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思いっきり泣きたい!『泣けるコピペ』13選

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思いっきり泣きたい!『泣けるコピペ貼ってく』まとめ まとめ
思いっきり泣きたい!『泣けるコピペ貼ってく』まとめ
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泣けるコピペ貼ってく
http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1418879795/

 

 

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介護

 

京都市伏見区桂川河川敷で2月1日、無職片桐康晴被告が、
認知症の母親を殺害して無理心中を図ったとみられる事件の初公判が19日に行われた。
事件内容は認知症の母親の介護で生活苦に陥り、母と相談の上で殺害したというもの。
片桐被告は母を殺害した後、自分も自殺を図ったが発見され一命を取り留めたとの事。
片桐被告は両親と3人暮らしだったが、95年に父が死亡。その頃から、母に認知症の症状が出始め、一人で介護した。
母は05年4月ごろから昼夜が逆転。徘徊で警察に保護されるなど症状が進行した。
片桐被告は休職してデイケアを利用したが介護負担は軽減せず、9月に退職。
生活保護は、失業給付金などを理由に認められなかった。
介護と両立する仕事は見つからず、12月に失業保険の給付がストップ。
カードローンの借り出しも限度額に達し、デイケア費やアパート代が払えなくなり、
06年1月31日に心中を決意した。

「最後の親孝行に」

片桐被告はこの日、車椅子の母を連れて京都市内を観光し、2月1日早朝、同市伏見区桂川河川敷の遊歩道で
「もう生きられへん。此処で終わりやで。」などと言うと、母は
「そうか、あかんか。康晴、一緒やで」と答えた。片桐被告が
「すまんな」と謝ると、母は
「こっちに来い」と呼び、片桐被告が母の額にくっつけると、母は
「康晴はわしの子や。わしがやったる」と言った。
この言葉を聞いて、片桐被告は殺害を決意。母の首を絞めて殺し、
自分も包丁で首を切って自殺を図った。
冒頭陳述の間、片桐被告は背筋を伸ばして上を向いていた。肩を震わせ、
眼鏡を外して右腕で涙をぬぐう場面もあった。
裁判では検察官が片桐被告が献身的な介護の末に失職等を経て追い詰められていく過程を供述。
殺害時の2人のやりとりや、
「母の命を奪ったが、もう一度母の子に生まれたい」という供述も紹介。
目を赤くした東尾裁判官が言葉を詰まらせ、刑務官も涙をこらえるようにまばたきするなど、法廷は静まり返った。

 

 

おばあちゃん

 

俺ん家は俺と母親、それとおはあちゃんの三人で暮らしてる。
親父は離婚していない。パチンコとかやって借金をつくる駄目な親父だった。
母子家庭ってやっぱ経済的に苦しくて、母さんは毎日働いてる。
おばあちゃんは汚い服ばっかり着てる。
俺は行きたい大学があるけど、金がかかるからそこだけ受けて駄目だったら就職しようと思ってた。
それで、俺大学落ちちゃったんだ。
「すぐに就職先を見つけなきゃいけないな」
って考えてたら、俺の部屋におばあちゃんがやってきた。
「〇〇、大学落ちちゃったんだってね」
と、おばあちゃん。
「うん、でもいいよ。俺、就職するからさ」
ってちょっぴり強がって俺は笑ってみせた。
そしたらおばあちゃん、いつから使ってるか分かんないような汚い手提げ袋から、札束を出してきたんだ。
「え…何このお金…」って俺が絶句してたら、
「〇〇、行きたい大学があるんじゃろ?だったら行きんさい。
お金のことなら心配せんでええ。まずこれで予備校行きんさい。
年寄りは金持ちやで。それに、ちょうどばあちゃんな、何かに使おうて思ってたんじゃ」
と、そう言ってシワシワの手で札束を俺に握らせた、最後、俺の部屋から出るとき「頑張りんさい」って言って出てった。
それから俺、母さんにおばあちゃんのこと聞いたら、
「おばあちゃんね、あんたが産まれてからずっと年金コツコツ貯めてたみたいだよ。私も知らんかった」って。
マジ泣いたよ。
なんで金あんのに汚い服ばっか着てる意味とか、さっき俺の部屋で喋ったこととか思い出して、本当に泣いた。
もう、本当に頑張るから。今は肩を揉むことぐらいしかできんけど、絶対に大学に合格するから。
それと、俺は今日で2ちゃんねる卒業だわ。長い間、本当にお世話になりました。勉強がんばります ノシ

