文違い
己惚れの無いやつはいない、なんてことを言います。確かに己惚れの無い人ってぇのはおりません。昔ございました吉原なんてところへ遊びに行く人はみなこの己惚れに手伝ってもらって行ったんですな。
背が高い人は「おれくらい背の高いのは他にゃいめぇ」なんて、それが自慢ですな。じゃぁ背が低い人は家の中で縮こまってるかってぇとそんなことはございませんで、「いいんだよ、背なんか高くなくったって。山椒は小粒でピリリと辛いってんでぇ。でぇいち、おれなんざどこへ入ったって場所とらねぇや」なんて。
色が白いは七難隠す、なんてこれが自慢ですな。じゃ黒い人はってぇと、「いいんだよ、この方が汚れが目立たなくて」なんて、やっぱり出掛けていくんですな。
だいたいが、万事良くないなんてひとはないもので、探しゃどっか見つかるもんですな。それを先方も心得ておりまして「この人はここを頼りにしてるな」ってとこをポーンと突いてくる。
近頃はそういうところにいるご婦人が、あまりお客をおだててくれなくなりましたですね、昔ほどは。人がはばかりへ立とうとして、イスの背なんかまたごうとすると
「よしなさいよ、短い脚で!」
なんて...
かりにも、そりゃ人のおごりのこともありますけど、仮にもお客でございますよ、それを...なんて怒ると「洒落が分からないヤツ」なんていわれちゃ癪だってんで、ググッと我慢したりなんかして、だんだんストレスが溜まってっちゃう。
そこいくと昔のああいう場所は、そういうところは決してそらさない。
「まあ、きれいな目をしてらっしゃる」
「鼻がツーンとして、いい形」
「耳がいいじゃありませんか、こちらは、福耳で」
「口元がきゅっと締まってて男らしいわ」
なんてどっか必ず見つけてくれるもんですな。するてぇとお客の方も気持ちがいいもんですから、また来ようって気になる。
中には一所懸命探してるんだけど、なかなか見つからないなんてのがある。
「まーぁ、こちらは...ねぇ...なんて言うんでしょうねぇ~...えーぇ、もう...あ~ら、歯が丈夫そう!」
こうなりますと、この人はもう歯が自慢ですな。一時間おきにアパタイト歯磨きで磨いております。道端で人に会ったりした日にゃ必ず歯を剥いてみせるという騒ぎで。
ま、そういう具合にお客を手玉に取るという花魁でも、自分の本当に好きな人、というのはいたものでございます。辛い勤めをしているんですから、そういう人がいなけりゃやりきれない。これを俗に「真夫(まぶ)」なんて申します。「真夫は勤めの憂さ晴らし」「星の数ほど男はおれど真夫と思うは主ひとり」なんて申しまして、吉原の女性に真夫と選ばれた男はもう大変なもんです。で、そういう人はあまり口に出さないもんですな。
「え? あの女? ああ、おれぁあの女の真夫なんだ」
なんて言ってるのはあまりあてにならない。大体が騙され連中で、顔見るてぇとアブみたいな面してたりしますが、こういうのも己惚れに押されて通ってるんですな。
半次 | へーぇ、じゃ何かい、また親父の無心 (金を欲しがること) なのか? |
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お杉 | そうなんだよ。それがさぁ、こないだ急にやって来てね、二十円何とかならないか、なんて言うんだよ。それでね、あたしもさ、 「おとっつぁん、そんなバカなこといっちゃいけないよ、あたしだって金のなる木を持ってるわけじゃないんだよ、そんな二十円なんて大金があたしになんとかなるわけ無いじゃないか」 とこう言ったらね 「そこを何とか頼む、そのかわりこれが最後だ、もう二度とこない、親子の縁を切ってもいい」 なんて言うんだよ。 向こうでこんな事言い出したもんだからね、あたしもちょっと考えちゃったんだよ。あのおとっつぁんと縁が切れるなんてこんなこと願ったりかなったりだろ。