自衛隊の怖い話 [硫黄島編]
彼らの戦争は何時終わるんだろう
隊員さんから心霊現象の話を聞いた夜、自室で布団を頭まで被って寝てると、誰かが揺すり起こしてきたんだ。
寝たばかりで辛かったからシカトして寝ようとしたら、今度は激しく体を揺すってきた。
そして、さらには「おい!朝だぞ!!いいかげん起きろ!!!」と怒鳴る声。
そんなはずはないと思いながらも薄目を開けると、確かに布団の隙間から朝日が漏れていた。
今日は全然寝た気がしないなぁ~なんて思いながら体を起こすと、恐怖で体が固まった・・・夜なんだよ・・・
もうさ、部屋も外も真っ暗で、
普段は五月蠅い同僚のイビキも、虫の音も、風の音も聞こえない無音だし、
起きる瞬間まで体を揺すってた奴もいない。
体中に鳥肌がブワーーって立って、混乱と恐怖で頭ん中いっぱいになっていると、
ドアの前に、暗闇よりもさらにもう一段階黒い人型のシルエットがあったんだ。
俺がその黒い人型に気付くと、そいつが一歩前に出て、
「何をしている!!さっさと支度をせんか!!!バカ者!!!」とハッキリと聞こえる怒声がした。
その時に気を失ったのかわからんが、気が付いたら朝で、
相部屋の同僚が心配そうに、
「なんか、メッチャうなされていたけど大丈夫??顔も青いし、体調悪いなら今日は休めば?」って言ってきた。
たしかにフラフラするし、体調悪かったから、一日布団の中で過ごすことに。
布団の中で昨夜のことを思い返すと、怖いってより何か切なくなった・・・
米兵、日本兵問わず、彼らの戦争は何時終わるんだろう・・・(硫黄島ではもちろん米兵の幽霊も出る)
建設中に未だにあちこちから出てくる人骨や遺品、
こんな状態じゃ、おとなしくなることはあっても成仏はしないな・・・とか、
今の俺たちは彼らの命の上に立つ価値があるのか??とか、色々考えさせられてな。
兵士の霊が水を求めて
硫黄島は大東亜戦争末期、米軍七万五千の猛攻を、二万余の日本軍将兵が祖国防衛のため一ヶ月以上に渡って奮戦し玉砕(全滅)した島である。
戦後、昭和四十三年まで米国の管理下にあったため、殿下のご訪問当時は、まだ未整理の洞窟があり遺骨はそのまま散乱していたという。
殿下が先ずお訪ねになったのは、米軍の火焔放射器でやられ、ブルドーザーで生き埋めにされかけ苦しみもがきながら脱出を試みた兵隊たちが、折れ重なって死んだ跡地だった。
「前もっての説明何もなしで洞窟の前へ立たれた殿下は、ハッと息を呑む気配をお見せになりやがて地べたに正座し、両手をついて首を垂れて、暝想状態に入られた。一言もおっしゃらないから、何を念じていらっしゃるのか祈っていらっしゃるのか分からないけれど随行の者みな、電気に打たれたような気分だったと聞いております。大分長い時間そうしていらして、やっと立ち上がられた」
しかし、実際の問題として、あれだけ凄惨な戦いを行った戦場では今もまだ浮かばれないでいる日本兵の霊は多いらしい。
彼らは今もまだ、国を守る為に必死に戦っているのだろうか?
