悋気の火の玉
悋気は女の謹むところ、疝気は男の苦しむところ
なんて言葉が残っております。悋気、つまり焼き餅も焼き加減というものが難しいようで、
焼き餅は遠火で焼けよ 焼く人の胸も焦がさず 味わいもよし
などと申します。焼くというほどではなく、キツネ色にこんがりと、いぶす程度にしていただけると、まことに可愛げがございますが、
悋気にも 当たりでのある金だらい
かんざしも逆手に持てば 恐ろしい
朝帰り 命に別状ないばかり
なんてぇことになってまいりますと、焼き餅もだんだんと恐ろしいことになって参ります。
浅草の花川戸に立花屋という鼻緒問屋がございました。ここの旦那というお方が「焼きざましのモチ」のようにまことに堅いお人でございまして、女はわが女房以外には手も触ったことがない、という人物でございました...が、この旦那がある日、仲間の寄り合いのくずれで吉原へ誘われました。
堅いお人ほど、いちど遊びの味を覚えると引き返すことができなくなると申しますが、まことにその通りで、毎日のように吉原通いが始まりました。ところが、これがなかなかの出費。もともとが商人ですから、そろばんを弾いて考えました。
「こんなことをしていたのでは、いくら財産があったってたまったもんじゃない。なんとか安くすませる工夫はないものか...」
いろいろと思案したあげく、花魁を身請けして、根岸の里へ妾宅を構えて囲うことにいたしました。ま、毎日タクシーに乗るくらいなら、百万や二百万出してもマイカーを買ったほうがまし、という理屈ですな。
さて、旦那は月のうち本宅に二十日、お妾さんのところに十日お泊まりになるようになりましたが、本宅の方のおかみさん、要するに正妻ですが、どうも近ごろ旦那の様子がおかしいと勘付きまして、人を使って、調べてみると、案の定、根岸に妾宅があることが分かった。さあ、本妻としては穏やかじゃございませんで...
旦那 | ただいま帰りましたよ |
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正妻 | お帰りなさいまし! |
旦那 | ...び、びっくりするじゃないか、なんてぇ大声を出すんですよ。お前さん、仮にも女でしょ、もう少し静かに挨拶はできないのかい? ...あ~あ、くたびれた... |
正妻 | えぇ、そうでございましょうとも。さぞやお疲れでございましょう...フン! |
旦那 | おいおい、今日はやけに絡むねぇ。 ねぇ、すまないけど、お茶を入れてくれないかい...いや、今日はやけに暑かったろう、だから、さ、喉がカラカラなんだよ。すまないが、お茶を一杯... |
正妻 | あたくしが入れたお茶なんか美味しくございませんでしょ...フン! |
旦那 | おい、どうでもいいけど、そのフン!てのを止しなさい。感じが悪いよ。どうせ笑うならね、こう、大きく「アハハハ」と笑いなさい... あー、腹が減った。お茶はもういいから、ご膳にしとくれ。今日は遅いから、お茶漬けでいいから... |
正妻 | あたくしのお給仕なんかじゃ美味しくございませんでしょ...フン! |
旦那 | お前、いいかげんにしなさい! |
旦那だって、これでは面白くありませんから、プイとうちを飛び出してしまう。こんどは妾宅に二十日、本宅に十日、揚げ句には本宅に帰らないなんてことになって参ります。
さあ、こうなりますと本妻の方はおさまりませんな。こういうことになるのもすべてはあの根岸の女があらばこそ。あの女さえ亡き者にしてしまえば万事がうまくいく...
今の時代なら殺し屋でも雇おうか、密室トリックでもひねり出そうかてぇことになるのでしょうが、当時はこういう時は祈り殺しに限りました。要するに「丑の刻参り」「呪いの藁人形」てぇやつで。真夜中に白装束に身を包み、七輪の五徳を逆さにして、これを頭にかぶり、その脚に三本の蝋燭を灯す、という物凄いいでたちで、神社の境内の杉の大木に五寸釘でもって藁人形をば、カーン、カーン...と打ち付けはじめた。
さて、このことが根岸のお妾さんの耳に入りました。さあ、これで怖じ気づくか、と思ったらとんでもございませんで、敵もさるもの、引っ掻くものてぇやつですな。
「なんだって? あたしを五寸釘で呪い殺すって? 冗談じゃない、旦那のお世話も満足に出来ない女に何ができるってのさ! そっちが五寸釘だってぇならあたしゃ六寸釘でいくよ! ばぁや、すぐに六寸釘、百本ばかし買ってきておくれ!」
おんなじような装束で、お寺の境内で六寸釘をカンカンカンカンカーン...機関銃のように打ち始めた。えらい騒ぎです。これを聞いた本妻は黙っちゃいませんな。根岸が六寸釘ならこっちは七寸だよ! なにぃ、こっちは八寸だよ、九寸だよ...きりがございません。気の毒なのは毎晩カンカンやられる杉の木ですな。半月ほどたつと、穴だらけのズタズタになっちまった。なんせ、幹がメッシュになってますから、風が吹いたら向こう側に吹き抜けて、たいそう風通しがよくなっちまった...
