世界の歴史上有名な人物の最後の言葉を集めて一覧にまとめました。特にかっこいい言葉だけを集めていますので、人生に迷ったときなどに勇気をもらえるかもしれません。
このかっこいい最後の言葉リストには亡くなる直前に家族や友人に行った言葉や墓碑銘・辞世の句・遺言・遺書なども含まれています。また、日本人のカッコイ言葉もたくさんありますので、ぜひご覧になってください。
世界史上カッコいい最後の言葉を残した人
エリザベス1世
セシル卿「床におつきにならねばなりません。」
エリザベス「ねばならない、ですって?それは王族に向かって使える言葉なの?本当にもう、お前は!お前の父が生きていればけしてそんな事は口に出さなかった筈よ。」
(とうとう最後まで寝台に身を横たえる事なく大往生を遂げた。)
エリザベス1世
イングランドとアイルランドの女王(在位:1558年 – 1603年)。テューダー朝第5代にして最後の君主。
初代ソールズベリー伯爵ロバート・セシル
テューダー朝最後の女王エリザベス1世とステュアート朝最初の国王ジェームズ1世に重臣として仕え、エリザベス朝後期からステュアート朝初期のイングランドの国政を主導した。
坂本竜馬
「俺は脳をやられちょる。もういかん」
幕府見回組説を信じていたが、客観的な状況を考えると怪しいのは薩摩藩か紀州藩(いろは丸問題)と思う。
どんな人に対しても辛口な評価しかしない陸奥宗光がこの人に対してだけは手放しで褒め称えているところを見るとかなりの人物であったと思う。
幕末日本は実に惜しい人をなくした。
ジョセフィーヌ皇后・ナポレオン
ジョセフィーヌ皇后:「ローマ王、ボナパルト」
ナポレオン:「フランス テーテ アルメ・・・ジョセフィーヌ!」
いろんな説がありますが私は一番一般的なこれを信じたい。
結婚に幻想は抱かないつもりですが、死ぬ間際に相手の名前を呼ぶほどお互い愛し合えるこのような関係にはあこがれてしまいます。ここまで相手の事を思うことができる相手に巡りあえたこと、このことがこの二人が位人身を極めた皇帝皇后としてではなく、時代を生きた人間として幸せな人生であったことを感じさせ羨ましさを覚えますね。
マリア・テレジア
「眠る事は出来るけど、負けてはいけないわ。死神がすぐ側に居るのよ。でも知らないうちに私を襲うなんてこと許されないわ。15年間ずっと心構えは出来ていたのだもの、しっかりとした気持ちで立ち向かうわ。」
ジャンヌ・ダルク
「イエスさま、ああ、イエスさま!」
火刑台の炎の中で。
リヒアルト・ゾルゲ
死刑執行直前、ロープが首に巻かれたとき
「ソ連共産党、国際共産党、赤軍万歳!」
ドイツ人のソ連スパイ リヒアルト・ゾルゲ。
フィデル・カストロ
「地獄の熱さなど、永遠に実現しない理想を持ち続けた苦痛に比べればなんでもない」
あと100年くらいしたらフィデル・カストロの最期の言葉になってそう。
しかし、カストロにこの言葉を吐かせた心中を察すると胸がいっぱいになります・・・
ジェーン・オースティン
(「何か欲しいものは?」と聞かれて)
「死にたいだけです。」
ジョルジュ・ダントン
政敵のロベスピエールの家の前を通りかかると
「俺をギロチンに送ったロベスピエールよ、地獄で待ってるぞ!」
と叫び、
ギロチンにかけられ処刑される直前も
「俺の首を後で群衆に見せてやれ!これだけの首はめったにないぞ!」と叫ぶ。
最後まで堂々とした態度で処刑された。
織田信孝
「昔より主をうつみの野間なれば、やがて報いん羽柴筑前」
秀吉に実母と娘を磔にされ、切腹させられる織田信孝。さぞかし無念だったことだろう…
ラスネールとアヴリル
犯罪文学者ラスネールと、共犯者アヴリルの処刑直前、最後の会話。
ラスネール「墓場の土は冷たいだろうな」
アヴリル「毛皮を着せて埋めてくれって、頼んでみろよ」
伍子胥
春秋戦国の呉の謀臣、伍子胥は無実の罪によって呉王夫差によって自決を命ぜられた。
周囲の者にこう残した。
「私が死んだら墓には梓の木を植えよ。これは呉王の棺にするためだ。そして、私の目はくり抜いて呉都の東門に掛けておけ。これは、呉の滅亡する様を見るためだ。」
実際に伍子胥の死後、隣国越によって呉は滅ぼされた。
ウィンストン・チャーチル
イギリスの政治家、ノーベル文学賞受賞、1874~1965
「造物主に会う覚悟は出来ているさ。造物主に私に会う覚悟があるかどうかは分からんがね。」
日商岩井の島田常務の遺書
「日商岩井の皆さん。男は堂々とあるべき。会社の生命は永遠です。その永遠の為に私たちは奉仕すべきです。私達の勤務はわずか20年か30年でも会社の生命は永遠です。それを守るために男として堂々とあるべきです。今回の疑惑、会社イメージダウン、本当に申し訳なく思います。責任とります。」。
ダグラス・グラマン事件で疑惑の人とされた日商岩井の島田常務の遺書。
1979年。もちろん自殺。体中を切りつけては失神し、意識を取り戻しては身体を切りつけ、それでも死ねず最期は7階から飛び降りる。
キュロス二世の墓の文章
アケメネス朝ペルシアの始祖キュロス二世の墓の文章
「道行く人よ。余はペルシア帝国の建設者キュロスなり。 願わくば、わが死体をおおうこの一片の土をわれに与うるを惜しむなかれ」
200年後、遠征途中のアレクサンダー大王が、荒れ果て剥き出しになったキュロス二世の墳墓を発見し、こう書いてあるのを読んで、声をあげて泣いたそうです・・・
アレクサンダー大王こそが、アケメネス朝ペルシアを滅ぼした張本人であることも、哀れを誘う。
藤原良輔
「一定我ハ死ナンズ。アヤシナガラ此ホドノ身ニナリ居タレバ、憂喜集門ト云事我が身ニアタレリ。」
死亡時は左大臣。
平安時代初期の貴族。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の四男。官位は正五位上・雅楽助。
真田幸村
西尾宗次に破れると「手柄にせよ」と言い、首を差し出したという。
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