そりゃ血がつながって無いなんてことは別にどうでも構わないんだけどね、小さい自分から親らしいことは何一つしてもらったことはないしさ、苦労ばかりさせられてとどのつまりはこういうところへ身を沈めることになっちゃっただろ、そこへまたちょくちょく無心に来るんだからさ、ほんとになんておとっつぁんだろうと思ってさ。 お前さんといっしょになってからも付きまとわれちゃかなわないな、と思ってたんだよ。何しろこのおとっつぁんがいる間はあたしゃ浮き上がれないなと思ってさ、諦めてたところへさ、向こうから縁を切ってやるって言い出したからね、こりゃいい潮だと思ってさ、二十円渡して縁切りにしたいんだよ。それでね、半ちゃんには悪いけどね、今日手紙を届けさせたってわけなんだよ。 それで、どうだった? 二十円できた? |
半次 | それがね、おれも一所懸命方々駆け回ったけどね、十円しかできねぇんだよ |
お杉 | 十円かい? 向こうが二十円って言ってるからねぇ...十円じゃ承知しないと思うよ。ねぇ...半端なことしてまた後でこられちゃ何にもならないからねぇ...だからあたしゃきっちり二十円渡して、その代わり親でもなければ子でもない、っていう確かな証文を取っちゃおうって思ってるんだよ...んー、そう? もう、どうにもならないかい? |
半次 | あと二、三日待てねぇのか? |
お杉 | だってさー、もう下へ来て待ってんだよ |
半次 | なにぃ、下へ来てンのか...それじゃダメだな |
お杉 | そうなんだよ。困ったねぇ...ま、いいよ。仕方が無いよ。その代わり、半ちゃん、その十円、出すつもりでいておくれよ。いいかい... で、実はね、あたし、他にも当たってるんだよ。在所から来る角蔵って男がいてね、ヤなヤツなんだよ、ヤなヤツなんだけどさぁ、お金はあるんだよ。今日手紙をやったからきっと尋ねてくると思うんだよ。もしお金を持ってたら、あたしふんだくっちゃう。そうなりゃお前さんの懐を痛めなくて済む...ハイ...なんだい? なぁに? |
若い衆 | え、花魁、ちょっとお顔をお貸しくださいまし... |
お杉 | いいよ、お顔だなんて、うちの人だよ、半ちゃんじゃないか。遠慮することぁないよ。なに? 言ってご覧なさいな...え、来やがったのかい? で、どこへ通したの?...えぇ、そりゃまずいよ。他は空いてないのかい? だって...ま、しょうがないよ。話が済んだらすぐにいくから、待ってるようにそう言っとくれ。いいかい? ちょっと、「噂をすれば影」だよ。その角印がやってきたよ。持ってりゃあたしゃふんだくってやるからね。ただね、向かいなんだよ、座敷が。で、話が筒抜けになっちゃうだろ。で、出させようってんだから、あたしも甘いこというよ。それ聞いてお前さんが怒ったりするの嫌なんだよ。 |
半次 | そんなことぁねぇよ |
お杉 | だってさぁ、あたしが他でなんか言ってるの聞くってぇと、お前さん、何か口利かなくなっちゃうんだもん。あたし、そういうのヤなんだよ |
半次 | 今日はそんなことねぇよ。いいから行ってきなよ |
お杉 | そうかい、じゃ行って来るからね、待ってておくれよ |
在所から来る角蔵さん、手織り木綿の着物に小倉の帯を胸高に締めまして、壊れたがま口みたいに口をポカーと開けまして。
こういうのはもう女の方でなめてかかってますから、高飛車に出て行きます。
お杉 | 何をしてたんだよ、この人は、ほんとに! まー、やンなっちゃうね、まったく、いくら手紙だしたってちっとも来やしないんだから!! もぅ、今ごろになってノコノコやって来てさ、気の利いたオバケならとうに引っ込んじまう時分だよ!!! |
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角蔵 | そ、そんな、われ、ガミガミ、ガミガミとえきゃぁ声出すもんでねぇだよ...野中の一軒家じゃあるめぇし...そりゃおらも来べぇ来べぇと思ってたけんどもよ、忙しくってなんなかっただよ |
お杉 | 何が忙しいってのよ!! |