自衛隊の硫黄島基地では、幽霊対策として毎日慰霊碑の前にもうけてある盃に水を補充する規則となっていると言われている。
宿舎でも寝る前には部屋の前に水を準備しておかないと、兵士の霊が水を求めて中へ入ってくるとのことである。
海自隊員や海保職員で幽霊に悩まされノイローゼになり帰還させられる人もいるらしい。
硫黄島が一般の民間人に解放されないのには、それなりの訳があるのだ。
未だに硫黄島が民間開放されてないのはなぜか
硫黄島が未だに、民間開放されてないのはなぜか。
社会常識としては、硫黄島が軍事上の重要拠点になってるから。
真相は単純。その原理は、旅館の開かずの間と同じだ。出るんだよ。
夥しい数の英霊が。それも、日米混合で。
硫黄島がベトナム戦争並みの激戦区だったのは、戦後に左翼とかが頑張ったせいかあまり知られていない。
新しくて『密度』がハンパじゃない古戦場。しかも、出るのが英霊。
オカルトだけでなく、政治や軍人遺家族等が織り成す人間的要素が加味される。
それも、日米はもちろん東アジアからも詣でられる。
こういう離島は、硫黄島ほどじゃないけどアラスカ州のアリューシャン列島にもある。
こちらの方は、島の面積も広いし要所要所を米国側がきちんとしてて民間人も住んでる。
硫黄島の海みたいに、大きな戦艦の幽霊船みたいなのが出現したりしないしな。
もし、ゴム筏か何かであの艦船に近づいていったら今頃どうしてるところだったのかな。
だから、硫黄島から基地が移転することは無い。
何十年経っても、たとえ防衛省が民営化される日が来ようと
海運系の華僑や日本の漁師ですら移住できるかは微妙。
硫黄島の石を記念に持ち帰ったら
硫黄島調査を終えて帰ってきた隊員が硫黄島の石を記念にと持ち帰ったらしく、それから挙動がおかしかったんだけど、
通常、硫黄島調査で帰る時は島の物を持ち帰ってはいけないんだけど、何処かに忍ばせてたらしく
その後行方不明になった、
その一週間後に静岡にある風穴でスーツ姿で遺体で見つかった。
自衛官の硫黄島での任務
一般の人は立入禁止になってるが俺は6年とちょっと前まで硫黄島で某自衛隊で整備士として滑走路の整備など仕事をしてた。
元々青森県民の俺は地元で気楽に一生を楽しめる仕事は、自衛隊しかないと思って入隊。
5年目で移動先希望で
1,大湊
2、八戸
3、硫黄島
って書いた。3に硫黄島と書いたのには理由はない。けど自衛隊では硫黄島に行く人は手当等がが良いため、借金がある人は飛ばされるという噂が結構あって話題にはなる。(笑)
二ヶ月して上司に硫黄島に行けるぞ。・・・と言われた。(まじかよ)
硫黄島は雨水タンク以外真水が無く生活は非常に辛いと有名だったため現実を前にかなり沈んだ。
ソレに硫黄島に行ったことのある上司があそこは基地内外で適当に土掘れば骨出てくるからね~とか、天気のいい風のある日は滑走路に骨が飛んでくる事がよくあるそうだ。
この島に来て嫌なのが週に2~3回ある金縛り。
ソレに私が来てから夜中に国旗掲揚時に流れる音楽が隊舎に流れてびっくりする事が暫しあった。
しかし、びっくりするのは私だけで他の人達は部屋のスピーカーを小にしてまた寝るのである。
ある休みの日、天気もいいし島の中を散歩に出かけた。
俺は上司が言っていた適当に土を掘って骨が出るのか試した。そしたら2~3分で片手に余るぐらいに骨が出るのである。
そして頭部の骨も出てきた。その後タイミングが良く上司が来た。
上司は「その骨は◯◯のだな。よく見つけてくれた。これで皆揃った。」
・・・・・・◯伍長。無事任務を終えました
その骨をDNA鑑定した結果メモ帳に書いてある通り◯◯さんという硫黄島で亡くなった方で無事遺族に届けられ、このメモ帳は大切に硫黄島の隊舎に保管されてるのだという。
硫黄島の戦い
先日、現役のアメリカ海兵隊士官さんから聞いた話。
新兵を訓練する際に何度も出る話だそうですが、いわゆる先頭慣れした頃におちいる自信過剰って奴の一つで、敵方が逃げ出し始めた時に、戦線を崩して追いかけ始めてしまう奴が出るんだそうです。