 

 

クリスマス

 

6歳の娘がクリスマスの数日前から欲しいものを手紙に書いて
窓際に置いておいたから、早速何が欲しいのかなぁと夫とキティちゃんの
便箋を破らないようにして手紙を覗いてみたら、こう書いてあった。
「サンタさんへ おとうさんのガンがなおるくすりをください! おねがいします」
夫と顔を見合わせて苦笑いしたけれど、私だんだん悲しくなって
少しメソメソしてしちゃったよw
昨日の夜、娘が眠ったあと、夫は娘が好きなプリキュアのキャラクター人形と
「ガンがなおるおくすり」
と普通の粉薬の袋に書いたものを置いておいた。
朝、娘が起きるとプリキュアの人形もだけれど、それ以上に薬を喜んで
「ギャーっ!」って嬉しい叫びを上げてた。
早速朝食を食べる夫の元にどたばたと行って
「ねえ! サンタさんからお父さんのガンが治る薬貰ったの! 早く飲んでみて!」
っていって、夫に薬を飲ませた。
夫が「お! 体の調子が、だんだんと良くなってきたみたいだ」と言うと娘が、
「ああ! 良かった~。これでお父さんとまた、山にハイキングに行ったり、
動物園に行ったり、運動会に参加したりできるね~」……っていうと
夫がだんだんと顔を悲しく歪めて、それから声を押し殺すようにして
「ぐっ、ぐうっ」って泣き始めた。
私も貰い泣きしそうになったけれどなんとか泣かないように
鍋の味噌汁をオタマで掬って無理やり飲み込んで態勢を整えた。
夫は娘には「薬の効き目で涙が出てるんだ」と言い訳をしてた。
その後、娘が近所の子に家にプリキュアの人形を持って遊びに行った後、夫が
「来年はお前がサンタさんだな……。しっかり頼むぞ」と言ったので、
つい私の涙腺が緩んで、わあわあ泣き続けた。
お椀の味噌汁に涙がいくつも混ざった。

 

 

アルバム

 

うちは貧乏な母子家庭で、俺が生まれた時はカメラなんて無かった
だから写真の変わりに母さんが色鉛筆で俺の絵を描いて、アルバムにしてた
絵は上手じゃない
ただ、どうにかして形に残したかったらしい
ほぼ毎日、赤ん坊の俺を一生懸命描いてた
絵の隣に『キゲンが悪いのかな??』とか『すやすや眠ってます?』ってコメント付きで
小学四年生の時、家に遊びに来た友達数人に、そのアルバムを発見された
めちゃくちゃ笑われて、貧乏を馬鹿にされた
友達が帰って直ぐ、俺はアルバム三冊をバラバラに破いてゴミ箱に捨てた
パートから帰って来た母さんがそれを見つけて、泣きだした
破いた理由を言っても、変わらず泣き続けた
翌朝起きると、居間で母さんがゴミ箱から絵の破片を集めてセロハンテープでとめてた
「恥ずかしい思いさせてごめんね。でもね、これ、母さんの宝物なんよ」
申し訳なさそうに優しくそう言われると、涙が溢れ、俺はごめんなさいと謝った

 

 

炊き込みご飯

 

俺は小学生の頃に母の作った炊き込みご飯が大好物だった。
特にそれを口に出して言った事は無かったけど母は判っていて
誕生日や何かの記念日には我が家の夕食は必ず炊き込みご飯だった。
高校生位になるとさすがに「又かよっ!」と思う様になっていたのだが
家を離れるようになっても、たまに実家に帰ると待っていたのは母の
「炊き込みご飯作ったよ。沢山食べなさい」の言葉だった・・・
会社に電話が来て慌てて向かった病室には既に近くの親戚が集まっていた。
モルヒネを打たれ意識の無い母の手を握り締めると母の口が動いた。
何かを俺に言いたそうだった。母の口元に耳を近づけると
「炊きこ・・・たよ。たくさ・・・・さい」と消え入りそうな声で言っていた。
それが最後の言葉だった。
「ママの作ったスパゲッティー大好き!」口の周りを赤くして
スパゲッティーを食べる娘とそれを幸せそうな目で見つめる妻を見る度に
母の炊き込みご飯が食べたくなる。

