芝浜
えー、昔から、「さんだら煩悩」ってことを言われておりまして、飲む、打つ、買うの、このみっつを気を付けていれば、世の中うまくやっていけるよ、と言っておりますが、なるほど、酒、博打、女、この三つは、人間を夢中にさせますな。あまり夢中になるってぇと、他のことが眼に入らない。ひとの意見なんてぇものは、とてもじゃないけど聞けません。夢中になる、それがために、ひとを殺めたりなんてことになっても参りますが。
たいてい男ってぇものは、この三つのうち一つは好きなものがあるもので、昔から男はしくじるってぇことがよくあったもので、気を付けなきゃならねぇってことをよく言ったものです。
まだ江戸と言っておりました時分に、魚屋で魚熊という男がおりました。魚屋と言ってもいわゆるぼてふり(棒手売)、天秤を肩にして魚を商って歩きます。まことに威勢のいい商売で、腹掛けに半股引、半纏の上から三尺を締めまして、素足でもって草鞋履き、豆絞りの手拭いで向ッ鉢巻をいたしまして、往来を飛ぶようにして商いをして歩いたんだそうで。
熊 | こんちゃーッ、魚熊でござんすッ! |
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客 | おう、熊公か!?何があんだ、今日は!? |
熊 | へいッ!メジのいいのがござんすよ! |
客 | そうか、かかぁが好きなんだ。刺身、二人前、頼むよ |
熊 | へっ、よろしゅうござんす! |
見ている目の前で刺身をこしらえていく、まことに手捌きがいい。
客 | いいねぇ!野郎の仕事っぷりを見てると、胸がすぅっとするよ!ねぇ!魚はうまいしよぅ!熊公の魚食ったら、他の魚屋のはくえねぇよ! |
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ってんで、たいそう評判がいい。ところが、この熊さんという人が、酒が大変に好きなんです。これが、のべつ飲んでいたいというやつで……魚屋のこってすから、朝が早い。その時分は日本橋に魚河岸があって、また芝の浜にも河岸がありました。いわゆる魚市場ですな。おもに、この芝の方ではってぇと小物を扱っていた。小魚。時期によってはマグロやなんかもあったようなんですがね。
で、熊公のところからは、どちらかってぇと日本橋よりも芝の方が近い。朝早く起きて、河岸で魚を仕入れて、ほうぼう商って歩いて、昼飯時分になるってぇと、飯屋に飛び込んでって、おまんまを食べる。ここですぐに飯を食べてしまえばいいんですけども、好きな人はってぇとそうはいかない。飯を食う前に一杯、きゅーーーっとやりたい。空きっ腹に一杯やるってぇとまことに美味いものですし、これまたよく効くんです。飯も美味く食える。ところがあとが困る。なんだかだるくなっちゃって、何をするのも嫌になっちゃう。
それでも一杯のうちは良かったんです。しばらくするってぇと、これが増えてくる。
「お姉さん、もう一杯おくれ!」
二杯飲む、これがいつしか三杯、四杯……しまいにゃ飯も食わないで酒ばかり飲んでおりまして、グズグズ、グズグズしている。するってぇと、表においてある飯台にお天道様がカーーーッと当たりまして、中にいる魚がこう………
今までの熊公でしたら、そんな魚は商やしないんですけれども、酒ってぇものは過ぎるってぇと、人を変えます。「えーぃ、これだって食えねぇこたぁねぇや、構わねぇだろう」ってんで、これをお得意先へもってく。
客 | えー?どうもおかしいよ、熊の持ってくる魚がよ!昨夜の刺身なんか、口へ入れるってぇと舌へピリッと来たよ。刺身に舌をつねられたよ。えぇ!?妙なものを持ってくるようになったなぁ、あんちきしょう! |
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熊 | こんちゃーっ!魚屋でござんすーっ! |
客 | お!?話してたら来たよ………何があるんだ!? |
熊 | えー……っと、な、なんでござんす、今日は、サ、サヨリがよござんすよ |
客 | へぇ……どれだ?……これか?これ、サヨリか?……へぇ?今までお前が持ってきてたサヨリと、だいぶ様子が違うな、えぇ?こりゃ、サヨリってぇガラじゃねえや。遅れた便りみてぇだ。えぇ?どうも、ここのところ、お前んところの魚、おかしいな |
熊 | えぇ?……どう、おかしいんでござんす? |
客 | 生臭ぇんだ、生臭ぇ! |
熊 | 生臭い?……ヘッヘッヘ、旦那ねぇ、魚が生臭いなぁ、こりゃしょうがねぇんですよ。 |
客 | 馬鹿なこと言うなぃ。魚ってぇのはな、はなは生臭いもんじゃねぇぞ。えぇ?だんだん時が経つってぇと生臭くなってくるんだ。どうしてだか分かるかい?魚はな、他のものに間違われたくねぇから、「私ゃ魚だよ』ってぇんで、一生懸命においを出すんだ。それで生臭くなるんだ。魚にそんな苦労を掛けて、申し訳ねぇと思わねぇか!?魚だけじゃねぇぞ、近頃、おめぇも臭ぇや!酒の臭いがプンプンしてるよ!そんな魚、いらねぇ、いらねぇよ! |
あっちのお得意、こっちのお得意、片っ端からしくじっちまう。自棄(ヤケ)だってんで飲む、飲むからなおいけなくなってくる。しまいにゃ、カミさんが苦労してこしらえた元手まで飲んじまう。近頃じゃ、もう商売に出掛けませんで、昼間っから家の中で酒くらってノソノソしている。暮れもだいぶ押し詰まってまいりまして、
カミさん | ちょいと……ちょいと、ねぇ、ちょいと起きとくれよ、お前さん……ちょいと、ねぇ、熊さん |