戦線と言うより戦列と言うべきなんですが、銃を構えた兵士が横一列に並ぶのは味方同士が打ち合わないために、非常に重要な事なんだそうです。
そりゃ、だれだって味方に打たれて戦死なんていやですからね。パープルハート勲章ももらえないし。
時は1945年。小笠原諸島の南に浮かぶ絶海の孤島。硫黄島。
この島を巡って血で血を洗う激戦が行われたのは皆さんもよく知る所でしょうが、私が話をした士官さんはおじいさんが従軍されたそうで、その時のエピソードをよく聞いたそうです。
いわく『どんなに不利だと思っても日本兵は投降しない』
とか、あるいは『日本兵は最後の一人まで勇敢だった』とか。
その中に出てくる話で、摺鉢山(すりばちやま)攻防戦というのがあるんだそうですけど、あれです、映画、父親達の星条旗のあのシーンの山です。
最後の数名が頑強に抵抗する摺鉢山を包囲して、慎重にすり潰しながら前進し、最後の一兵が手榴弾で応戦している中、十字砲火を浴びせたそうですけど、その後に星条旗を立てて占領をアピールしたんだそうです。
ところが、翌朝になるとその星条旗が倒れてる。
だからもう一回立てる。
ついでに、星条旗を立てるシーンを写真に撮ったり記録映画撮ったりしながら。
でも、翌朝になるとまた倒れている。
しかも、旗ざおが折れている。鉄製なのに。
で、事件はおこります。
ある晩、業を煮やした若手士官が小銃を持って星条旗のすぐ近くで見張りに立ったんだそうです。
何度も何度も星条旗を倒されては海兵隊の名折れ。
責任もって犯人を射殺しろって命じられてたんだとか。
その晩、見張りにたった士官は真夜中に足音を聞いたんだとか。
複数名の足音が、慎重に距離をとって接近して来るんだそうです。
正直「来たな!」と思って、小銃の安全装置を解除し、近くに着たら射撃してやる!と銃を構えたんだとか。
ところが、接近した所で足音が止まってしまい、士官は「気付かれた!」とあわてたとか。
息を殺してジッと待っていると、何事かの会話が日本語でなされ、バタバタと斜面を駆け下りる足音が聞こえたそうです。
士官はその足音の方向へ数発射撃し、自分も身をさらして足音を追いかけたんだとか。
追撃戦って非常に危ないんですが、逃がすのも癪だと思ったんだそうですよ。
一緒に見張りに立っていた海兵隊の兵士も走ったそうです。
走って走って射撃しながらまた走って、弾を撃ちつくして次の五発を押し込んでまた撃って走って。
で、前方で『ギャー!』と悲鳴が聞こえて、しめた!当たった!と思いつつ、日本語で『トマレ!』と叫んだんだそうです。
余談ですが、大戦中の米軍士官は
「トマレ」「ジュウヲステロ」「トウコウシロ」
など、簡単な日本語指示を学んでいたんだそうです。
ところが、今度はその敵側から凄い勢いでバンバンと撃たれ始めたんだとか。
士官の左右をシュンシュンと音を立てて銃弾が通過したんだそうです。
コリャヤバイ!と振り返り、斜面を走りながら逃げたらしいんですが、途中で何かにつまずいて倒れたら、そこが日本軍守備隊の掘った塹壕だったそうで、頭から落ちて側頭部を痛打。
昏倒状態になっていたら、下からバリバリと射撃しながら海兵隊が斜面を登ってきたそうです。
で、一緒に追跡していたはずの海兵隊兵士と同士討ち。
翌朝、明るくなってから調べたら三十人近く死んでたとか。
その日から星条旗は夜間になると取りはずされ、ふもとの前線本部で管理される事になったらしい。
ですが、朝になって山頂部へ星条旗をあげにいくと、かならず足跡が残っていたんだそうです。それも、登ってくる足跡だけ。
硫黄島では1945年9月に最後の日本兵を収容したそうですが、終戦後まで散発的抵抗は続いていたんだそうです。
死霊とか幽霊とかそう言う話も恐ろしいですが、生きてる人間の執念とかも充分恐ろしいなぁと。そんな話でした。
硫黄島勤務の霊感が強い人
硫黄島勤務になった自衛官に、霊感が強い人がいました。
ある夜、その方がむくっ!と起き上がり、フラフラと外へ。