 

 

写真

 

俺が小さい頃に撮った家族写真が一枚ある。
見た目普通の写真なんだけど、実はその時父が難病(失念)を宣告されていて
それほど持たないだろうと言われ、入院前に今生最後の写真はせめて家族と・・・と撮った写真らしかった。
俺と妹はまだそれを理解できずに無邪気に笑って写っているんだが、
母と祖父、祖母は心なしか固いというか思い詰めた表情で写っている。
当の父はというと、どっしりと腹をくくったと言う感じで、とても穏やかな表情だった。
母がその写真を病床の父に持って行ったんだが、その写真を見せられた父は
特に興味も示さない様子で「その辺に置いといてくれ、気が向いたら見るから」と
ぶっきらぼうだったらしい。母も、それが父にとって最後の写真と言う事で、見たがらないものをあまり
無理強いするのもよくないと思って、そのままベッドのそばに適当にしまっておいた。
しばらくして父が逝き、病院から荷物を引き揚げる時に改めて見つけたその写真は、
まるで大昔からあったようなボロボロさで、家族が写っている部分には父の指紋がびっしり付いていた。
普段もとても物静かで、宣告された時も見た目普段と変わらずに平常だった父だが、
人目のない時、病床でこの写真をどういう気持ちで見ていたんだろうか。
今、お盆になると、その写真を見ながら父の思い出話に華が咲く。
祖父、祖母、母、妹、俺・・・。
その写真の裏側には、もう文字もあまり書けない状態で一生懸命書いたのだろう、
崩れた文字ながら、「本当にありがとう」とサインペンで書いてあった。

 

 

ビデオ

 

俺、小さい頃に母親を亡くしてるんだ。
それで中学生の頃、恥ずかしいくらいにぐれた。
親父の留守中、家に金が無いかタンスの中を探しているとビデオテープがあったんだ。
俺、親父のエロビデオとかかな?なんて思って見てみた。
そしたら・・・
病室のベットの上にお母さんがうつってた。
『〇〇ちゃん二十歳のお誕生日おめでと。なにも買ってあげれなくてゴメンね。
お母さんがいなくても、〇〇ちゃんは強い子になってるでしょうね。
今頃、大学生になってるのかな?もしかして結婚してたりしてね・・・』
10分くらいのビデオテープだった。
俺、泣いた、本気で泣いた。
次ぎの瞬間、親父の髭剃りでパンチパーマ全部剃った。
みんなにバカにされるくらい勉強した。
俺が一浪だけどマーチに合格した時、
親父、まるで俺が東大にでも受かったかのように泣きながら親戚に電話してた。
そんで、二十歳の誕生日に、案の定、親父が俺にテープを渡してきた。
また、よく見てみたら。
ビデオを撮ってる親父の泣き声が聞こえてた。
お母さんは、笑いながら『情けないわねぇ』なんて言ってるんだ。
俺また泣いちゃったよ。
父親も辛かったんだろうな、
親父にそのこと言ったら、知らねーよなんて言ってたけど、
就職決まった時、
親父が『これでお母さんに怒られなくて済むよ』なんていってた。

 

 

ハンドクリーム

 

俺んち母子家庭で貧乏だったから、ファミコン買えなかったよ。。。
すっげーうらやましかったな、持ってる奴が。
俺が小6のときにクラスの給食費が無くなった時なんて、
「ファミコン持ってない奴が怪しい」なんて、真っ先に疑われたっけ。
貧乏の家になんか生まれてこなきゃよかった!って悪態ついたときの
母の悲しそうな目、今でも忘れないなぁ、、。
どーしても欲しくって、中学の時に新聞配達して金貯めた。
これでようやく遊べると思ったんだけど、ニチイのゲーム売り場の前まで来て買うのやめた。
そのかわりに小3の妹にアシックスのジャージを買ってやった。
いままで俺のお下がりを折って着ていたから。
母にはハンドクリーム買ってやった。
いっつも手が荒れてたから。
去年俺は結婚したんだけど、
結婚式前日に母に大事そうに錆びた ハンドクリームの缶を見せられた。