角蔵 | いやぁ、おらが方の在所でよぉ、デェ事件がボッパツしちまってよぉ、まぁ角さんがいてくんねぇければ事が収まんねぇって言ってよぉ、毎日、あっち行ったりこっち行ったりいろいろと話しぶって、やっとのこんで丸く収めたのが昨日のこった。こられるわけがねぇだよ |
お杉 | ホントに? ホントに忙しかったの? フン、お前さん、なんだろ...こないだ、堺屋に上がったろ!? |
角蔵 | な、なんでおめぇ、そんなこと知ってんだ? |
お杉 | 蛇の道はヘビだよ。ちゃんとご注進があるんだ。なにかい? 浮気する暇はあっても あたしんちに来る暇は無いのかい? |
角蔵 | い、いゃぁ...へっへっへ...そ、そりゃぁそうではねぇ、いや、ちがうちがう、そうでねぇだよ... まあ、聞けや。あれは付き合いだからしょうがねぇだよ。鎮守様の祭りが無事に済んで、こんなめでてぇことはね、ひとつ浮かれべぇっちゅうて...いや、おらが言い出したわけではねぇだよ。上の村の茂左衛門が言っただよ。それで茂左衛門とおらと下新田の寅八郎と惣介と、この四人で上がっただよ。 いやぁ、ハッハッハ、その時に出た、おらの相方の面の長けぇことったらな、頭のてっぺんからな、こう見てって、顎の先っぽに行き着いた頃には額忘れるくらい長げぇ顔だよ。馬が紙屑篭咥えたような面だぁ |
お杉 | 何言ってンだよ、そんな長い顔なんてものがあるもんかよ! まったく口が悪いんだからねぇ! えぇ、ちょぃと、喜助どん、この人ね、ちょっと見るとたいそう野暮に見えるだろ。だけどね、実はそうじゃないんだよ。こう見えてもね、芯は粋なんだから。うわべ野暮の芯イキってんだからねぇ。方々浮気して歩いちゃさぁ、女を泣かしてんだからねぇ。ホントに罪な人なんだからねぇ、この人はぁ...あぁ、なんの因果であたしゃこんな人に惚れたんだろう...悔しくってしょうがないよ、もう、ほんとに!! |
角蔵 | おぉっ、こ、これ...よさねぇか...ははっ、き、喜助が見てるでねぇか。こっぱずかしくってなんねぇよ、はははっ、ははっ...なぁ! |
若い衆 | へへっ、お仲のよろしいことで、たいそう結構でございますな |
角蔵 | へへっ、それほどのこたぁねぇけんどもな...ああ、何かうめぇもの持って来いや。われにまかせるだよ。なにか見繕って、いやいや、金はいくらかかってもええだ。さっそく頼むだぁよ |
若い衆 | へっ、かしこまりました。それでは花魁、よろしくお願いいたします |
お杉 | はい、ご苦労さん...はい、どうも はぁ...ねぇ、お前さん、あたしゃもうイヤになっちまったよ...えぇ? 何がって? まったく、後からあとから苦労の種が出てくるんだからねぇ |
角蔵 | なにが? |
お杉 | 何がって…お前さんがこない間ねぇ、あたしゃずっと廊下でお百度踏んでたんだよ |
角蔵 | いや、いくらお百度踏まれてもなぁ、こられないときゃしょうがねぇ |
お杉 | 違うよ、お前さんのことでお百度踏んでたんじゃないよ...おっかさんがさぁ...おっかさんがさぁ... |
角蔵 | かかさまが? かかさまがどうしただ? |
お杉 | うン...患ってるんだよ |
角蔵 | かかさまが患い...で、医者どんには見せたのけ? |
お杉 | それがさ...見せたんだけどさ、何しろ年取っちゃっててさ、すっかり弱り切ってるから、とてもじゃないがこのままじゃ治らないってんだよ。で、人参を飲ませなきゃいけないって言うの |
角蔵 | じゃ、飲ませたらよかんべぇ |
お杉 | お前さん、簡単に言うけど、二十円もするんだよ! |
角蔵 | に...二十円!!? にんじんがか!!? そっだな高けぇ...おらがの村へ来てみろ、五十銭も出したらこ~んなに... |
お杉 | 何を言ってんだよ! そりゃ野菜のニンジンだろ。お惣菜で食べるニンジンとはわけが違うんだよ。唐人参といって、指の先くらいでも何円、何十円とするんだから。 あたし、飲ませたくったってお金が無いじゃないか。それで相談しようと思ってお前さんに手紙を出してるのにちっとも来てくれないんだから...ねぇ、お前さん、後生だからさぁ...あたし、どうしてもおっかさん治したいの...だから...お前さん、そこに二十円持ってないかい? |