同室の方が声をかけるも反応無し、まるで夢遊病者のように歩き続け、あるところでばったり!と倒れたそうです。
意識が回復してから、何があったのか尋ねると、「誰かに呼ばれた気がする……。」と。
その方の霊感ぶりは有名だったこともあり、倒れた場所を掘ったところ、遺骨が見つかったそうです。
その霊感青年以外にも「呼ばれた」隊員により、何柱かのご遺骨が見つかっています。
外来宿舎に、金縛りやポルターガイスト等、必ず怪現象が起こる部屋があります。
私たちが行った時、人数の都合で、自分ともう一人がその部屋に泊まることになりました。
怖いのが嫌、というより、亡くなってまで苦しんでいるのではと思い、詳しい作法などは知りませんでしたが、
きっと喉が乾いただろうな、甘いものが欲しかったかな、お酒が飲みたかった人もいたかな、と、本土から ミニボトルの日本酒、
六甲水のペットボトル、飴玉を持っていき、窓の下に盛り塩と一緒に供えて
「暫くこのお部屋をお貸しください。もしも、本土に戻られたい御魂がいらっしゃったら、窮屈かと思いますが、この中にお入りください。
皆様の故郷にお返しすることはできませんがこの半分を○○県の△川に流します、半分は、こちらに置いていきます。」
と、念じました。心配されていた、私の部屋では何も起こりませんでした。
が、夜中、隣の部屋から悲鳴とガターン!という騒音が。
聞くと、ベッドを下から蹴られたような感触があり、一瞬浮いたようだったとか。
明かりをつけると、ベッドの位置が、引きずった跡もなく、思い切りずれていました。
それから後、夜は何事もありませんでした……。
医務科壕という、傷病者を治療するための壕に案内された時のことです。
入り口にポトスが自生する、一見のほほんとした場所なのですが、硫黄島戦では、足の踏み場もないほどに傷病者が寝かされ、本土からの援助も絶え、満足な治療も受けられず亡くなっていった方が多かったそうです。
医務科壕は天井が比較的高めでT字型に掘られており、他の塹壕よりも少し開放的な雰囲気がありました。(他の塹壕の殆どは地中に掘られており、地熱でサウナ状態です)
「ここから雨水を取り、ドラム缶に貯めていた」等の説明を受けていた時、足元の方から、苦しいような、熱いような、閉塞的な感覚が伝わってきました。
「ここ、地下があった、なんてこと、ないですよね?」試しに尋ねてみたところ、説明係の海曹がぎょっとした顔で「地下があったらしいと聞いています。」と。
……下に降りる階段が見つからないのだそうです。今も。
他の壕では「平成○年○月、調査ここまで」と書かれた紙が貼られていて、その先が落盤している場所などを目にしました。
遺骨収拾も、まだまだ進まないようです。
横須賀の教育隊に行たとき、所属していた隊の分隊士が語ってくれた。
分隊士の同期の人が硫黄島に行ったときね、お供え物の一品としてタバコが置かれてあったんだって。
そのタバコを、その同期の人は失敬してもらっちゃった。
まぁ、まだ硫黄島に着隊したばっかで間もないし、軽々しく考えてたんだろうね。
その夜、その同期と一緒の部屋で寝ていた隊員は、隣から聞こえる呻き声がうるさくて目をさました。
案の定、タバコを失敬した同期がうなされてる。そいつを起こして何があったか聞いたところ、
「寝ていたら急に胸が重くなって、目を覚ました。そしたらさ、軍服を着た日本兵が『俺のタバコを返せ』って口の中に手を入れてきた」と真っ青な顔で答えたとのこと。
戦地とは比べ物にならないけど、俺も山にこもって数ヶ月訓練してたから分かる。
異性の居ない山奥で、自由を剥奪されて体を酷使する毎日。
嗜好品は唯一の慰めだね。
小笠原諸島 硫黄島
小笠原諸島の南方に位置する硫黄島は、太平洋戦争末期には日米両国に多くの戦死者を出した激戦地として知られている。
現在は自衛隊の基地が置かれており、慰霊訪問や工事を除いて、民間人の上陸は禁止されている。