 

 

アイスクリーム

 

あの日俺が楽しみにとってあったアイスクリームを、母が弟に食べさせてしまった
学校から帰り、冷凍庫を開け、アイスを探したが見つからなかった
母親に問い詰めると、弟が欲しがったのであげたと言った
その時楽しみにしていた俺は、すごく怒った
母親に怒鳴り散らし、最後に「死ね!」と叫び、夕食も食べずに部屋に篭もった
それから何時間か経った
俺は寝てしまっていたようだ、が、父親が部屋に飛び込んで来たので目が覚めた
「母さんが轢かれた・・・!」
あの時の父親の顔と言葉を、俺は一生忘れないだろう
俺達が病院に着いたとき、母親はどうしようもない状態だと言われた
医者は最後に傍にいてあげて下さいと言い、部屋を出た
それから少しして、母親は息を引き取った
その後、母親があの時間外にいた事を父から聞いた
買い物に行くと言って出て行き、その帰りに車に轢かれた事
現場のビニール袋の中には、アイスが一つだけ入っていた事
救急車の中でずっとごめんねと呟いていた事
その時、俺のためにはアイスを買いに行って事故にあったとわかった
通夜と葬式の間中、俺はずっと泣いた
そして、今でもこの時期になると自然に涙が出てくることもある
母さん、ごめんな
俺が最後に死ねなんて言わなかったらと、今でも悔やみ続けている。

 

 

携帯メール

 

去年3月に定年を迎えた父に兄と私で携帯電話をプレゼント。
退職前は携帯などいらんと言っていたがうれしそうだった。
使い方に悪戦苦闘の父に一通り教えてまずメールを送ったが返事はこなかった。
その6月に脳出血で孫の顔も見ずに突然の死。
40年働き続けてホッとしたのはたったの2ヶ月。
葬式後父の携帯に未送信のこのメールを発見した。
最初で最期の私宛のメール。私は泣きながら送信ボタンを押した。
私の一生の保護メールです。

「お前からのメールがやっと見られた。
返事に何日もかかっている。
お父さんは4月からは毎日が日曜日だ。
孫が生まれたら毎日子守してやる。」

 

 

 

最後の味

 

私が8歳で、弟が5歳の頃の話です。
当時、母が病気で入院してしまい、父は単身赴任中であることから、
私達は祖母(父方)の家に預けられておりました。
母や私達を嫌っていた祖母は、朝から夜遅くまで舞踊のお稽古に行き、
私達の世話は一切しませんでした。
そこで、私達はいつも近所に住むAさんという人のいいかたの家でご飯をいただいておりました。
ある日、母が一日だけの許可をもらって退院してきました。
本当は体がとてもきつかっただろうに、母は甘えつく私達を何回も
抱っこしてくれました。
夜は、三人で歌いながらハンバーグをこねて作りました。
「今日はお母さんが帰ってきたから、ご飯はお家で食べます!」
Aさんの家に挨拶に行った時の弟の、何か誇らしげな表情を見て
嬉しくなった私は、その紅潮した頬っぺたに何度も自分の頬っぺたを
擦りつけて家に帰りました。
家に着くと、既に料理が食卓に並べられていた。母は暖かい牛乳を差し出して、
「おばあちゃんが帰ってきたから、ちょっと待っていてね。みんなで食べようね。」
と言った。私達がAさんの家に行っている間に帰ってきたようだ。
しばらくすると、着物から着替えてきた祖母が台所に入ってきた。
「お義母さん、お食事の用意できていますので、どうぞお掛けになってください。」
その母の言葉を遮るように祖母は、
「病人の作ったものが食べられますか!何が感染するかわからないのに…」
と言って、母の作った料理を全て残飯の入ったごみ袋の中に捨てていきました。
「も、申し訳ありません…」
さっきまでニコニコしていた母の顔から一気に血の気が引いていきました。
私は(どうしよう!どうしよう!)とただただ混乱していました。
「バカヤロウ!」
突然、弟が叫んで、祖母からごみ袋をひったくりました。
仁王立ちになった弟は、祖母をにらみつけながら、ごみ袋から母の作ったご飯を手ですくって食べ始めました。
「俺はなぁ… 俺はなぁ…」
後の言葉が出てこずに、目から涙をボロボロとこぼしながら、弟は食べました。
小さな肩を震わせて、必死に強がって…
そんな弟を見て、私も大泣きしながらごみ袋からハンバーグを掴み取って食べました。
「もう、いいのよ。やめて。二人とも。いいのよ。お願いだから…」
泣きながら止める母の声も無視して、私達はむさぼり続けました。
これが私達姉弟の、母の最後の味。悲しさと悔しさの恨みの味…

