアン島では長らく興味本位のメディアが入ってくることを拒んでいたが、
近年日本のテレビ局がバウンティ号の取材で島に入り、現在の様子を放送した。
ただし少女性的暴行事件については一切ふれることはなかった。
式喰いの面
陰陽道の流れをくむいざなぎ流の信仰がある高知県物部地方。
そこの家には代々伝わる式喰いの面があるといわれている。
この面を見るのは、家長となるものだけ、それも一生に二回だけだという。つまり家長を引き継ぐときだけに屋根裏にある面と対面するだけだという。
他のものがうかつに見たりすると、禍がふりかかるといわれている。当主も、そのその面と対面するときは、二週間ほど前から肉類を絶ち、
体を清めて正装をしてまみえなくてはならないとされる。
仮に家が途絶えた時などは、太夫と呼ばれるいざなぎりゅうの術者が、
その面を人目につかぬようして、川に流して処分するという。
この処分され、流れていく面も、うっかりとみてしまうと
見たものに禍がふりかかるといわれている。
山ン本五郎左衛門
百物語の最後には必ず山ン本五郎左衛門の話をしなくてはならないとされる。
裃を着た40歳ほどの武士の姿をしているとされる。
各地の怪談には、もののけと対峙して一歩も引かなかったときに
最後に山ン本五郎左衛門が出てきて
その勇気をほめるという話がいくつか見受けられるが、
その肝心の山ン本五郎左衛門は
どういった物の怪なのか、語られることはない。百物語の作法の一つには
百話目の山ン本五郎左衛門の話をすることをためらい
九十九話で終わるというものもある。
この時、用意されていた山ン本五郎左衛門の話が
本来の山ン本五郎左衛門の話で、
一体どういった妖怪であるのか語られているという話あり、
語り手が最後までためらうのが
常だったために百話とされたというのである。
太歳
中国で古くから霊力があると言われてる
石のようなゴムのような生物のような不思議な物体。
茶色や白、黄色、あるいは黒色であったり様々なものが存在すると言われている。
近年発見された太歳らしきものに関しては、徐々に大きくなっていくという報告のものが多い。古来中国では不老不死の妙薬の原料とされ、始皇帝が徐福に命じ
不老不死の仙薬を求めた時もその重要な材料として太歳の名前が挙がっている。
他にも、肉霊芝または肉万年茸と呼ばれて、中国古来の地理書や医学書にその名前が出てくる。現在中国では、この太歳は幸運を呼ぶものと解釈されている場合があるようで、
それらしきものが大金で取引されているという話もあるのだが、歴史的に見れば、
祟り神のようにして扱われている場合も多くあり、中には「長い間触れていると死ぬ」といったような話もある。可能性として語られる話に、太歳とは、変形菌の一つで、変形体と呼ばれる栄養体が移動しつつ
微生物などを摂食する動物的性質を持ちながら、胞子により繁殖するといった
植物的菌類的性質を併せ持った生物ではないかという指摘があるのだが、
どれが本来の太歳であるか不明なためはっきりしたことはわかっていない。仮に、変形菌のひとつであるとすれば、生活環境や、その種の違いによって、
キノコのように時には毒素を作り出したり時には多幸感のある物質をつくりだすことも
無いとは言い切れないのではないだろうか。
ニューネッシー
1977年に日本のトロール船 瑞洋丸がニュージーランド沖で引きあげられた謎の腐乱死体。
全長約10メートル、重さは1800キログラム、首の長さは1.5メートル。
船には腐乱死体をつめるようなスペースはなく、ヒゲ状物数本を除き引き上げから一時間後に破棄された。ウバザメの死体ではないか?とも言われているが、
引き上げた瑞洋丸の船員の多くは「あの腐臭は如何なる魚のそれとも異なっていた」と証言。
首や尾の骨が「正方形の硬いブロック状」であったという話もあり、
ウバザメ説については未だ疑問の声が出ている。現在はウバザメ類の可能性が高いと指摘されています。