多くの人が亡くなった硫黄島は国内屈指の心霊スポットとしても有名で、上陸した民間人や島で勤務した自衛官の間では多くの幽霊話が囁かれている。
硫黄島では日米両国の兵隊の霊が現れて、夜になると兵隊が空中を行進したり、寝ている人を起こして屋外へと連れ出そうとする心霊現象が報告されている。
目撃談として多いのは水を求めてさまよう兵隊さんの幽霊で、冷たい水を欲して、生者の前に現れるという話である。
島では熱帯の暑さと火山の地熱で地下水さえも湯立った状態であったので、戦死者が最後に飲んだ水はお湯のように熱かったそうだ。
自衛官達は心霊現象に遭わないために、慰霊碑への水のお御供えを毎日欠かさず、窓際にも水と塩を置く事にしているという。
[砂の持ち帰りは禁止]
実際の規則としてあって、心霊現象との関連性が語られているのが、硫黄島の砂を本土に持ち帰ってはいけないという決まりである。
硫黄島を訪れた隊員達が、本土に帰還する航空機に乗り込む前に「砂を払ってから乗れ」という指示が上官から出される。
それも、靴底についた砂粒一つであっても丹念に落とすように指示されるということだ。
噂では砂を持ち帰ると兵隊さんが枕元に立つと云われており、砂を瓶に詰めて持ち帰った隊員の前に夜な夜な血まみれの兵士が現れたという。
また、イタズラで嫌いな先輩の持ち物の中に砂をこっそり入れたところ、その先輩は霊障のために事故にあったという話も伝えられている。
[砂を持ち出し禁止の理由]
砂を持ち帰ってはいけないその他の理由として、大戦中に米軍が持ち込んだ外来種の凶暴なアリの侵入を防ぐという防疫上の理由。
また、戦時中には多くの戦死者を出したこともあり、砂には多くの血が染み込み、目には見えぬ形で人骨も混じっている可能性があるので、砂を記念に持ち帰ったりするのは不謹慎であるという倫理的理由などがある。
硫黄島は鶉石(うずらいし)という白と黒のコントラストが美しい、世界的に見ても珍しい石を産出していて、石の収集家にならば是非ともコレクションに加えたい品である。
「砂を持ち帰ると霊障がある」という噂を聞いて、鶉石を自宅に持ち帰ることにためらいを感じる人も居るらしい(うずら石は持ち帰っても大丈夫とされる)。
日本の捉え方と対照的なのが米国で、硫黄島を戦勝の地として捉えているためか、硫黄島の砂がアメリカ某所のお土産屋さんで売られているらしい。
そして、硫黄島の幽霊話であるが、平成6年に天皇皇后両陛下が島をご訪問されて、慰霊碑や鎮魂の丘を拝礼されてからは霊の出現はぴたりと治まり、心霊体験談はほとんど聞かれなくなったそうだ。
硫黄島の心霊現象
俺が2年前に、自衛隊基地施設建設の為に硫黄島へ6ヶ月間行った時の話。
数か月ものあいだ島に閉じ込められると、自然と顔見知りの隊員さんが出来て、色々話すうちに、硫黄島の心霊現象なんかの話題になることがあるんだ。
隊員さんの話では、戦後~平成にかけて硫黄島の心霊現象は壮絶なものだったらしい。
夜中に行進する兵隊なんかは当り前で、
中には夜な夜な水を求めて徘徊する黒焦げの兵隊や、
窓の外に体の一部が無い兵隊が恨めしそうに見ていたりってのが毎日あったんだと。
恐らく彼らの中では戦争はまだ終わって無かったんだな。
だけど、平成6年2月に天皇陛下が硫黄島を訪れた際に、
慰霊碑に鎮魂と、日本を守る為に命を犠牲にして戦ってくれた事への感謝の意を捧げると、その日を境に幽霊がピタリと出なくなったらしいんだ。
「水をくれ、水をくれ」
有名な硫黄島に関する話。
元自衛隊に聞いたが硫黄島はガチだってな
いろいろ聞いたわ
海外の様で海外ではないが
戦場の怪談
太平洋戦争における日本軍は広大な地域に大量の軍を派遣しており、戦争後期は
拡大しすぎた地域への兵站は伸びきり、戦局の悪化に伴い物資の補給もままならない状態が続いた。
兵士達は、食料などを現地調達せざるを得ない状況であった。
戦場における怪談の中でも、硫黄島では未だに心霊現象が絶えないと聞く。
硫黄島の戦いとは、1945年2月19日から3月26日までの、約一か月における戦いであり、