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熊 | う…うぇえ……ぁあ…な、なんだぃ……なに? |
カミさん | 「なに」じゃないよ、早く起きとくれよ!商売に行っとくれってんだよ! |
熊 | 商売ィ……商売…なぁ……商売、今日はもう、休みだ |
カミさん | 何を言ってんだよー、毎日同じこと言ってんじゃないか!ねぇ、起きとくれって言ってんだよ、ねぇ、ちょぃと!だめだよ、寝ちゃっちゃ、ちょいと、起きとくれよ、ねぇ、熊さん!……しょうがないねぇ、ねぇ、ちょいと!! |
熊 | うぁっ、ちくしょう!なにしゃがんだっ、てめぇ、布団剥ぎやがって! |
カミさん | だってお前さん、起きてくんないんだもの、早く商売に行っとくれよ |
熊 | …だ、だからよぅ、あ、明日から行くって、そう言ってるじゃないかよ |
カミさん | お前さん、明日っから、明日っからって、同じことばかり言ってるじゃないか。もう二十日っから商売休んでるじゃないか。うちにゃもう何もありゃしないじゃいなか、ねぇ、後生だから行っておくれよ。それにお前さん、昨夜なんて言った?「明日から商売に行くから、今夜は飲みたいだけ飲ませてくれ」って、あんなにお酒飲んだじゃないか。ね、頼むからさ、行っとくれよ! |
熊 | え……そんなこと、おれ、言ったの?……ほんとに言ったのかい?えぇ?……うーん、あぁ、でも、だめ、だめだぁ……酒、残っちゃった……これじゃ、とてもじゃないが、商売なんか行かれねぇから、ね!明日……いやいや、明日がいけなきゃ、すまねぇが、あと一刻(いっとき 約二時間)寝かしてくれ、な。そしたら酒がスッと抜けて、おれぁ、行けるから、商売によ、頼むから、あと一刻寝かしといて…… |
カミさん | ダメだよ、起きとくれよ。寝たらお前さん、起きないんだから。お酒だって、向うへ行くまでに抜けますよ。ね、もうおきちゃっておくれよ! |
熊 | チッ、薄情な野郎だなぁ……チッ……あ、ダメだダメだ!今日からいきなり商売ったって、そうはいかねぇよ。だって、おれ、もう半月ばかり休んじゃってるんだから。飯台がな、すっかり乾いちゃって、隙間だらけ、水が漏っちゃって使い物にならねぇ。ダメだ! |
カミさん | ふん、何を言ってるんだい、昨日今日魚屋の女房になったんじゃないよ!昨日のうちに板底に水を張っといたから、ピンとしちゃってさ、水なんか漏りゃしないよ |
熊 | あ……そう?……ふーん……あ、お前、包丁をな |
カミさん | 研いどいたよ |
熊 | 余計なことをしやがる、ホントに…… |
カミさん | お願いだから起きとくれよ、ね、ここに半纏、腹掛け、半股引ちゃんと揃えてありますからね。それから元手は腹掛けのどんぶりの中に入ってるから、煙草も。それから草鞋は向うに出してあるの。それから流しの桶の中にぬるま湯張ってあるから、顔洗ってちょうだい。今すぐにお茶入れるから。 |
熊 | ……よく手が回りやがるなぁ、あんちくしょう……わかったよ! |
不承不承立ち上がって、顔を洗って支度をいたします。お茶を飲んでおりますとカミさんは、表を開けて飯台を運び出して天秤を通している。
熊 | あぁ……やな商売だねぇ、まったくねぇ……ふぁっ、茶が熱いよ……えぇ?いや、いつもは熱いのがいいんだよ、いつもは熱いのが……ぬるいのがいいときもあるんだよ……あぁ、情けねぇなぁ、ほんとだよ、人がまだ寝ているうちからノコノコ、ノコノコ起きだして、冷てぇ思い、寒い思いをしてなぁ、それで大して儲からねぇんだからなぁ……ズズッ……こんな割にあわねぇ商売ったらねぇや! |
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カミさん | そんな愚痴なんかこぼさないでおくれよぉ |
熊 | いいじゃねぇか、愚痴くらい。愚痴こぼしてるってぇと、気が休まるんだよ……えぇ?何を言ってやがんでぇ……ズズッ……朝、いつまでも寝て、昼間ノソノソしてて、夜になってちょいと出かけてって、がばっと金が入ぇってくるような、そういう商売ねぇもんかなぁ……ズズッ |
カミさん | ねぇ、いつまでお茶飲んでんだよ、ねぇ、早くしておくれよぉ!落ち着いてる場合じゃないんだよ! |
熊 | うるせぇな、こんちくしょう!……行かねぇとは言ってねぇだろう、行くんだよ!……亭主が商売に行くんだ、機嫌よくだせ、機嫌よく……何を言ってやがんでぇ、グズグズ言うってえと、おれぁ、行かねえよ! |
カミさん | あ、ご、ごめんなさい、あたしが悪かったよ、だけどさ、遅くなっちゃうと、いいお魚が無くなっちゃうから。 |
熊 | へっ!何を言ってやがんでぇ、素人が!へへっ、冗談じゃないよ、おれぁ、他の魚屋とはわけが違うんだ。へっ、おれがちょっと顔を出しゃぁな、問屋の方でいい魚を出してくれるんだ。んなことを心配するねぇ!……あぁ、寒いねぇ。……なんでぇ、まだ表、真っ暗だ、早すぎゃしねぇか? |
カミさん | そんなことないよ、向うへいくまでに夜が明けるからさ、だから、早く行ってちょうだいよ! |
熊 | 分かったよ、じゃ、行ってくるよ、あと、頼んだよ |
カミさん | お願いします、ご苦労様、すいませんね、あっ、河岸で喧嘩なんかしないでちょうだいよ、お願いします! |
