世界史上カッコいい最後の言葉を残した人78選 一覧|死に際の名言・名台詞

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世界史上カッコいい最後の言葉を残した人78選 一覧|死に際の名言・名台詞

 

トマス・モア

イングランドの法律家、思想家、人文主義者。政治・社会を風刺した『ユートピア』の著述で知られる。大法官まで登りつめたがヘンリー8世により反逆罪で処刑された。

「私は王の忠実なしもべとして死ぬ。だが、神のしもべとしての方が先だ。」

首切り人に、「私のヒゲに罪は無いのだから、切るなよ」とも言った。

スパルタ王

「旅びとよ、スパルタ人に伝えてよ、我々はこの地に留まると。」
「Stranger, go tell Spartans, that we remain here」

テルモピュレーでペルシャ軍のために全滅したスパルタ王の言葉。

山崎宗鑑

戦国時代の連歌師・俳諧作者。近江国の出身とされるが、本名・出自については諸説ある。

「宗鑑は いづこへと人の 問うならば ちと用ありて あの世へと言え」

ファヴリッツォ・クアトロッキ

イラクで活動するイタリアの民間軍事会社の兵士。

自分で入る穴を自分で掘らされ、その後目隠しをされて穴の前に立たされ、処刑される寸前にこう叫びました。

「イタリア人の死に様をお前らに見せてやるぜ」

シッティング・ブル

アメリカインディアンのラコタ・スー族のオグララ族に属するハンクパパ族の戦士、呪術師。

「私は行かない。お前の好きにするがいい。逃げないから、早くやれ」

逮捕に来たインディアン警官との紛争中に殺された。

ソ連軍のブレスト守備隊の隊員

「戦友は皆死んだ。ドイツ兵は城門を突破した。  手榴弾は、あと一発。だが決して降伏はしないぞ!」

「俺は死ぬ。降伏などするものか。許せ、祖国よ。」

「情勢は不利だが、我々は勇気を失わずに死ぬ。1941年7月。」

いずれも、ソ連軍のブレスト守備隊の隊員たちが壁に書き残した遺言。
ブレスト要塞は独ソ戦勃発時の激戦地の一つ。

アーヤトッラー・ルーホッラー・ホメイニー

イランにおけるシーア派の十二イマーム派の精神的指導者であり、政治家、法学者。

「明かりを消してくれ。私はもう眠い」

マクシミリアン・ロベスピエール

フランス革命期で最も有力な政治家で代表的な革命家。

処刑される時に
「共和国は滅んだ。盗賊どもが勝ったのだ。」

アウグスティヌス

古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。

「拍手を。お芝居は終わりだ。」

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ドイツの作曲家、ピアニスト。

「友よ拍手を!喜劇は終わった。」

マルクス・アウレリウス・アントニヌス

第16代ローマ皇帝。

「出てけ、失せろ。最期の言葉なんてものは、生きてるうちに言いたいことを全部言わなかったバカ者どもが口にするものだ。」

幕を引け。喜劇は終わった。わしはこれから
偉大なる”もしかしたら”を捜しに出かける
byフランソワ・ラブレー

フィンセント・ファン・ゴッホ

オランダのポスト印象派の画家。

「僕はこんなふうに死んでいきたいと思ってたんだ。」

ウィンストン・チャーチル

イギリスの政治家、軍人、作家。

「何もかもウンザリしちゃったよ。」

平 清盛

「私が死んでも豪華な葬儀などはいらん。ただ頼朝の首を我が墓前に供えることこ
そ弔いと思え」

カール・パンズラム

アメリカ合衆国の連続殺人犯で、立証されていないものも含め22件の殺人を犯したとされる。

「さっさとしろよ! お前がぼさっとしてる間に、俺なら20人は殺してるぞ!」

死刑執行人に向かって

フレデリック・ショパン

ポーランドの前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家として有名だった。

「ほんとうの音楽を弾いてくれたまえ。モーツァルトの音楽を!」

死の床で友人のチェリストに。

久保山愛吉

「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」

昭和29年3月1日、ビキニ環礁で行った水爆実験によってビキニ沖で漁をしていた第五福竜丸の乗組員が被爆。

同年9月23日、無線長の久保山愛吉が放射線障害で死亡。
彼の最期の言葉もむなしく、今も核実験による被爆者は放射能によって苦しんでいる。

619:世界@名無史さん[]:03/02/02 23:47
「さあ、みな、眠ろうではないか・・・」

1918年11月4日、第一次世界大戦の停戦一週間前に戦死した
ウィルフレッド・オーウェン(英国の詩人)の言葉。

628:世界@名無史さん[]:03/02/16 22:24
「あの世で子修(曹昂)に母(丁夫人)の居場所を訊かれたら、どう答えればいいんだろうか?」

曹操の最後の言葉。
曹昂を戦死させたのがきっかけで、丁夫人に見放された曹操。
この事件は、最後まで彼の心の傷だったらしい。

相花信夫

少尉 第七十七振武隊

遺書
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母を慕いて

母上お元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有り難い母 尊い母

俺は幸福だった
遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと

昭和二十年五月四日出撃戦死 十八歳

口多聞少将

空母「飛龍」にて
発 山口多聞少将
宛 第十駆逐隊司令阿部大佐
ミッドウエー海戦にて 昭和17年6月6日 0510

「阿部大佐、この戦争はあと2,3年は非常な激戦の形で続くと思料す。
その間、貴君も私や加来艦長と同じ立場になるやも知れず。
その時、一艦、一戦隊の沈没や敗辱の責は一将にとって死に勝るものであることを知るであろう。
敗勢が己の不徳によることなく、たとえ渾身の善戦をなして悔いることがなくとも。
古来海将にとって艦とは、艦隊とはかくの如きものにあらずや。
貴君が駆逐艦へ退去後、魚雷を「飛龍」へ射ち込むことを希望す。
私がこの世に求める最後の無心、介錯である。」

チリのアジェンデ大統領

「国民万歳!労働者万歳!これがわたしの最後の言葉だ。わたしは自分の死がけして犬死に終わることはないだろうと信じている」

クーデタ部隊の重囲下に置かれた、大統領府からの最後のラジオ演説。
その直後、大統領は自決した。

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