角蔵 | い...いや、二十円は...ねぇ... |
お杉 | いくらか持ってないかい? 少しくらいはあるんだろ? |
角蔵 | そりゃ、ねぇことはねぇ...十五円...ある |
お杉 | ああ、そう。じゃいいや。残りの五円は脇で借りて二十円にするから、済まないけどその十五円用立てておくれ、ね、貸しとくれ |
角蔵 | いや...そ、それはいけねぇ...これはおらの金でねぇだ。他人の金、預かってるだからな...これは貸すわけにゃ... |
お杉 | そんな事言ってうそなんだろ! |
角蔵 | いや、ウソじゃねぇだ。いや、村の玄兵衛って野郎がな、馬っこ買うべぇって手付けは打ってあるってんだ。で、この金持っていって返りに馬引っ張って帰ってくれって言われて、おら預かって来た金だかんな...これはおめえにやるわけにゃいかねぇ |
お杉 | いいじゃないか、馬なんか...おっかさんは今日か明日かって騒ぎなんだよ、ねぇ、頼むよ。ね、いいじゃないか |
角蔵 | い、いや、人の金だからだめだって...おらのモンならすぐにでもおめぇにやるだ。この金おめえにやっちまったら、馬っこ引っ張って帰ることができねぇ。玄兵衛に済まなかんべぇ |
お杉 | そいじゃ、何かい! 馬引っ張って帰れれば、おっかさんが死んだって構わないってんだね!!!!! |
角蔵 | い、いや...そういうわけじゃねぇけんどもさ... |
お杉 | だって、そうじゃないか! えぇ!? 何かい!!?? おっかさん、殺そうってのかい!!!!!???? |
角蔵 | そ、そうじゃねぇ...またそういう無茶なことを...そりゃおらだってかかさまは助けてぇ...けどなぁ、かかさま助けるってぇと馬引っ張って帰ることできねぇ...といって馬引っ張って帰るてぇとかかさま助けることできねぇ...かかさま...馬っこ...かかさま |
お杉 | もういいよ!!!!!!! いらないよ!! いいよ、わかったよ、お前さんの料簡がよーーーーーーーーーく分かったよ。いいよ、お金はいらないよ。そのかわりね、年があけたらお前さんと一緒になるって約束ね、あれ、あたしゃ考え直すよ! お前さんも あんな約束無かったものと思っとくれ!! |
角蔵 | な...ちょっと...なんで |
お杉 | なんでって、そうじゃないか! 馬とおっかさんと一緒にするような薄情な男と一緒になったって幸せにゃなれないよ。そんな男なんだから終いにゃ酷い目に合わされるに 決まってるんだ! |
角蔵 | そんなことぁねぇって...いや、そんな気じゃねぇって...そりゃものの例えだって。かかさまと馬を一緒にしたわけじゃねぇ、おら考ぇてただけだよ...ったく、すぐにそうやって怒って...怒るでねぇだよ... んーーーー、わ、わかった、わかっただよ...じゃ、この銭出すだよ。こ、この財布の中にへぇってる。この中に十五円あるだから...これ、持ってけ...な、持ってけ |
お杉 | いらないよ!! |
角蔵 | そ、そんなに怒ってはなんねぇって...な、お、おらが悪かったから...どうか、この金持ってってけろ。な、こうやって謝ってるだから、おらが悪かったから、どうかこの金、持ってってけろ |
お杉 | ふぅーっ...あたしゃ...別にお前さんに謝らせたり、お金貰ったりするほど値打ちのある女じゃないけどさ...おっかさんが患ってるだろ、だからムシャクシャ、ムシャクシャしてさ、つい心にも無いこと言っちゃったんだよ。ね、こっちこそ勘弁しとくれよ。じゃ、このお金...いいね。じゃ、しばらくの間、あたし、借りとくから... |
角蔵 | いや、それがいけねぇだよ。あに言ってるだよ、おめえとおらとの仲ではねぇか。おらのものはおめえのもの、おめえのものはおらのもの。末にゃひーふになるべぇと約束した仲ではねぇだか。そんな水臭せぇこと言ってはなんねぇ。そらおめえにくれてやるだよ |