 

 

 

弁当

 

俺の母さんは、生まれつき両腕が不自由だった。
なので料理は基本的に父が作っていた。
ただ、遠足などで弁当がいる時は、母さんが頑張って作ってくれていた。
でも、小学校6年の時の遠足で、見た目が悪い母さんの弁当を見られるのが嫌で、
とうとう「弁当はコンビニで買っていくから、この弁当はいらない!!」と言ってしまった。
母さんはそんな馬鹿な俺に、ただ、うまく作れなくてごめんねとしか言わなかった。
時は過ぎ、小・中は給食だったのだが、高校になってからは
給食はないのでいつも昼は購買のパンですませていた。
しかし、高校2年になったある日、母さんが弁当を作ると言い出した。
それは遠足の時に作ってくれたものとは、見た目も味も段違いに良くなっていた。
不自由な手で、一生懸命作ってくれたのだ。
と、思ったのもつかの間。 肺炎で入院したかと思うとぽっくり逝ってしまった。
弁当を作り始めてから3ヶ月しか経たない内に。
母さんが死んだ後、親父から聞いたのだが、どうやら母さんは俺の為に、
定食屋をやっている知り合いの所に一年間料理を習いに行っていたらしい。
そして後日、その定食屋に行って見た。
定食屋の人と俺は直接、関わりは無いけれど、優しそうな人だった。
そして母がよく弁当に入れていたメニュー、ハンバーグ。それの定食を頼んだ。
そして、それを口にしたとたん、ぼろぼろと涙がこぼれてきた。
たった3ヶ月しか食べられなかったけど、たしかに母さんのハンバーグの味にそっくりなのだ。
腕がまともに動かせないのに、頑張って作ってくれた、あのハンバーグの味。
形は少し不細工だったけど、とても美味しかった、あの、ハンバーグの味。

 

 

 

義母

俺を生んでくれた母親は俺が2歳の頃に死んだ。後の親父の話では元々、体が丈夫な人じゃなかったらしい。
俺が6歳の頃に親父が再婚して義母がやってきた。
ある日、親父が「今日からこの人がお前のお母さんだ」といって連れてきた。新しい母親は俺を本当の子供のように可愛がってくれた。
家族とか血縁とかまだ分からない頃の俺にとって義母が本当の母親だった。
それから、何年か経ち俺が中学の頃、今度は親父が事故で帰らぬ人となった。
親父の葬式の席で親族が集まりこれからの俺たち家族の事で話し合うことになった。
親父の両親(俺から見て祖父母)は既に無く親戚づきあいも疎遠で葬式には親父の親族は誰も来なかった。
後から知った事だが親父はガキの頃に両親を亡くし親戚中をたらい回しにされ。おまけにひどい扱われようだったらしい。そんな事もあり自分が大人になって働き出してからは一切、縁を切っていたらしい。
まあ、そんな状況もあり今後の俺たち親子の事を生母、義母側双方で話をする事になった。

 