フラフラ、フラフラ、奴さんが天秤担いで出かけていく。その後ろ姿が見えなくなるまで、カミさん、見送っておりました。見えなくなるってぇと、布団を上げて、家の中の掃除をすっかりして、まだ早いからってんで、表の締りをしっかりしてから、神棚に手を合わせて、火鉢のところに座ってお茶を飲む。ほっとする、と、とたんに眠気が差す。そのまんま、火鉢に寄り掛かるようにして、寝てしまった……
熊 | (トントントントン)おい!(トントントントン)おい!開けてくれ、(トントントントン)おい! |
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カミさん | は……はい、……はい、どなた!? |
熊 | (トントントントン)おれだ、おれだ!早く、開けてくれ!!(トントントントン) |
カミさん | はい、お前さんかい!?…あぁ、寝ちゃってたねぇ……はい、いま開けるから、ちょいと待っとくれ……わっ、な、なに……どうしたの、お前さん……どうしたの!? |
熊 | お、表、見てみな、誰か、後をつけてきてねぇか?だ、誰かいやしねぇか?ちょっと見てみな |
カミさん | なに?……誰もいやしないけど |
熊 | 締めちゃいな、締めちゃいなよ!心張りかっとけ、心張り!……はぁっ、はぁっ……草鞋、そっちへかたしとけ……水、水一杯くれ……いいよ、そんな湯呑なんぞ、柄杓(ひしゃく)でこっち寄越せ……グィッ、グィッ……はぁっ、はぁっ…… |
カミさん | ちょいと、どうしたの、お前さん、喧嘩でもしたの? |
熊 | そうじゃねぇ!……てめえくらいそそっかしい女はねぇぞ。だからおれぁ、そう言ったじゃねぇか、こんなまっ暗で、まだ早いんじゃねぇかって。そしたらお前が、向う行くまでに夜が明けるってぇからよ、こっちゃぁその気で出かけてった。ところが芝の浜へ行ったって夜が明けやしねぇ。問屋は閉まってるし、おかしいなぁって思ってるうちに、お寺の鐘が鳴ったんだよ、聴いてたら、お前、一刻も早く、おれを起こしてんだよ!なぁ!癪にさわってな、おれぁよっぽど帰ってきてお前のこと蹴倒してやろうと思ったけどよ、蹴倒してまたすぐ戻ってこなきゃなんねぇからよ、おれぁ、我慢しちゃった。 まぁ、しょうがねぇからさ、浜へ出てってな、飯台ならべて天秤渡して、おれぁそれに腰を下ろしてた。そしてしばらくしてたら、ずーっと海の向こうから、こう、お天道様が上がってきたんだ。そりゃぁまことに綺麗なもんで、思わず知らず、おれぁ、こう、手ぇ合して拝んだよ。そして、煙草すいながら、なんて綺麗なもんだと思いながらぼんやりしてたら、なんか引きずり込まれるように、おれぁ眠くなってきたんだよ。これから商売に回るのに、こう眠くっちゃぁいけねぇ。顔でも洗やぁ目が覚めるだろう、と思ってな、おれぁ海ン中にザブザブ入ってって顔を洗って、出てこようと思うってぇと、おれの足になんか引っかかってやがんだ。なんだろうなって思って、おれぁ構わずそのまま上がってきたんだよ。でも、まだなんか引っかかってやがる。 見てみると、これが紐なんだよ、なんだろな、と思って何気なしに引っ張ったら、これが、先がずしっと重いんだ。これをたぐっていったら、革の財布が先についてんだ。 |
カミさん | へぇ……ふんふん! |
熊 | ねぇ!?持ってみるとズッシリ重いんだ。砂でも食らってやがんのかと思ってな、中をひょぃと見ると、金が入ってるんだよ…… |
カミさん | えぇっ? |
熊 | そいで、急いでおれぁ、そいつを腹掛けのどんぶりの中にしまって、天秤担いで駆け出したんだが、なんだか後ろからずーっと人が付いてくるような気がしてな、おれぁ芝の浜からずーっと駆け通しに駆けて、うちまで帰ってきたんだ……あぁ、くたびれたのなんのって |
カミさん | じゃ、なにかい、お前さん、その腹掛けのどんぶりの中に、その財布、持ってんの?? |
熊 | そうだよ、今、こん中に入ってんだよ |
カミさん | じゃ、お前さん、ちょっと出して見せてごらんよ |
熊 | ま、待ってろ、いま見せるから……なかなか湿ってやがっから……よっ……こ、これだ |
カミさん | まぁ……たいそう古いものらしいね |
熊 | おぅ、長いこと、海ん中に入ってたんだ。ちょっと雑巾かなんか、取ってくれ、ヌルついちゃってしょうがねぇんだよ……ちょっと待て、いま中見せるから……紐が濡れてやがっから、きしんじまって……ほら、これだ……おっ……おっ……おい、こんなに入ってるよ…… |
カミさん | まぁ……二分金(一両の半分)ばかりじゃないか! |
熊 | そ、そうだ…… |
カミさん | いくらあるの!?数えてごらん! |
熊 | わ、わかった、ちょっと待てよ……ひとひとひとよ、ふたよ…… |
カミさん | イワシ数えてんじゃないよ、この人は! |
熊 | いいから、待てよ…… ご、五十両あるぜ!どうでぇ、いまどき、こんだけの金を持ってるやつは、そこらにそういやしねぇぞ!へヘッ、おれがあんまり不幸せ続きなんで、神様があいつにもちょっと恵んでやろうってんで、この金をおれに授けてくれたんだ、なぁ!ありがてぇなぁ! |
カミさん | そうかねぇ……五十両……大金だよ……で、お前さん、その金、どうすんの? |
熊 | どうすんのって、お前、決まってるじゃねぇか。これから二人してオツななりしてよ、湯治場か何かへ行ってよ、うめぇもの食って酒飲んで、面白おかしく暮らそうじゃねぇか。お前にもさんざん苦労かけたからよ、これからいい思いさせるよ。へへへっ、おれぁもう、朝早く起きて、魚の買い出しなんか行かなくていいだ、へへっ、ざまぁ見やがれ! |
カミさん | ……だけど、お前さん……そのお金、拾ったんでしょ |