お杉 | そうかい? 済まないねぇ、ありがと。それじゃ、今、下にね、お医者様から使いの人が来てるんだよ。さっそくこれ渡したいの |
角蔵 | おお、それがええ。おらここで待ってるから、すぐに行ってこう |
お杉 | そうかい、じゃあたし、行って来るから、待ってておくれよ 半ちゃん...うまくいったよ、十五円、持ってたよ...ふんだくってやったよ |
半次 | おれぁさぁ...襖越しに聞こえてきたからずっと聞いてたけどよ...えぇ、面白れぇ野郎だねぇ...「すえにゃひーふになる」ってやがったよ...あんな奴がいるのかねぇ |
お杉 | そうなんだよ、あんなやつの機嫌を取らなきゃならないってのもお前さんの懐を痛めたくないからだよ。 ねぇ、じゃ、お前さん、これに五円たしておくれかい? |
半次 | ああ、いいとも。じゃ、これ、五円。それに余計に二円あるから、これおとっつぁんにやって、帰りに何か食って帰れって、そう言ってやんなよ |
お杉 | まぁ...ありがと...(グスッ)ほんとに、ありがと、半ちゃんにはすっかり世話になっちゃって...それじゃね、これおとっつぁんに渡して、すぐにおとっつぁん帰しちまうから... |
半次 | おお、そうしねぇ。早い方がいいや...ああ、タバコ...タバコ置いてってくれ...ああ、ありがとよ。じゃ、早くな |
お杉 | あいよ、じゃ、しばらくまってて... あ、ちょいと、そこの子や、ご内所いってタバコを借りてきておくれ。いぇ、あたしの部屋のじゃいけないの。頼むよ、すぐにね... |
下働きの女中からタバコとキセルを受け取りますと、それを持ちまして階段の裏の薄暗い六畳間、襖を開けまして入りますってぇと、隅の方に行灯があります。そのわきに、年の頃なら三十過ぎ、色の浅黒い、鼻筋の通った、口元の締まった、それでいて目元の優しい苦みばしったまことにいい男。なんですか、じーっとうつむいております。
お杉 | 吉さん...待たせて済まなかったね...ごめんね... |
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吉次郎 | 誰だぃ...お杉かぃ...何を言ってんだよ、待つも待たねぇもねぇよ。おれの方こそムリなこと言って済まなかった。 どうだったぃ? できたかい? |
お杉 | そうなんだよ、やっとできたんだよ。いぇね、あたしも気をもんじゃってさ、だって、いざとなるとなかなか出来ないんだもの。でも、いまやっと二十円できたよ、それとね、余分に二円入ってるから、これで何か食べて、早く元気になってくれなきゃ、困るよ |
吉次郎 | そうか...済まねぇ、辛い勤めをしているところへまた苦労を掛けちまったが、他に頼るところが無いんで、こうなっちゃった。ありがとう、そいじゃ遠慮無く、こいつは借りとくよ。助かったぜ、こいつのお陰で眼が治るってやつだぜ。ほんとにありがとよ |
お杉 | んー、なんだね、この人は...夫婦の間じゃないか、水臭いこと言っちゃヤダよ。吉さんのためだったら苦労なんてないんだよ... それで、眼はどうなんだい? ずいぶんと悪いって、手紙には書いてあったけどさ、ちょいと見せてご覧なさいな... ...なんか...悪いようじゃないねぇ... |
吉次郎 | ...へ、へへっ...素人のおめえに分かるわけがねぇじゃねぇか。医者が言ってたよ、これが一番タチが悪いんだそうだ。パッと目に悪いのが知れるようなのはたかが知れてるんだそうだ。外は何ともねぇんだけどさ、中がずいぶんとやられてるんだそうだ |
お杉 | そうかねぇ...あたしが見た分にゃ何とも無いようだけど... なんて病なんだい? |