犬神
人にとり憑く犬の霊。非常に強力な力をもつとされる。この犬神を操るものを「犬神使い」という。
犬神は、しばしば人工的に作られると言われ、その作法がいくつか伝わっている。代表的なものは、大層かわいがって育てた犬を首が出るように生きた犬を地面に埋め、
ちょうど届かない犬の目の前に犬の好物を置き食べ物を前にして飢えさせる。
肉類など臭いがあるものがよいとされる。
そして飢餓状態が最大になった頃愛を見計らって背後から犬の首を斬り落とす。
犬の首は飛んで食いものに喰らいつこうとするが、そこをとり押さえ、白布に包み四辻に埋める。
大勢の人の踏ませ、掘り出したのち呪物として祀り犬神を完成させる。また西日本を中心に四国を中心に犬神筋と呼ばれる犬神を代々受け継いでいる家系があり、
かつては忌み嫌われた。その娘の嫁ぐと、犬神が一緒に憑いていき、
そこも犬神筋の犬神持ちとなると言われて、かつては婚姻差別の元凶となる場合もあった。
犬神持ちの家は富み栄えるとされている場合もあるが、従順ではなく時として
犬神持ちの家族をかみ殺すこともあると伝えられ、タタリガミとして忌み嫌われる場合もある。犬神に憑かれると、胸の痛み、足や手の痛みを訴え、急に肩をゆすったり、
犬のように吠えたりすると言われる。人間の耳から体内の内臓に侵入し、
憑かれた者は嫉妬深い性格になったり、時には恐ろしく大食いになるという。
犬神を離すには、獣の黒焼きを食べさせ、山伏姿の祈祷師に護摩を焚いてもらい
呪文を唱えれば犬神は離れるという。犬神使いはこれを阻止しようとする。
聖ヨゼフの階段
サンタフェにあるロレット・チャペルは、建築家 P.ムーリーによってが設計されて
1873年から工事が始まった。しかし構築物がほとんど完成されてから一つの恐るべき誤りが発見された。せっかく作られた聖歌隊用の二階の桟敷行く階段が無いのである。
困ったシスターたちは、多くの大工を呼び相談したが、皆、これに、ふさわしい階段できない。
バルコニーを作り直すか、ハシゴで登るかだというダケだった。
途方に暮れたシスターたちはノヴェナ[九日間の祈り]をすることにしたという。そしてノヴェナの最後の日に一人の灰色の髪の毛の男が一匹のロバを連れやってきた。
その老人は一つの道具箱を持ってアカデミーの所で止まり、シスターたちのために
一つの階段を建設することができるかどうかを尋ねた。シスター達は喜んで同意すると、
彼はシスターたちの前で木片をタライにつけて作業を開始した。用いた道具は一本の鋸、T定規それに金槌だけ。
出来上がった階段は33段、完全に360度を2回転するらせん状。
木の釘は使われているが、鉄の釘は一本も使われていない。そして驚くことに、
螺旋階段を支えるはずの支柱がなく、まるで宙に浮いているようにみえる。この支柱の無い現在の科学を持ってしても建築工学上の謎であり奇跡といわれている。
そして階段が完成すると、その男の人は支払いを受ける前に不思議にも姿を消してしまったという。
なお、地方の材木工場は、この事業のために購入されたいかなる木材の記録も持っていなかったという。
Taman Shud事件
オーストラリアでは史上最も不可解な未解決事件の一つとされる。
1948年12月1日にオーストラリアの海岸で身元不明の男性の遺体ず発見された。
夏の暑さにもかかわらずセーターとコートを身につけていた、この奇妙な死体は、
身元を表すようなものは一切持ち合わせておらず、
捜査機関が歯科治療記録や指紋などを調べたのだが、身元を特定するに至らなかった。ただ近くの駅で、この男性のものと思われるスーツケースが見つかり、
そこには隠しポケットのあるズボンが収められていたという。警察が、この隠しポケットを調べ、
中から、本から破りとられた「Taman Shud」と書かれたページが発見された。
この隠されたページを調べていくと、付近で発見された鍵のかかっていない自動車の