熊 | そうよ!あたりめぇだよ! |
カミさん | じゃあ……落とした人がいるでしょ…… |
熊 | そりそうだよ、落としたヤツがいるから、拾うヤツが出てくるんじゃねぇか。それがなんだい!? |
カミさん | だったら、拾ったお金……そのまんま使うってのは、ちょっと具合が悪くないかい? |
熊 | な、なにを!?……じゃ、なにか、お前、届けるってのか?ケッ、馬鹿なことを言うない!いいかい、これは往来で拾ったんじゃないよ、海ん中で拾ったんだ、海ん中で。これを持ってたヤツはな、時化(しけ)か何かで船がひっくり返っちゃって、どっかへ流されちゃって、もういやしないよ、えぇ!?で、この財布だけがずーーーーっと海の中へ潜ってっちゃって、そいで、潮の加減でもって打ち上げられてきたんでぇ。それをおれが拾ったんじゃねぇか。見てみねぇ!そのままうっちゃっといてみなよ、天下の通用金も海の底へ潜ってちゃうんだ。なぁ!?冗談じゃねぇよ、グズグズ言われてたまるかぃ!何を言ってやがんだ、本当に!えぇ!?お前がそんなこと言うんならいいよ、おれぁ、これ持ってって、どっかでもって使っちゃう…… |
カミさん | ちょ、ちょいとお待ちよ、そんないけないとは言ってないよ……うん、そうだねぇ。そりゃそうだ。じゃ、お前さん、あたしに、何か買ってくれるかい? |
熊 | あたりめぇだよ、おれ一人で使おうってんじゃねぇんだよ、お前だってそうだよ、着物でも、頭のものでも、好きなものを買いな! |
カミさん | まぁ、うれしいねぇ。じゃ、これから楽ができるね。じゃぁ、そのお金、あたしが預かっておこうか? |
熊 | そうだな、お前、これ預かっといてくれ |
カミさん | じゃ、あたしが大事に預かっておくから |
熊 | 分からねぇようにしまっとけよ、いいな。近所にしゃべるんじゃねえぞ、「あそこに払わなきゃならないから、ちょいと用立ててくれ」とか借金に来やがるからな |
カミさん | しゃべりゃしないよ。まぁ、あたしもうれしい。お前さん、疲れたろう、寝たらどうだい? |
熊 | 寝る?えぇ?おれがか……冗談じゃねぇや、おれぁ嬉しくてとてもじゃないが、寝られやしねぇやな! |
カミさん | えぇ?だってお前さん、さっきあんなに眠い、眠いって言ってたじゃないか、大丈夫だよ、寝られるよ、疲れてるんだからさ、ね、もうこのお金があるんだから、心配しないで寝たらいいじゃないか。あ、そうそう、お酒飲んだらいいじゃないか、そしたら寝られるよ |
熊 | そんなこと言ったって、まだ酒屋もしまってるだろう |
カミさん | 昨夜の飲み残しがあるんだよ |
熊 | えぇ?おれが、飲み残した?しょうがねぇなぁ、以前にゃぁ、ひとっ垂らしだって飲み残したこたぁなかったが……そうか、じゃあ、それ、もらおう! |
昨夜の飲み残しを飲むってえと、前の晩の酔いといっしょになって、一気に酔いが回って、そのまんま、そこにグーッてんで、寝てしまう
カミさん | ちょいと! ちょいと、何をしてんだよ!もう、この人は!!! ちょいと、熊さん!! なにしてんの、起きなさいっ!! |
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熊 | う、うぁっ……驚いたぁ……な、な、なんだ!!?どしたんだぃ、なんだぃ!? |
カミさん | なんだじゃないよ、もうしょうがないねぇ、こんなにお天道様が上がっちゃってんじゃないか、ぼんやりしてちゃだめだよ!早く河岸ぃ行っとくれ、商売に行くんだよ!! |
熊 | 商売ぃ!?……ヘッ、何を言ってやがんでぇ。誰が商売なんか行くもんか、おう、ちょっと手拭い取ってくれ、おれぁ、湯に行ってくるから |
てんで、湯に行きまして、帰りに友達を五、六人引き連れてまいりまして | |
熊 | おう、みんな、こっちぃ上がってくれ、構わねぇから上がってくれ、上がってくれ! |
友達 | おう、いいのかい、あっ、あねさん、どうも、ご無沙汰してまして、お邪魔します、こんちゃ!……こんちゃ……こんちは……こんちわ…… |
熊 | いやー、どうもな、いやぁ、お前たちにこうやって来てもらったのはな、いままでずいぶんと世話になってるのに何のお返しもできねぇ、おれぁ肩身の狭い思いをしてたんだよ。ここらでもって一つお返しをしなきゃならいけねぇんだな。今日はひとつ、思い切って、お前たちに飲ませるから、ひとつ好きなだけ酒飲んでくれ。 |
友達 | へぇ、飲ませてくれるんだってさ、うれしいね。なにか、あったのかい? |
熊 | うん、ちょっとめでてぇことがな |
友達 | 何だい? |
熊 | い、いや、それはちょっと言いにくいんだ。まぁ、いいじゃねぇか。ちょっと縁起のいいことだったんだ。 ……あっ、酒屋さん、ご苦労さん!あっ、誰か取ってやって……あぁ、ちょっと待て待て、さっきね、帰りに仕出し屋の前を通ったら起きてたよ。なんか見繕って持ってくるようにそう言いな!いやいや、払いはしんぺぇすんな、でぇじょうぶだよ!それからな、みんな、後で腹へっちゃぁいけねぇからな、うなぎ屋がそろそろ起きはじめるよ、そしたらな、うな重を十ばかり……いやいや、いいんだよ、ギリギリってのは良くないよ、なんでも十で構わないから……払いはしんぺぇすんなって!そう言っとけ、大丈夫だよ! みんな、やってくれ、やってくれ。おぅ、おっかあ、なにやってんだよ、早くみんなに湯呑配んな!……ほんとにしょうがねぇなぁ。おぅ、みんな行きわたったかい。それじゃ、おれも……いやぁ、心配すんな、心配すんな。みんな、行ったね、そいじゃ、始めようじゃないか! |
