小泉八雲『ムジナ』全文|怪談集全17話 – 全話無料

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ムジナ

 

東京の赤坂道に紀伊国坂きいのくにざかと呼ばれる坂がある──紀伊国の坂という意味である。どうしてそれが紀伊国の坂と呼ばれるのかは知らない。この坂の片側には、深くてとても広い古代の堀が見え、それに連なる高い緑の土手はどこかの庭に続いている──もう一方の側は皇居の高い塀が遠くまで続いている。
街灯と人力車の時代になる前、この周辺あたりは暗くなると人気ひとけが無くとても淋しかったので、遅くなって出歩く者は、日の落ちた後に独りで紀伊国坂を上るくらいなら、かなり遠くまで回り道をしたものだ。
これはすべて、かつてそこをムジナが徘徊はいかいしていたからだ。

ムジナを見た最後の男は、京橋方面の年輩の商人であったが、三十年くらい前に死んだ。彼が語ったのはこんな話だ──
ある晩遅く、急ぎ足で紀伊国坂を上っていくと、堀のそばにうずくまり、ただ独り悲しげにすすり泣く女を見掛けた。身投げでもするつもりなのかと心配になって、何としても助けよう、力になって慰めてやろうと思い足を止めた。女は細身で品のある風情に見え、見事な衣装を着て、髪は良家の若い娘がするように整えられていた。「目も鼻も口も無かった──そしてギャーと叫んで逃げ出した。
紀伊国坂を上り、目の前の何も無い暗闇をひた走りに走った。振り返る度胸などあろうはずもなく、ただひたすら走り続けて、ついに、かなり遠くの方で、蛍火ほたるびのようにかすかな提灯ちょうちんの灯りが見えてきたので、そこへ向けて走った。近づいてみると道端に店を構えるただ一件のそば売りの屋台の灯りだと分かったが、あんな目にあった後ではどんな灯りでも、どんな人でも、一緒に居られるだけありがたいと自らに言い聞かせ、そば売りの足元に倒れて叫び出した。「ああっ──あっ──あー……」
「これ、これ、」そば売りは乱暴に叫んだ。「落ち着いて、何か一大事ですかい、誰ぞに痛めつけられでもなすったかい」
「いいや──痛めつけられたんじゃない」あえぎあえぎ言葉を継ぎ足した──「ただ……ああっ──あっ、」
「──ただ、おっかない目にあったのかい」冷ややかに物売りは問いかけた。「盗賊ですかい」
「盗賊じゃない──盗賊じゃあないんだ」おびえた男はあえぎながら……「俺は、見た……女を見た──堀のそばで──そいつは見せたんだ……ああっ言えないよ、そいつが見せた物なんて……」
「へっ、そいつが見せたのは、こんなもんじゃなかったかい」そう叫ぶとそば売りは、自分の顔をなでた──すると、顔がまるで卵のようになって……同時に灯りが消えた。

 

【ムジナ】
アナグマの一種、ある動物は人間にいたずらするため変身できると信じられていました。

【お女中】
身分の高い女性に対する敬称、見知らぬ若い女性に話しかける際に使われる礼儀正しい呼び方。

 

出典:© 「プロジェクト杉田玄白」正式参加作品

全話リスト

はしがき

1・耳なし芳一の話|2・おしどり|3・お貞の話|4・乳母桜|5・かけひき|6・鏡と鐘の|7・食人鬼|8・ムジナ|9・ろくろ首|10・葬られた秘密|11・雪おんな|12・青柳の話|13・十六桜|14・安芸乃助の夢|15・力ばか|16・ひまわり|17・蓬莱

エッセイ:虫の研究|18・|19・|20・

小泉八雲『奇談』全話リスト

英語版 全話リスト

INTRODUCTION

1・THE STORY OF MIMI-NASHI-HŌÏCHI | 2・OSHIDORI | 3・THE STORY OF O-TEI | 4・UBAZAKURA | 5・DIPLOMACY | 6・OF A MIRROR AND A BELL | 7・JIKININKI | 8・MUJINA | 9・ROKURO-KUBI | 10・A DEAD SECRET | 11・YUKI-ONNA | 12・THE STORY OF AOYAGI | 13・JIU-ROKU-ZAKURA | 14・THE DREAM OF AKINOSUKÉ | 15・RIKI-BAKA | 16・HI-MAWARI | 17・HŌRAI

ESSAY:INSECT STUDIES 18・BUTTERFLIES | 19・MOSQUITOES | 20・ANTS

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