後部座席に置かれていた「ルバイヤート」の希少本から破られたものだという事が判明した。そして、人々の興味を惹いたのが、その本の裏表紙には何らかの暗号とおぼしき文字列であった。
WRGOABABD
MLIAOI
WTBIMPANETP
MLIABOAIAQC
ITTMTSAMSTGABこの男は何らかの組織に関係するスパイだったのだろうか。
しかし何故、希少本のページを切り取りポケットに隠したのだろうか。
全ての謎を解くキーとなるはずの暗号は、今日になるまで、誰にも解かれていない。
マンドラゴラ
魔術や錬金術の原料として珍重される植物。絞首刑になった男の精液から生じるという言い伝えがある。
人の体のような根がその本体であり、引き抜くときにこの世のものとは思えないような悲鳴を上げるとされ、
この悲鳴を聞いたものは発狂して死んでしまうという伝説がある。
このため、マンドラゴラを採取する際には、注意深く値を掘り、人が遠くに離れてから、
犬に引っぱらせて引っこ抜くという手間をかけるという方法が取られる。その手法はこうだ。マンドラゴラに犬を結び付けて人は遠くに離れる。
そして十分な距離を取ったのちに大声で犬を呼ぶ。
犬が人の方へ駆け寄ろうとする勢いで、マンドラゴラは悲鳴を上げながら抜ける。
当然、この声を聴くことになる犬は発狂して死んでしまう。市場では、その時に死んだ犬の死体を本物の証明としてマンドラゴラの証明として、一緒に取引される。
十分に成熟したマンドラゴラは、自ら地面から這いだし、自らの先端の根っこを足のように使い徘徊すると言われる。
その姿はコボルトやごプリンに似ていると言われる。地中海地域から中国西部にかけて自生する植物であるマンドレイクが、
マンドラゴラのもとになったと言われているが、このマンドレイクも人の体のように枝分かれする
根を持ち、その根には幻覚、幻聴を伴い時には死に至る神経毒を持っている。
覗き屋トムの謎
高級チョコレートで有名なゴディバ。
そのロゴマークには、裸体で馬にまたがった女性が描かれている。
彼女こそが、領主の妻であったゴダイヴァ夫人である。彼女の夫は、領民への理不尽な圧政を行っており、人ばかりか馬にまで税金を課していたという。
夫の悪政に苦しむ領民を知った夫人は、夫に馬税を撤廃するように迫った。領主である夫は、夫人に対して
「そなたが次の日曜日、全裸で馬にまたがり町を一回りすることができれば考え直そう」と提案した。
慎み深い夫人がそのような辱めに耐えうることができないと思っての提案だった。しかし夫人の決意は固く、それを知った役人たちは領主に知られぬように、
町中にその日は固く戸締りをするようにとの御触れをだした。
そして当日、全裸になった夫人は馬にまたがり、二人の騎士役の侍女を連れて町中を巡った。
町人たちは夫人の意思に感服し、皆固く戸を閉ざしだれも覗き見るものはいなかった。ただ一人、仕立て屋のトムを覗いては。
密かに夫人を覗き見ていたトムの結末は哀れだ。
夫人を一目見た瞬間、たちまちのうちに天罰が下り失明してしまったという。
また別の話では、うっかりとそのことを他人にしゃっべってしまい、
町中の住人によってたかって目を潰されてしまったという。さて、この覗き屋トムについて、別の話が有る。男はもともと盲目であったというのだ。
盲目がゆえに、覗き見ることなど思いもつかず、うっかりと戸を閉め忘れたという。
それを騎士が見とがめただけだという話だが、後年、若者に道徳を教えるために、
このかわいそうな盲人は、トムと言う名前を付けられて、のぞき見の天罰を受け
盲目になったことにされてしまい、一つの寓話が作られたという。それが証拠にトムという名前は、アングロサクソンには無い名前で、
ゴディバ夫人の時代には存在しないものであるという。なお現在でも、欧州では増税反対のデモに際しては、
ゴディバ夫人をならい肌色の服をまとった女性が