友達 | えっ、そうすか、じゃぁ、ひとつ……へへっ、なんか、悪いような気がすんな、へへっ。 |
熊 | なにが? |
友達 | へへっ、なんだか分からねぇ。何かいいことがある? |
熊 | い、いいじゃねぇか、めでてぇってこたぁ、めでてくねぇよりぁ、めでてぇんだ、なぁ!こんなにめでてぇこたぁねぇやなぁ、ああ、めでてぇ! |
って、なんだかわけが分からねぇ。好きな連中ですから、こんなことはめったにございませんから、ここぞとばかりに、みんなでもってガブガブ、ガブガブやる。熊公のやつはうわーっと酔いが回ったもんですからそこでもって肘を枕に寝込んでしまう。やがてみんなは帰ってしまう。
カミさん | ちょいと……ちょいと……ちょいと、熊さん…… |
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熊 | う……あ……あぁ……っと、わぁった……起きるよ、起きるよ……う、うぅぅぅーっ……あぁ、よく飲んだなぁ、さっきは…… ふあぁーっ、まだ酔っぱらってやがる、しょうがねぇなぁ、どうもな。へっへっへっ、まぁいいや、酒飲んで酔うのはあたりめぇだ、なぁ!……あぁ、なんでぇ、もう真っ暗になっちまった……おぅ、水一杯くれ、水……あぁ、ありがとよ、グィッ、グィッ……ふぁぁ…… おう、どうしたよ、友達は……ああ、帰った?喜んでたかい?ああ、そうか。あぁ、いいんだよ!みんなが喜んでくれればそれでいいんだ、なぁ!へっへっへっ、おれがこんなことしたんで、みんな驚いてやがったろう。ざまぁ見やがれってんだ、なぁ! |
カミさん | ねぇ……みんなで、めでたい、めでたいってお酒飲んでたけど……なにか、めでたいことでも、あんの? |
熊 | あるのって……あるじゃねぇか…… |
カミさん | そう?……そりゃめでたいことがあるってのは結構なんだけどさ、あんなにいろんなもの取っちゃって、あの払い、どうすんの? |
熊 | どうって……こんなもん、あの中から、ちょいちょいと払っときゃいいじゃねぇか |
カミさん | 何の中から!? |
熊 | 何の中って……ほら、あれだよ |
カミさん | あれって? |
熊 | 分かんねぇなぁ、おめぇも……おめぇに今朝、預けたろ? |
カミさん | 何を? |
熊 | 何をじゃないよ……ほら…… |
カミさん | なに?……誰もいやしないけど |
熊 | だから、お前に五十両、預けたろ? |
カミさん | あたしに!?……な、なにを言ってんの、嫌だよ、そんな変なこと言っちゃあ。あたし、五十両なんてお金、預かりゃしないよ |
熊 | て…てめぇ、むちゃ言いやがると、承知しねぇぞ!なぁ、ネコババするならちょっとにしろ、なぁ!?そっくりやるな、そっくり! |
カミさん | 何を言ってるんだよぉ |
熊 | おめぇに預けたじゃねぇかよ! |
カミさん | あたし、そんなもの預かんないよ! |
熊 | あず… |
カミさん | 預からんないよ!だいいち、お前さん、五十両なんてお金、どうしたの? |
熊 | どうしたって、今朝!……今朝、おれが芝の浜でひろってきたじゃねぇかよ |
カミさん | お前さんが……? いつ? |
熊 | 今朝だよ |
カミさん | 今朝……?芝の浜へ、お前さん、行ったの? |
熊 | 行ったのって、お前に起こされて、おれぁ行ったじゃねぇか! |
カミさん | な、なにを言ってるんだよ、この人は……行きゃあしないよ! |
熊 | 行ったよ! |
カミさん | 行きゃあしないよ!! なにを言ってんの?ゆうべ、お前さんが、「明日っから商売に行く」って言うんで、あたしゃその気になって、飯台やなにかの支度をして、朝早く、お前さんのことを起こしたんだよ、そしたらお前さん、「あいよ、あいよ」ってそう言ってたんだよ。だからあたしゃ、起きてくれるなって思ったから、洗濯したり洗い物したり、いろんなことをしてたんだよ。そして、ハッと気が付くと、もう明るくなってるじゃない。ああ、こりゃいけないって思って、それでもう一度、あたしゃお前さんのことを慌てて起こしたんだよ。で、起きたら商売行っとくれって言ったら、お前さん、「誰が商売なんか行くもんか、ちょっと手拭い取ってくれ」って言って、湯へ行っちゃったろ!えぇ?で、帰りに友達をおおぜい引っ張ってきたじゃないか。それで、みんなでめでたい、めでたいってお酒飲んでたろ、それでお前さん、酔っぱらって寝ちゃったじゃないか。それで、今、あたし、起こしたんだよ。 ……いつ、芝の浜へ行ったの? |
熊 | …………い、いやぁ、……お、お前はどうしてそう、ものが分からねぇ。お前に今朝起こされて |
カミさん | 湯に行ったんでしょ!? |
熊 | そ……そりゃぁ……お、おれぁ、湯には行ったよ |
カミさん | で、帰りに友達引っ張ってきたでしょ |
熊 | 引っ張ってきたよ……で、みんなと飲んださ……で、ちょっと寝て……で、いま、おめぇが起こした…のか? |
カミさん | そうだよ |
熊 | ……おか…しいなぁ……いやいや、そうじゃねぇんだよ、あのなぁ、おめぇに今朝起こされて |
カミさん | 湯に行ったんでしょ!? |
熊 | ……そ、そのあと、そのあとだ……おめぇに起こされて……おれは……湯に……行ったなぁ……んで……おかしいなぁ。あのなぁ、おれ……起こされて、ちゃんと芝の…… |