吉次郎 | これはな、な...内障眼...ってんだそうだ。これをほっぽっとくってぇと眼が潰れちまうから、早いところ薬を塗らなきゃならないってんだけどさ、何しろ二十円ってぇんだろぅ? 今のおれにとっちゃぁ二十円なんて金は気の遠くなるような金だ。さっきも言った通り、他に行く当てが無いんで、おめえにムリ言っちまったんだ。でもこれでおれは眼が治るってもんだ。恩に着るぜ。この通りだ。じゃ、おれはさっそく医者へ行って、薬を注してもらって... |
お杉 | な、何だい? もう帰っちゃうの? んー、何だね、今夜は泊ってっておくれよ |
吉次郎 | いやいや、だめでぇ、女のそばへ寄るのもいけねぇって、医者から言われてるんだよ。だから、今夜はおれは帰るよ |
お杉 | なんだよ、大丈夫だよ、一晩くらい。ねぇ、話がしたいことがたんとあるんだよ |
吉次郎 | いや、おれもそうなんだよ、話はいっぱいあるんだけどな、とにかく今日のところは勘弁してくれ、何しろ眼ってものは一刻を争うんだ。とにかく、これからおれは医者へ行って、ちゃんと薬を注してもらうから、だから、これで帰るから... |
お杉 | なんだよ、泊ってっておくれよぉ、んーっ、滅多に会えないんじゃないか、今夜は泊ってっておくれよ |
吉次郎 | そんな...そう、困らせんなよ。おれだって泊っていきたいのは山々だよ、だけど、眼を治さなきゃしょうがないじゃねぇか。せっかくおめえが金こしらえてくれたってのに、無駄になっちまう。だからさ、とにかくおれは今夜は帰るよ |
お杉 | んーっ、じゃ何かい? どうしても帰るって言うの? 何さ、あたしがせっかくお金こしらえたってのに、お金持ったらすぐ帰るだなんて... つまんないねぇ... イヤ...やだよ。帰るんだったら、そのお金返しとくれ。あたし、上げたくない |
吉次郎 | ......じゃ、何かい? おれが泊ってかないと...この銭、くれねぇってのかい? ああ、そうか...わかった。わかったよ。 せっかくだがな、これ、お返し申しましょ。邪魔したな!!! |
お杉 | ちょ...ちょっと...ど、どうしたの?? 怒ったの?? |
吉次郎 | ゥるせぇなッ!! ァたりめぇじゃねぇか!!! おめえくれぇ薄情なアマぁねぇや! よしんばおれが泊ってくったってなぁ、「眼と言うものは一刻を争うもの、早く帰って医者へ行って、薬を注してもらえ」ってぇのが人情じゃねぇのか!? それが当たり前ってもんじゃねかっ!!! それを、泊ってかねぇと銭くれねぇって言いやがる、そんな思いのかかった銭で眼なんぞ治せっこねぇ!! 下手すりゃ潰れちまわぁ |
お杉 | よ...ちょっと、吉さん...じょ、冗談で言ったんじゃないか |
吉次郎 | 冗談にもほどがあらぁ!! |
お杉 | ね、ご、ごめんなさい、悪かったから、このお金... |
吉次郎 | いらねぇや!! |
お杉 | そ、そんなこと言わないで、お願いだから... 後生だから、このお金持ってっておくれ...お願いだから...(グスッ)...お願いだから...怒っちゃいや...怒っちゃいや、怒っちゃいや... ね、お前さんに怒られた日にゃ、あたしゃ立つ瀬が無いよ...お願いだから、怒らないで... こ、このお金持ってっておくれ...お願いだから...吉さん... |
吉次郎 | ......おれぁ、別にお前に謝らせたり、お金貰ったりするほど値打ちのある男じゃないけどさ、目を患ってるだろ、だからムシャクシャ、ムシャクシャしてさ、つい心にも無いこと言っちまったんだよ。こっちこそ勘弁してくれ。じゃ、このお金...いいな。本当にこの金もらっておれぁ今から医者行っていいんだな? |
お杉 | 当たり前じゃないかね、さ、早く行っとくれ |
吉次郎 | そうか、ありがとよ。早けりゃ、早いほどいいってぇからさ、じゃ今からさっそく行ってくらぁ |