馬にまたがり抗議をすることがしばしば見受けられるという。また、かの地では1678年からゴディバ夫人の行進の行事が行われており、
当初は、男の娘が肌をあらわにしてゴディバ夫人役を務めていたという。
デスバレーの動く岩
米国カリファルニア州のデスバレー国立公園に奇妙な石がある。
干からびた大地の上に点在する数十個の石に、それぞれてんでバラバラに引きずられた後がついているのだ。近年では、監視する取り組みもおこなわれているが、その瞬間を見た人は誰もい。
ただ気がつけば石が動いた軌跡のみが残されているという。このことは古くら知られており、1948年には地質学者ジム・マクアリスターらが、
エリアの岩盤をマッピングしその謎を探ろうとした。国立公園の博物学者たちも、
この謎に取り組もうとさまざまな記録を残している。現在有力な仮説として、ジョン・リード博士の説がある。
このデスバレーで、冬季に雨が降ると浅い湖が出来て、夜になると表面に薄い氷が張という事から、
その氷が石に付いて地表からわずかに意思を浮かせ、
そこに強風が吹くと石が移動することになるのではないかという説である。しかし、それにしては石の軌跡がそれぞれに違い、時には蛇行したり、
鋭角に曲がったり、また逆方向へ進んでいたりするという説明をするためには、
それぞれの石に違った方向から吹く風が当たらないと説明がつかず、完全な説明とは言われていない。この問題は、今なお全米の科学者たちを悩まし続け、
今でもあらたな実験や仮説が提唱されては消えていく状態であるという。
デオンという男、あるいは女
18世紀のフランスの外交史上に不思議な人物がいる。
その名をシャルル・ジュヌヴィエーヴ・ルイ・オーギュスト・アンドレ・ティモテ・デオン・ド・ボーモンという。
この人は、生涯の前半は男性として、後半を女性として生きたという。女装させて8歳まで女の子として育て、その後も女装を好み、
世間から少女として扱われることに喜びを感じるようになったデオンは、
その美貌からルイ15世が、ぞっこん惚れ込んだという。
この国王はデオンのその女装と美貌を外交に利用しようとしたのだ。27歳のデオンは完璧な女装をしてリア・ド・ボーモンという女性の偽名でロシアに渡った。
そしてロシアのエリザベータ女帝に近づき、密かに情報をルイ15世に送っていた。
当時、デオンの存在は一部のモノをのぞいてはフランス政府ですらその存在が隠されていたという。そして二度目にデオンがロシアに渡った際は、女装せずに普通に男性としていた。
今度はデオンは、ボーモンの兄であるという触れ込みで、周囲の人々をごまかしたという。その後フランスに帰国したデオンは、男性として軍隊生活を送る。
デオンの武勇は多く、フェンシングの達人でもあったという。また一方で、デオンの外交手腕は確かなものであったらしく、
全権公使を任ぜられ英国に渡った。英国の社交界にも顔を出し、
しばしば女装で現れて英国社交界を混乱させたという。英国社交界に入り浸るようになったデオンは、英国王のジョージ三世の妃と懇意になる。
ある日、一夜を共にしたことが一部の人間に知れてしまったというのだ。
すぐさま帰国しなければ命が危ない。だがフランス政府はこのときとばかり、帰国の引き換えとしてデオンがスパイ生活で得た
数々の機密文章の提出と、死ぬまで女性の姿でいることを条件として出した。
なるほどデオンが女性を押し通せば、妃との男女の関係が無かったことになる。
しぶしぶデオンはこのことに従う。帰国したあとのデオンは、デオンの性別に興味を持つ多くの大衆に絶大な人気があったという。
またデオンは時としてフェンシングの剣を握り、スカートをまくしあげて決闘をおこなったと伝えられている。
デオンが死亡した時には、医者化゛その死体を見分し、
男性らしからぬ胸のふくらみと、小さな男性器をみつけたと伝えられている。
大師の弟子
大師御廟は撮影禁止だと本山を案内してくれた僧侶は言った。