カミさん | だから、どうしてこうわかんないんだろうね、この人は! ね、あたしはお前さんを起こしたの、起こしたけど起きやしないの、で、あたしがまた慌てて起こしたの。起こしたら、お前さんはつーっと湯へ行っちゃって、友達引っ張ってきてみんなで飲んで、また酔っぱらって寝ちゃって、で、今起こしたの。だから、行ってないでしょ。 |
熊 | おかしいなぁ……でも、おれぁ、確かに行ったなぁ |
カミさん | 気味の悪いこと言っちゃやだよ!えぇ?あたしゃずっと起きてたんだから。お前さん、ずっとそこに寝っぱなしだったんだから!……いつ行ったの!? |
熊 | ……じゃぁ……おれは……なんだよ…… |
カミさん | お前さん、夢でもみたね! |
熊 | 夢!?……ありゃ、夢か? |
カミさん | そうだよ!そういや、なんだか知らないけどね、うなされたり、寝言いったりしてたよ |
熊 | えぇ? |
カミさん | 夢みたんだねぇ。普段から働きもしないで、お金ばっか欲しいなんて言ってるから、そんな夢見るんだよ!金比羅様のお賽銭けちっては飲んでるんだろう?だから罰があたったんだよ!もう、情けないねぇ、そんな夢見てさ! |
熊 | 待ってくれよ……じゃぁ、財布拾ったのは夢で、酒飲んだのはほんとか? |
カミさん | そうだよ! |
熊 | 割に合わねぇ夢みちゃったなぁ!! |
カミさん | お酒ばっかり飲んでるから、お前さん、頭がおかしくなっちゃったんだよ!なんだかさっぱり分かんなくなっちゃってるんだよ、困ったねぇ、どうするんだい、あの払い?えぇ?どうすんだよ!? |
熊 | ……そうか………分かった……おれぁ、初めて、目が覚めたよ……そこまで、おれぁ、馬鹿になってるとは思わなかった。すまねぇ、このとおりだ、勘弁してくれ! |
カミさん | 勘弁してくれって、謝られたってしょうがないけどさ……ねぇ?どうすんの、あの払い? |
熊 | いや、だから、おれ、もう酒、止めるよ。おめぇに誓うよ、酒、断っちゃう。そして、明日っから本当に一生懸命働くから。だから、あの払いだけは、伯父さんところ行って借りてきて、なんとか払っといてくれ、頼む、このとおりだ! |
カミさん | まぁねぇ……伯父さんとこ行ったら、また嫌な顔されるだろうけど……ほんとうにお前さん、商売に精出してくれるかい? |
熊 | あぁ、ほんとうだ、うそじゃねぇ、この通りだ! |
カミさん | ウソじゃなきゃいいよ。何とかするから、いいかい!?その代り、お酒やめて、働いとくれよ!? |
熊 | わかった! |
これをきっかけに、熊公、ぴたりと酒をやめて、一生懸命に商売に精を出した。するってぇと、もともと目が利く。包丁持たせりゃ実に手捌きがいい。河岸へいっても人気があります。
問屋 | おう、どうしたぃっ! |
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熊 | あっ、どうも、ここんところ、無沙汰ぁしちゃって |
問屋 | いい魚あるぞっ!持ってけっ! |
と、いい魚を安く売ってくれる。これをお得意先へ持ってく。今までしくじってたところですが、我慢して「すいません!」って行ってみる。江戸っ子のことですから、
客 | 分かったよ!魚次第だ、置いてってみな! |
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置いてった魚を食べてみると、実に美味い。安くて美味い。あぁ、やっぱり魚熊に限るってんで、逃げてったお得意が帰ってくる。それだけじゃない、お得意がまたお得意を増やしてくれる。実に毎日が忙しい。無我夢中で働いて、ちょうど三年目の大みそかでございました。
熊 | おう!いま帰ったよ!! |
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カミさん | あ、お帰りなさい……どうだった?混んでたろ |
熊 | ああ、まるで芋を洗うような騒ぎだったよ……あ、手拭い、そっちやっといてくんな |
カミさん | まぁ、だからね、あたしゃそう思ったんだよ、昼間のうちに湯に行ってくれりゃいいと思ったのに、お前さん、お得意回ったろ。まぁねぇ、大晦日くらいねぇ、商売休んでもいいって、あたしゃ思ってたんだよ |
熊 | なぁに言ってやがんでぇ、馬鹿なことを言うねぇ!そうはいかねぇよ。えぇ? 正月んなってみねぇ。みんなおせち料理でもって口が飽きちまうんだよ。魚でも食いたいなと思っても、休みだろ。そんな不自由な思いをお得意にさせちゃあ申し訳ねぇから、おれぁ、昼間のうちにまわっちまったんだよ。湯なんざどうだって構わねぇんだよ。あ、お前も、もうしばらく経ったら行った方がいいよ。 |
カミさん | もうちょっとしたら行くよ……さあ、お上がり |
熊 | おっ、ありがと……ズスズッ……おっ?なんだい、こりゃ、えらくしょっぺぇなぁ |
カミさん | 何を言ってるんだい?福茶だよ |
熊 | ああ!福茶か……福茶の味なんぞ、忘れちゃった。へへっ、たまに飲むとうめぇもんだな。のべつじゃ困るよ、へへっ……ズズッ……ふぅ……あれっ、だめだよ、まだ締りしちゃ、まだ勘定取りに来んだろ? |
カミさん | なにを言ってんだい、もうとうに済ませてあるよ。貸してるところはありゃこそ、借りなんざありゃしないよ。 |
熊 | 無いの??……なんだよ、大晦日じゃねぇようだね、どうも……へへっ ……えぇ?あ、あぁ、そうかそうか!いやぁ、気が付かなかった。いやね、へぇってきたときに、なんか様子が違うからね、いやにうちン中が明るくなってるからよ、えぇ?畳換えたろ!? |