元々義母の両親は義母と親父との結婚に反対していた。まぁ親としては娘の結婚相手にコブ付きだとやっかむの当然かもしれない。
また生みの母の両親は、まだ若い義母の事を考えて俺を引きと取ると言い出した。
双方の親の利害が一致して俺は生母の家に引き取られると決まりかけた時。それまで双方の話を聞くだけだった義母が口を開いた。
「この子は私の子です。例え血が繋がって無くても私の子供です!」「お願いですから、この子は私に任せてください。」物腰の柔らかい義母が珍しく語気を荒げていた。
出会ってからはじめて見たそんな義母の姿に俺は驚きを覚えた。最初は難癖を付けていた双方の両親も最後には義母に折れる形となり。
俺は義母と二人で生活することになった。稼ぎ頭の親父が死んで義母は必死で働いた。受験で大変な時期の俺を育てる為に必死で働いてくれた。
高校3年の時、俺は家の事情もあり進路は就職すると決めていた。
しかし、その話を聞いた義母は「大学に行きなさい。」と言った。「お金は母さんが何とかするからあんたは大学に行きなさい。」
なんで、実の息子でも無いのにそんなに俺に一生懸命なんだろう?俺は半ば呆れながらそんな義母の言葉が嬉しくて思わず泣いてしまった。
そんな義母の言葉に背を押され少し遅れて受験勉強。家の事情を考えると浪人は出来ないし、そんな事で義母を落胆させたくなかった。
元々、勉強は出来るほうじゃないので入れた大学も大した大学じゃなかったが、それでも合格と聞いた義母の涙混じりの笑顔は今でも忘れられない。

 

大学に入ったが俺は生活費分ぐらい自分で何とかしようと決めていた。高校の時もそうだがアルバイト三昧の日々で良く留年しなかったものだと今でも不思議に思う。
大学も何とか無事に四年で卒業が出来、就職も決まり俺は晴れて社会人になった。最初の初任給で義母にプレゼントを買った。
さすがに俺のプレゼント(たいしたもんじゃないけど)には参ったのか、ありがとう、ありがとうと言いながら泣く姿に俺も思わず貰い泣き。
ほんと、感謝しなきゃならないのは俺の方です。
それからは二人でつつがなく暮らしていたが、俺も30の手前で結婚したい相手が出来た。最初は俺の結婚を義母がどう思うかと思っていたが大喜びで歓迎してくれた。「あんたもこれで一人前だね」と言われて照れくさいやら恥ずかしいやら。
最初は一緒に暮らそうと言ったが「お嫁さんに悪いから母さんはここで暮らすよ」と断られる。
いやいや、かみさんも賛成してくれてるんだけど...。
何度か話はするもののの結局、離れて暮らすことに。でも、結婚して一年経って義母が倒れた。幸い大事に至らなかったが、今後、同じ事が有ってもいけないと思い。断っている所を半ば強引に同居することに。
その間、孫の顔も見せることが出来たしかみさんとも上手くやってるしで本当に幸せそうだった。
でも先月、その義母が他界。くも膜下出血であっけなく死んでしまった。
通夜の席でかみさんが義母の話をしてくれた。正直、この年になるまで義母のそれまでの人生を聞いたことが無かった。かみさんは義母から色々、聞いていたらしい。
義母は親父と結婚する前に子供が生めない体だったらしい。
最初はそんな事もあり結婚を断っていたそうだが、親父はそんな事情を承知で「俺たちには子供がいるじゃないか、俺の息子の母親になってくれないか?」の言葉に義母は涙ながらに承諾。
親父も人前も憚らず泣いていたそうで。義母曰く「あんなみっともないプロポーズは無かったけど嬉しかった」との事。その話を聞いて俺はやっと理解できた。そして言葉にならなずに涙だけが溢れて仕方が無かった。
今までかなり泣いたけど息が苦しくなるほど泣いたのは初めてだった。
ぶっきらぼうな親父の優しさもそうだが、親父のプロポーズを最後まで純粋に受け入れた義母に、言葉に出来ない思いがこみ上げてきた。かみさんもそれ聞いた時は涙が止まらなかったそうで俺に話しながらまた号泣。
子供たちも泣いてる俺たちを見てつられて泣き出す始末。義母いや、母さん、血は繋がってないけど貴方は俺にとって本当の母さんです。生みの母には悪いけど、俺にとって貴方以上の母はいません。
親父、そっちで会ったら誉めてやってください。貴方が選んだ人はとても素晴らしい人でした。最後に母さん、もし生まれ変われるならまた貴方の子供に生まれたい。今度は貴方の本当の子供に生まれ変わりたいです。
突然に逝ってしまって改まって感謝することが出来なかったけど、本当にありがとう。

 

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