厳粛な佇まいの大師御廟を参拝した後で、ふと裏手が気になった。覗き込むと無数の石塔ともいえぬような石が寄り添うように無数にある。
「これはなんですか?」
案内してくれた僧侶に尋ねると、僧侶は其方に手を合わせて
「修行中に亡くなれた方たちですよ」
と教えてくれた。「しかし数が多すぎる。どうして、このような祀られ方をされているのですか」
「昔は、修行のさなかに気が狂うというような事がおおかったと聞いております」
詳しく話を聞くと、まだ仏教の実践が試行錯誤の段階であった時代、
かの地では高みに登るために中には過激とも思えるような多くの行が行われて、
それで精神を壊して狂い死にする人も多くいたらしいという事。それらの人々は一番に目指した大師のすぐそばのここに
名も刻まぬまま埋葬されたことがあったという。
「修行と言うのは精神の矯正で、いってみれば精神の奇形のようなものを
目指すところがあるのかもしれません。盆栽などと同じで、
無理に急な力をかけてしまうと、ぽっきりと折れてしまうことがあるのかもしれませんね」
僧侶は、そう言ってふたたび手を合わせた。
サルガッソー海
メキシコ湾流、北大西洋海流、カナリア海流、大西洋赤道海流にと言う
海流の流れに囲まれた長さ3000キロ以上、幅1100キロ以上になる海域。これらの海流が時計回りに回って巨大な渦を作っているため、
この海域は潮の流れが無い状態となり、あらゆる浮遊物が流れ込み滞留している。
特に数百年にわたってサルガッスムと呼ばれる海藻類が密集してそれらが絡み合い、
潮の流れのない無風状態が続くとそれらが
半液体状になるまでになってしまい「粘りつく海」ともよばれることがある。帆船の時代はまさに魔の海域であった。
もともと風の弱い亜熱帯に属しているうえに、潮の流れも無くなると
その粘りついた海からに足をとられた帆船は、数週間は身動きがとれなくなるということが常だった。船乗りは乗員の食糧保全のため、飼料を消費する積荷の馬を捨てる、
あるいは食べてしまわなくてはならなくなるので「馬の緯度」と呼ばれ忌み嫌われた。この海で風に恵まれず立ち往生してしまうと、何週間も動けずにいる間に船体に海藻が絡みつき、
風が吹いたときには既に動けない状態になってしまっていることがあったという。
そのため船乗り達は水と食糧の不足でしばしば全滅したという。船員が死に絶えて無人となった船は、無人のまま長い間この海域を彷徨うことになる。
やがてはしだいに朽ち果ててゆき、最後には海藻に付着して一緒に流されてきたフナクイムシに
船体を食い荒らされて沈んでいくという。現在でもこの海域は、小型の船舶にとっては危険でサルガッスムがスクリューに絡まってしまうと
そのまま動けなくなることがあるという。そうなると自力で脱出することは厳しくまた岸に流れ着くこともない。何らかの事情で救難信号を発することが出来なければ、船は乗組員が死に絶えた後も
そのままその海域を漂い続けていることになるという。
電波ジャック
今の日本の放送局では、単に番宣のことをいったりしているが本来は、
正規の放送に第三者が許可なくいきなり割り込んできてメッセージなどを送信することを言う。いくつか有名な事件があるが、1987年にアメリカの
マックス・ヘッドルーム事件は未だ犯人が捕まっていない事件として有名である。
この奇妙な放送の内容は、テレビドラマの最中に、
突然、画面にマスクを被った男が現れて意味不明な言葉をまくしたてる。
そして、そのマスクの男はズボンを脱がされて女性にお尻をハエ叩きで叩かれるという映像だった。
このどことなくユーモラスな内容で、おおくの人々の関心を引いた。さらにワイオミング事件という、不気味な放送が流れたというものがある。
現在では砂嵐の映像が鮮明すぎるので、フェイクではないかと言われているが
犯行グループがマスターに近い所で録画した物が流失したものである可能性も提示されている。日本でかつて発生していた電波ジャック事件は、過激派がなどが起こした