カミさん | そうなんだよ、お前さんに断りもなく、勝手にやっちゃったんだけどね、親方に話をしたら、大晦日なら、なんとか間に合うって言うからお願いしといたんだよ、そしたらさ、いまお前さんが湯に行ってる間に、若い衆たちがすっかり入れ替えてくれたの。いけなかったかい? |
熊 | いやぁ、そんなこたぁねぇや!いやいや、初春を迎えるんだ、こうやって畳を新しくした方がいいよ。あぁ、畳の新しいのと、女房……い、いゃ、女房は古い方がいいけれど、 |
カミさん | 悪かったね、古くて |
熊 | いや、そんなことたぁねぇよ……ズズッ……あぁ、こりゃぁもういいよ。ごちそうさん。 しかし、考えてみると、三年前の大晦日、思い出しただけでおれぁ、ゾッとするね。へへっ、うちの中、なんにもねぇ。にっちもさっちもいかねぇでよ、昼間っから勘定とりに来やがって…おれぁいちいち顔なんか合してられねぇから、戸棚ン中へ隠れてるってぇと、お前が一人で言い訳してたな。 「いま伯父さんのうちへいって都合してますから、夜明けまでにはなんとかなりましょう」ってんで、片っ端から言い訳してた、お前もなかなかやったよ。えぇ? 一番終いに来たのが米屋の番頭だ。米屋の番頭に言い訳して、お前さん、もう大丈夫だよ、と言うからすっと出る、とたんにあの野郎、矢立忘れて取りに戻って来やがった。もう隠れる間がねぇんだよ。おれぁどうしようって思ってたら、おめぇが、そばにあった大きな風呂敷スッと頭から被せてくれたろ、おれぁ小ちゃくなってじーっとしてたらな、あの野郎が帰り際に「おかみさん、風呂敷包みが震えてますよ」って言いやがって、へっへっへっ……粋な番頭だったねぇ、あの野郎も…… あのころに比べてみりゃぁ、今は大名だ |
カミさん | ほんとだよ……これも、お前さんがお酒をやめて、一生懸命稼いでくれたおかげ。ねぇ。本当にありがとうございます! |
熊 | おぅおぅ!止せよ、えぇ?礼なんぞ言うなぃ、照れるじゃねぇか!亭主が稼ぐのはあたりめぇだよ。…… いや、な、若ぇ時分にゃな、誰でもそうだよ。むやみと銭が使いてぇんだ。金が使いてぇ。ところが、働くのは嫌だってぇやつだ。それじゃだめなんだ。今になっておれぁ、やっと分かってきたよ。だからな。河岸へ行って、若いやつがノソノソしてやがったら、意見してやるんだ。だめだぞ、稼いでりゃ間違いねぇんだ、商売してれば、必ず銭は入ってくるんだぞって。おれが意見してやるとね、おれの以前を知ってるやつなんか、目を丸くして見てるよ、へっへっへっ…… いや、しかしね、つくづくそう思うよ、働いてりゃ間違いねえ、商売してれば間違いはねぇ。人間てぇものは、働かなきゃならねぇもんだって、おれぁつくづく思うよ。 |
カミさん | そう……本心、そう思う?…… ねえ、お前さんに、あたし、見せたいものがあるの |
熊 | え?なんだよ。あ、晴れ着なんかだったらいいよ、おれぁ見ても分からねぇから。え?な、なんだよ、そんなところ開けて、何ひっかきまわしてんだよ。よしなよ、ホコリが出たらどうすんだよ、きれいに掃除してあるじゃねぇか。明日は箒は持てないんだよ、何をしてんだよ!? |
カミさん | いいじゃないか……ちょっと見てもらいたいものがあるんだよ。 ……お前さん、これ、見覚え無い? |
熊 | なんだい、それ……汚い革財布だなぁ……よほど古いもんらしいが…… お?あ、ちょっと見たことがある気がするなぁ…… |
カミさん | ちょっと持って見てごらんよ |
熊 | ふん……重いねぇ。金が入ってんのか?……いくら入ってんだよ? |
カミさん | 思い出さない?……二分金でさぁ……五十両、入ってんだよ |
熊 | 二分金で?……五十両??……女は恐ろしいねぇ、わずかの間に、これだけ貯めやがったのかよ!? |
カミさん | なにを言ってるんだよ?あたしが貯めたんじゃないんだよ、思い出さないかねぇ?ほら、三年前に、お前さんが、芝の浜で拾ってきた……財布だよ |
熊 | さ……あっ……あっ、そうだ……だって、おめぇ、あれは、夢じゃ |
カミさん | 夢だって言って、あたしが騙したの |
熊 | そうか!やっぱり……そうじゃねぇかと思ったんだ!あんなはっきりした夢はねぇもの!!おめぇにあんとき、夢だって言われて、どんな情けねぇ思いをしたか!!なんだって、人のことをそんなこと言って騙しやがった!!? |
カミさん | ま、ま、まぁ、ちょっと待っておくれよ。そりゃぁ、お前さんも、腹も立つだろうけど……あたしの話を聞いとくれ。そのあとで、あたしのことを、ぶつなと、けるなと、好きなようにしておくれよ。 いや、実はね、あの苦しいさなかに、お前さんがそのお金を持って帰ったとき、あたしだって本当は喜んだよ。ああ、これでほうぼうの払いができる、これで楽になれる、と思ったけれども、拾ったお金じゃないか、届けないで使ってごらん、どんな御咎めを受けるか分からないじゃないか。 それからあたしが、お前さんにそのお金どうするの、って聞いたら、お前さん、二人でおつな成りをして、湯治場へでも行って、美味しい物を食べて、お酒を飲んで、楽しく暮らすんだ、もう商売なんか、しなくていいんだって、こう言ったじゃないか。もしそんな派手なことをしてごらんな。世間の口はうるさいよ、ねぇ。 「近頃、熊さんのところでは、たいそう羽振りが良くなった。あれはおかしい」 ってことが人から人へ伝わってって、もし町方の耳にでも入ってごらんなね、お前さん、お役人に呼ばれるよ。