お杉 | ああ、そうしとくれ、じゃ、あたしが...ああっ、だめだよ、段になってるから、眼を患ってるんだからさ、あたしが手を取るよ。 いいかい、気をつけておくれよ、ちょいと待っとくれよ、いや、危ないんだよ、廊下にね、台やなんか出してあるから、躓いたりなんかしたらえらいことになるからね...ちょいと、うちの人が帰るんだよ。誰か、履き物出しとくれ。眼を患ってるんだからね、頼んだよ! 大丈夫かい? ちゃんと履かせてやっとくれよ。 何か忘れ物ないかい? 杖? 杖があるんだって、ああ、それかい? あのね、吉さん、何かあったら知らせとくれ、いいかい... あたしゃ心配でならないからね、何でもいいんだよ...お願いだよ。お金なくさないようにね... じゃ、気を付けて... |
ガラガラと木戸をくぐって吉次郎は店を出て行きます。惚れた男のことでございますから、女はトントントントンと階段を上りますってぇと、二階の手すりから身を乗り出すようにして男の後ろ姿を見送っております。吉次郎は杖を突きながらトボトボと二、三間先へ行きますてぇと、持っておりました白い杖をポーンと放り出してしまった。とたんに脇から人力車が出て参りまして、それに乗りますってぇと四谷の方へと走り去っていきました。
お杉 | あら...なんだねぇ...吉さん、車を待たせてあったんじゃないかね。うちの前で待たせておけばいいのに... あたしに無心に来たんで、気兼ねしたんだねぇ。あの人も焼きが回ったじゃないか... あの人にお金の苦労させちゃいけない、あたしがしっかり稼がなきゃ |
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タバコとキセルを忘れてきたことに気づいてトントーンと階段を降りてまいります。元の座敷に入ってみると、吉次郎の座っておりましたところに手紙が落ちている。
お杉 | あれ、なんだよ、こんなところに手紙が落っこちてるよ...吉さんかしら... 「吉次郎様前」...やっぱりだよ。もう間に合わないねぇ 「こふでより」あら、なんだよ、女からの手紙だよ...もう、心配だねぇ...はーい、すぐ行きますよ... なんて書いてあるんだろう...まあ、きれいな字じゃないかねぇ、へぇぇ...なになに... 一筆しめし参らせそろ 先夜はゆるゆるとおめもじいたし やまやまうれしく思い参らせそろ あら...女のそばへ寄るのも良くないなんて言っておきながら、こんな女に会ってるんだねぇ...んー、もう油断のならない...はーい、ただいま行きますよ そのおりお話いたしましたとおり わたくし兄の欲心から 田舎のお大尽にめかけに行け それがいやなら五十円の銭を出せとの無理難題 親方に相談いたしましたるところ三十円は整いたれど後金の二十円に事困り あなた様に相談いたしましたるところ 新宿の女郎にしてお杉とやらを 眼病と偽り おこしらえそうろうとの... 眼病と偽り!? この女のところへ持ってったんだ...どうも様子がおかしいと思ったんだよ...ないしょうがんだってやがる、畜生...ハイッ! 行きますよっ!!! うるさいってんだよ、こんちきしょうめ、こっちゃぁそれどころの騒ぎじゃないってんだ... なになに、 それが義理あいとあいなり お、お杉とやらをおかみさんにお持ち遊ばされるのではないかと そればかり心にかかりおり そうろう 寄る辺無きわたくしをゆめゆめお見捨てなさいませぬよう 神掛けて念じ上げたてまつりて あらあらめでたく かしこ 何がめでたいことがあるもんか! ちきしょう... ああ...吉さんこそはこんな事は無いと思ってたのに... |
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半次 | 何をやってやがんだろうねぇ、ったく女ってものはしょうがねぇなぁ...銭を渡してそのまんまスッと帰ってくりゃいいじゃねぇか。おしゃべりだからねぇ、またくだらねぇことをくっちゃべってやがんだろうなぁ (スパーッ)タバコばかり吸ってっから、口の中がいがらっぽくなっちゃった...ったく、何をしてんだろうねぇ...あ~ぁぁ...なんだよ、火鉢の引き出しに何か無理に押し込んである。なんだよ、引っかかっちゃって出てきやしねぇや... よいしょ... ありゃー、なんだい、こりゃ。紙屑ばかりだよ。