政治的な内容のもんが主体であったが、デジタル放送への
移行で技術的にテレビの電波ジャックは不可能になったとされる。
一部でデジタル放送への移行を急いだ理由に、有事の際に某国からの
電波ジャックを恐れていたためと言う話もある。しかし実際のところは現在、アナログ波が開いている状態であり
以前より低出力でアナログ波に電波が乗せれる状況になったっているという。
それに現在はまだ受信チューナーもかずおおくでまわっている状態である。放映そのものは確認されていないが、アナログ放送終了後に、2chにて
西日本でのアナログ波の電波ジャックを予告するような内容の書き込みがあったりしたことが一部で知られている。
纏足
中国でかつて行われていた奇習。女性の足を縛り極小化した奇形をつくりあげる。
後宮に入った女が自分の足で逃げられないようにするため宮廷から広がったともいわれる。纏足の手法は様々であるが、骨を折るというようなことはせずに、基本は骨の柔らかい幼児のうちに折り曲げて
縛るというのを三年ぐらいかけてやる。もちろん変形するまでには、魚の目や化膿などによる激痛があり
「小脚一双、眼涙一缶」(一揃いの小さい脚を作るためには、壺一杯の涙が必要である
※缶の字は違う)と言われる一旦、施術が完了すると女性は自らの纏足の足に大層愛着を持ち多くの手間と費用をかけて維持しようとする。
また、大人になってから、さらに小さい脚にするためにさらなる激痛を伴う施術をする場合もあったりする。纏足は、基本的にはある程度の階級の婦人が対象だが、下働きの女が小さい脚にあこがれて自分で
激痛をもいとわず纏足にしたという話が美談として語られている。
纏足に対する男性の感覚は、纏足そのものに対する性的な魅力が大きいという指摘がある。「肥」「軟」「秀」という基準があったり、纏足には視覚、聴覚、
臭覚、触覚に訴える48の官能技法があると伝えられている。
一例をあげると、纏足の先っぽのとがった所を男性が、赤子のようにしゃぶりつくというのがある。この時代の男性にとっては非常に性的な刺激があるという。
また纏足をしたとしても一部では高い運動能力を維持している
集団もあり纏足の足を操った格闘技も存在していたという。
岩手・宮城にまたがる大籠地区は日本有数の隠れキリシタンの里である
大籠地区には、かつて砂鉄を原料としたタタラ製鉄で炯屋(どうや)が数多くあった
永禄元年(1558年)、技術者として千松兄弟を吉備の国から呼び寄せたが、実はこの千松兄弟がキリシタンであったのだという
これ以後、さらに炯屋が増えるとともに、人々の間に着々とキリスト教が広まっていったしかしその後、徳川幕府がキリスト教の禁教を命じた結果、この地で実に300余人が殉教したという
当時日本屈指の大大名であった伊達藩領内だからなのか、その弾圧は徹底的であり、また凄惨なものであったこの地が、島原・天草に代表される他の隠れキリシタンの里と違うのはその処刑場跡の多いことである
この地区の中だけで刑場跡は十数箇所もあり、そのいずれにも供養のために地蔵が建てられている
不思議なことに、処刑場の地蔵の首は何度付け替えても繰り返し落ちるのだそうである
ついには諦めて首がなくなったまま放置された地蔵も多いが、そんな場所がのどかな農道の傍らに
ゴロゴロある光景は筆舌に尽くしがたく異様で不気味であるまた、この刑場跡は、やはりというかかつては亡霊に悩まされ、夜な夜な男女の悲鳴が聞こえてきて一睡もできぬ有様だったという
俺もここに一度行ったが、あの時が止まったような、異界としか表現できない雰囲気は体験してみなければわからぬ
異世界度は個人的には同じ岩手県内にあるかの慰霊の森すら遥かに凌ぐ。知る人ぞ知る隠れ里である
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