日本軍は栗林中将以下、ほとんどの兵が玉砕して果てた。
硫黄島における日本軍の戦法は巧妙であり、地下30メートルの場所に、
長さ18キロにも及ぶ地下壕で結び、今までに例のない粘り強い戦いを繰り広げた。
米軍は当初5日間でこの島を落とせると見ていたが、思いの他の激戦となった。
更に地下壕内では高温多湿で絶えず硫黄が沸いており、飲料水が絶えず枯渇していた。
おまけに、40度にも達する暑さの中、日本軍兵士達は劣悪な環境の中を戦ったのである。
日本軍守備隊2万2千786名に対してアメリカ軍は11万の兵力を投入し、
アメリカ軍は2万8千686名の死傷者を出し、日本軍の死傷者1万8千375名を上回った唯一の戦線であった。
硫黄島は戦後、アメリカに管理されていたのが1968年に日本に返還された。
だが、日本兵の遺骨収集は手付かずの状態であり、洞窟内では無数の
日本兵の遺骨が終戦時の状態で残っていた。
彼等が使っていたベッドや注射器なども、そのままの状態で残されていたと言う。
現在でも硫黄島には1万2千以上の兵士の遺骨が眠っていると聞く。
同島が日本に返還後に、現在は海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれているが、
民間人の立ち入りは禁止されている。
そんな硫黄島は、夜になると霊の支配する島となると言う。
昼夜を問わずに聞こえる行軍の音は有名であり、
戦死した日本兵が集団となっては自衛隊兵士が眠る宿舎の窓の外に立っているのだそうだ。
中には体の一部がない兵士や黒焦げな状態の兵士などの姿も見られるとのことである。
自衛隊員は慰霊碑の水を毎日取り替え、更に宿舎ではコップに水を入れて毎晩置くそうである。
そうしないと「水をくれ、水をくれ」と言いながら日本軍の霊が宿舎内に入って来てしまうのだと言う。
また、硫黄島からは一粒の砂すら内地に持ち帰ることを禁止していると言われている。
以前、小石を記念に持ち帰った自衛官が変死したり病気になるなどの事件が相次いだそうである。
それから硫黄島の砂には生きて帰れなかった日本兵の血が染み込んでいると信じられる様になり
内地に戻る自衛官はズボンに付いた砂すら、全て払い落とす習慣がついたのだと言う。
それでも、内地に帰りたい兵士の霊が自衛官に憑いて来るのだという。
そんな場合、内地に向かう途中に自衛官は激しい頭痛や肩こりなどが続くが
内地に着いたとたんに痛みは消えてしまうのだと言う。
酒盛
硫黄島の通信機修理の為数人の技官が派遣されたとき、一人の技官が深夜トイレに行った帰りに、明るい部屋があり中を覗くと数人の人が酒盛りをしていました。
この時その技官は現地滞在の人(土建屋がいるのでそのメンバーと思ったそうです。)と思いその場を去ろうとしたら、酒盛りしている人に気ずかれ一緒にどうかと誘われたそうです。
その人はまあ一杯ぐらいと思いお呼ばれしたそうですが、何か違和感を感じたそうです。
その違和感と言うのが通常酒を飲む場合、カップを使うのに何故か古びた茶碗で、酒の肴に塊の肉を茹でたものだったそうです。
その人は酔いでそのまま寝てしまい、朝に同僚に起こされた時に酒盛りの話をしたら、そんな人たちは居ないと言われ不思議に思ってその日を過ごし、帰還前に慰霊碑で写真をと行ったら酒盛りに使われていた茶碗がそこにあったそうです。謎の肉の塊の正体は戦争当時食料が枯渇していて、肉等はなく、士気向上の為捕虜の人肉を喰ったとの話があり、宴会で出たものはそれではないかとの話でした。
約束
戦後、アメリカに占領されていた硫黄島が日本に返還される日の未明、玉砕された栗林中将が奥様の夢枕に立たれ「ただいま。今、帰ったよ」とおっしゃられたと聞きました。
奥様は、中将の声で目が覚め、その日の朝刊で硫黄島返還を知り「必ず帰ってくるという約束を果たしてくれた・・」と涙されたそうです。
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