しかし、これも長くは続きませんでした。と申しますのも、昔からの言葉通り、「人を呪わば穴ふたつ」、他人を呪えばその報いが自分にも帰ってくる、というわけで、本妻もお妾も同じ日の同じ時刻にポックリと...亡くなってしまいました。
こうなると間抜けな目にあったのは後に残された旦那でございまして、同じ日にふたつも葬式を出す羽目になりまして、「本妻と妾とが呪い合って死んだ」と町内の噂にはなる、もう踏んだり蹴ったりでございますが、葬式から一月も経たないうちに、さらにややこしい話が舞い込んで参りました。
番頭 | えぇ、旦那様...ちょっと、失礼いたします... |
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旦那 | おや、番頭さんかい。なんだい、改まって |
番頭 | はぃ...それが、その...ちょっと申し上げにくいのでございますが...旦那様、ご存知でございますか、あの評判を |
旦那 | なんだい、どんな評判だい |
番頭 | 毎晩夜中になりますと、こちらのお宅から火の玉があがって、根岸の方へ向かいまして、一方、根岸の方からも火の玉が花川戸めざして飛んで参りまして、これがちょうど大音寺前のところで出会いまして、火の粉を散らしてけんかをするという噂でございます... |
旦那 | ...お前さんも聞いたのかい? あたしもちょぃと小耳にはさんで、気にはしてたんだけどね、たいそう評判になっているのかい? ...子供でも知ってる? そりゃぁ弱ったなぁ。そんな評判が立ったんじゃぁ信用にかかわりますよ。えぇ、暖簾にキズがつくてぇやつだ。どうしたもんだろう... |
番頭 | さようでございますねぇ...いかがでございましょう。どちらの火の玉も、もとはといえば旦那様を中に挟んでの悋気がもとでカッカとしているのでございますから、仲裁は時の氏神という言葉もございます。ここはひとつ旦那様ご自身で仲裁をなさる、ということで、お収めになってはいかがでございますか? |
旦那 | おぉっ、なるほど。それはいいところに気がついた。そうだよ。どっちの火の玉もまんざら知らない仲じゃないんだ。話せば分かりますよ、話せば。よし、さっそく今夜にでも出かけましょう。お前さんも、もちろんいっしょに行ってくれるだろうねぇ |
番頭 | えっ? わ、私もですか...あ、あの... |
旦那 | お前さんが言い出しっぺぇじゃないか。まさか、行かないなんて言わないだろうね。頼んだよ。今夜だよ |
番頭 | へ、へい...かしこまりました... |
さて、その晩おそく、もうそろそろ九つという刻限、今でいうところの午前零時ですな。旦那は番頭に提灯を持たせて店を出ました。そのままてくてくと浅草たんぼを斜めに抜けて大音寺前にやって参ります。真夜中の寺でございます。辺りを照らすものは番頭が持った提灯が一つきり。ちょうど新月の頃とみえまして、空には月さえもない。ただただ、辺りは水を打ったように、シーンと静まり返っております...