へっ、辻占だのあぶり出しだの...ったく、女郎子供ってぇけど、まったくだね、どうも... あれ、なんだ、これ... お杉様前 吉印より ぷーっははははっ、吉印だってやがらぁ、いい男ぶりゃがって。ここに半ちゃんってぇ色男がいるってのによぉ。へっ、まぁ、こういう手紙がこなきゃぁいけねぇんだ。ひとつ読んでやろうじゃねぇか... ちょっと申し上げまいらせそろ あなた様には相変わらずの御全盛のこと 陰ながらお慶び申し上げ参らせそろ それに引き比べましてわたくしはこのたびの眼病にて打ち伏し参らせそろ へぇ、眼が悪いんでこられねぇってんだねぇ。いやに義理堅てぇ野郎だなぁ、わざわざ手紙までよこして... ...医者の申すには値二十円の薬を注さねば治らぬとのこと... 高い薬があるもんだねぇ... されどごぞんじのごとく不幸せ続きにてその金子用立てできず あなた様に相談いたせしところ 馴染み客なる建具屋半次... な、なんだよ...何でこんなところでおれの名前が出てくるんだ? 馴染み客なる建具屋半次...親子の縁切りの金と偽り... こ、この野郎に渡しゃがったんだ! 親父が来てたんじゃねぇンだ...ふざけやがって、あの野郎... なんだ、誰だ!!!? お杉か! こっち入れ! 入れよ! |
お杉 | なに、お前さん、そんなところ開けて、無闇やたらに引っ掻き回さないでおくれよ! 大事な物だって入ってるんだからね!! まったく、質が悪いんだからね!!! |
半次 | た、質が悪い!? この野郎、ここへ来い、ここへ! ここへ来いよ、ここへ、 ここへ座りやがれ! ったく...お、おう! 女郎は客を騙すのが商売だ。してみりゃぁおめえはすばらしい女郎だ、豪儀な女郎だよ、てめえは! まったくたいそうな女郎だよ! |
お杉 | なんだい、この人は! まったく人間、ムシの居所がいい時と悪い時があるんだよ、ったくポンポンポンポンお言いでないよ! 何だい!!? |
半次 | 何だいじゃねぇや! お、おめえ...色男のあるのは知ってんだ! |
お杉 | 色女のあるのは知ってんだょ |
半次 | へっ、こっちゃぁ七円語られた! |
お杉 | こっちは二十円語られた!! |
半次 | な...そ、その上、眼が悪いまで聞かされりゃぁ世話ねぇや!! |
お杉 | 眼なんか 悪くもなんともなかったんだ! |
半次 | 何を言ってやがんでぇ! 色男に金くれてやったんだろう! |
お杉 | 色女に金くれてやったんだろう! |
半次 | 何を...この野郎、人の真似ばっかりしてやがって、この野郎、これでもか、これでもか(ボカボカッ) |
お杉 | な、何をするんだい、ぶったね、年期の間はあたしの身体は店のものなんだよ |
半次 | 何を言ってやがる、この野郎(ボカボカッ) |
お杉 | きーっ、痛いじゃないか、この野郎!!! 殺すなら殺せーっ!!! |
半次 | あたりめえだ! 望みどおり、ぶっ殺してやらぁ!!!!!!! |
角蔵 | おーい、誰かいねぇか!!! おーいっ、おーいっ!! |
若い衆 | へぇっ、お呼びでございますか? |
角蔵 | お呼びでごぜぇますか、ではねぇ。こっちさこう、こっちさ...向かいではたかれてるのは、あれはお杉でねぇか? 大変な騒ぎでねぇか、なぜ気がつかねぇ。 聞いくところによると、色男に金を貰ったの貰わねぇのでお杉がはたかれてるでねぇか。早う行って言うてこい、あれはかかさまが具合が悪いから恵んでやったんだと、色でも恋いでもございませんと、すぐに行って止めてこい、早う、喜助... いや、あぁ、ちょっと待て... 喜助、そがいなこと言うたら、おらが色男だっちゅうことが、へへっ、ばれてしまうなぁ、喜助... |
引用元:「東西落語特選」
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/
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