番頭 | だ、だ、旦那様...真夜中のお寺というものは...寂しゅうございますねぇ... |
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旦那 | ああ、そうだねぁ。なんか化け物でも出そうな様子だねぇ...番頭さん、お前さん、もうちょっと落ち着いたらどうだい? そうソワソワ、ウロウロしていられちゃぁ、こっちまで落ち着かなくなっちまう...しかし、こうしてただ待っているのも退屈なものだねぇ......火の玉が出るのは何どきだって? 丑三つ刻? あぁ、まだ半刻ほどあるねぇ...うちを出るのがちょっと早過ぎたねぇ......えーっと... |
番頭 | 旦那様...な、何をなさってるんでございます? |
旦那 | いぇね、手持ちぶさただし、ちょいと煙草を吸おうかと...思ったんだが、あいにくと火道具を忘れて来ちまって...番頭さん、お前さん、持ってたらちょいと貸しておくれでないか |
番頭 | あいにくと、あたくし煙草はやりませんで... |
旦那 | ああ、そうだった。お前さん、それが一番ですよ。あんなもの吸ったって一文の得にもなりゃあしない...弱ったねぇ、いやぁ、煙草飲みというものは、欲しいとなったらどうも辛抱が利かないものでねぇ...どうも意地汚くて面目無いんだが、無いとなると無性に煙草が吸いたくなっちまって... |
話をしておりますと、やがて草木も眠る丑満つ刻、屋の棟も三寸下がる、水の流れもピタリと止まる...てなことを申します。現在でいうところの午前二時ですな。根岸の方からひとつ、火の玉がポゥ~ッと上がったかと思うと、フワリ、フワフワとこちらへ向かって参ります。
番頭 | うわぁっ、だ、だ、だ、旦那様、あ、あれが根岸の火の玉で! |
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旦那 | あぁ、なるほど...おーい、ここだ、あたしだよ。ここにいるよ |
まことに豪胆、と申しますか、無神経と申しますか、旦那が声をかけますと、火の玉がグルグルと三べん回ってピタリと止まりました。
旦那 | やぁ、近くで見るとやっぱり凄いものだねぇ。いやいや、お前さんの来るのを待ってました。お前さんが出てくる気持ちも分からんでも無いんだよ。けどねぇ、あたしも商人だ。あちこちでお前さんのことが評判になって、ほんとのところ困ってるんだよ... エホン...えぇー... いい火加減だねぇ...いや、話の途中で済まないんだが、あたしゃさっきから煙草が吸いたくて仕方がないいんだが、火道具を忘れて来ちまってねぇ、困ってたんだ。ちょっとこっちへ来ておくれ。お前さん、たいそう具合がよさそうな火を燃やしているが、ひとつ煙草に火を点けさせてくれないか...ああ、ありがとう。スパスパッ...ああ、点いた。点いたよ...ハハッ、いやぁ、ありがとう、ありがとう。 スパーッ...ふう。いやいや、お前さんも知ってのとおり、あたしゃ煙草飲みだろう。火道具を忘れて煙草が吸えなくて、腐ってたところだったんだよ。助かったよ... なんの話だった? ...ああ、そうだ。 いや、お前さんがね、こうして火の玉になって出てくることについちゃ、穏やかじゃないんだよ。世間様でバカな評判なんだ。うちの家内はね、素人で分からず屋だから、どうしてもお前さんに突っかかるわけだけどね、そこはお前さんが、酸いも甘いも心得てる苦労人だ。なんとかうまく下手に出て、あれと仲直りをしておくれでないか? ねぇ、なんとかうまくやって... もうちょいと下へ来て、もう一服点けておくれ |
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と、説得しているのか、何だかわかりゃしませんが、話をしているてぇと、今度は花川戸の方で火の玉がパァッと上がった、かと思うと、こっちはフワフワなんて可愛げのある飛び方じゃございませんで、ぐぅおぉぉぉぉぉーっとうなりを上げてまっしぐら...
番頭 | だ、旦那様! あれがおかみさんの火の玉で! |
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旦那 | いゃぁ、こりゃぁ凄い。これじゃぁ評判になるわけだ。いや、これは弱ったなぁ、あんなに火の粉を撒き散らして...あれじゃ火事になっちまいますよ。そんなことになった日にゃあうちの信用はカダ落ちだ。おーい、こっちだ、こっちだ! |
旦那が呼びますと、ぐぅおぉぉーっと一直線に飛んできた火の玉が、グイングインと五、六っぺん回ってピタリ...
旦那 | いやぁ、よく来てくれた。お前さんの来るのを待ってました。いま、根岸の奴にも言って聞かせてたんだけどね、よく分かってくれてねぇ。「ねえさん、まことに申し訳ありませんでした」ってそう言ってわびてるんだよ。だから、ね、お前さんもどうか機嫌を直して仲直りしてやっておくれ。でないと、あたしが困るじゃないか...だからね、いろいろ話もあるけどもさ...すまないけど、ちょいとこっちへ来ておくれ。いや、あたしゃ火道具を忘れてきまちってね、ちょいと煙草に火をつけさせておくれ...いや、煙草にね、火を... |
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正妻 | あたしの火じゃ美味しくございませんでしょ... フン! |
引用元:「東西落語特選」
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/
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