そこでなにか聞かれれば、お前さん、隠しおおせるものじゃないさ。たとえそれが、海ん中で拾ったものでも、許されるもんじゃない。もしお前さんが、真っ暗なところへ放り込まれたら、あたしゃどうしよう、と思ってね。 なにしろお前さんが寝てくんなきゃ、あたしゃ考えもつかないから、あんときあたしゃ、とにかくお前さんを寝かしたんだよ。それでうまいことお前さんが寝てくれたから、あたしゃ大家さんのとろこに飛んでいったの。そしたら、大家さんが、 「とんでもないこった、一文たりとも手をつけたらただじゃすまない。おれがお上に届けてやるから、お前はとにかく夢だ、夢だといってなんとか騙しなさい」 ってこう言ったんで、……なんとかあたしゃ、一生懸命、夢だ、夢だって、押し通したんだよ……そしたら、お前さんね、夢だなって、思ってくれたじゃないか…… それからお前さん、ガラッと人が変わって、お酒も止めて一生懸命働きだしてくれたろ…… それからちょうど一年たったときだったよ。落とし主が現れないからって、それがお上から下がって来たの。あたしゃもう、うれしくってね、よっぽどお前さんに見せようと思ったけどね……せっかく今、こうやってお酒をやめて一生懸命働いてるのに、そのお金をみるとたんに、もとに戻っちゃなんにもならないと思うから、あたし、見せたいのを我慢して、今まで隠してたんですよ。 だけど、いま話を聞いて、「人間ってものは働かなきゃいけない、つくづくそう思う」って言うのを聞いて、ああ、もう見せても大丈夫だって思って、あたし、それ持ってきて、お前さんにみてもらったんだよ。 そりゃ、連れ添う女房に騙されて、お前さんも悔しいでしょ、腹が立つでしょ。本当に、構いませんから、あたしのこと、ぶつなり、蹴るなり、好きなようにしてちょうだい!でも、そのあとで、どうかきっと、許してください、お願いします、熊さん、このとおりですから! |
熊 | …………御手を、御上げなすって…… おめぇのことをぶつ?冗談言っちゃいけねぇよ。とんでもねぇ話だよ、おれがそんなことしてみな、おれの腕が曲がっちまうよ。 えぇ?いやぁ、すまなかった、ありがとう!いやぁ、おめぇの言う通りだよ、いゃ、五十両といやぁ大金にゃちげぇねぇけれども、端からなし崩しに使ってけば、すぐに無くなっちまうよ。もとの木阿弥だ。なぁ。 そんなこたぁどうでも構わないけどよ、いま、お前が言ったみたいに、おれが羽振りよくしてれば、必ず周りでもってなんだかんだ言い始めらぁ。おれが番所にしょっ引かれてって、みんなで寄ってたかってひっぱたかれりゃ、どうしたって、拾いましたってことは言うよ、えぇ?そうすりゃ、おれは、暗いところどころの騒ぎじゃねぇや。へたすりゃ、首が飛んじまう、なぁ。うまく行ったって遠島だ。ごくお情けをいただいたところで、寄場送りだなぁ。そうなりゃ、もう帰ってこられねぇや。 よっぽど運が良くて帰ってきたところで、腕に墨が入ってりゃ、世間の人がまともに扱っちゃくれねぇよ。そうなりゃ、もう、なんか悪いことしなきゃなんねぇ、こんど捕まりゃ、もうだめだ。 いや、おれにゃそこまでの度胸はねえからな、そうなりゃ、菰でも被って、人様の門口に立つくらいが関の山だよ。どっちにしろ、野垂れ死にだ、なぁ。 よく、騙してくれた、ありがとう。ほんっとうに、ありがとうよ……グズッ……おめぇみてぇな女房がいて、おれぁ、助かった、ありがとう、ありがとうよ……ああ、女房大明神様! |
カミさん | 拝んじゃ、やだよ!……じゃぁ、許しておくれかい? |
熊 | あたりめぇじゃねぇか、こっちで拝んでるじゃねぇか。許すも許さねえもねぇや、ほんとにありがとうよ! |
カミさん | ああ、良かった。胸のつかえがスーッと取れたよ。早くお前さんにこの話をしたくて、それを見せたくてさ。……さ、そのお金、お前さんのものなんだから、好きなようにつかっていいんだよ |
熊 | これか?へっ、冗談言っちゃいけねぇ、これはな、おれとお前と、二人のもんだ、なぁ。お前、預かって……そうだ!年が明けて、陽気が良くなったら、休みを取って、本当に湯治場へ二人で行こうじゃないか。 |
カミさん | あら、ほんとうに!?あたし、行ったことない |
熊 | おれだって行ったこと無いんだよ、だから、その時のために、大事にしまっとけよ、いや、どこだって構わないよ、しっかりしまっとけ、いいかい?へへっ、ありがてぇなぁ…… |
カミさん | ねぇ……お前さん、一杯やらないかい |
熊 | え? |
カミさん | 一杯さぁ…… |
熊 | 一杯……って、なに? |
カミさん | お酒だよ! |
熊 | 酒?……酒は、お前に約束したじゃねぇか、酒は断つって |
カミさん | いいよ、あたしが許すよ。明日は元日だろ、今夜は大晦日、ねぇ?お前さんが今まで一生懸命働いてきてくれたんだから、ね、お疲れ様、ね、飲んだらどう? |
熊 | ……ふ、フフ……ほ……へへ、ほんとにいいのか |
カミさん | いいんだよ! |
熊 | だけどさぁ、おれ、今までこうして止めて……でも、お前がいいって言うんなら……飲もうかな |
カミさん | お飲みよ! |
熊 | でも、酒、あんのか? |
カミさん | このことを話したら、そのあとでお前さんに、機嫌直しに飲んでもらおうと思って、あたし、買ってあるんだよ |
熊 | なるほどね、やっぱり女房は古くなきゃいけねぇや、よく気が利くじゃねぇか!へへっ、いやいや、いちいち妙な支度なんかするこたぁねぇよ、燗なんかするこたあねぇ。おれぁさっき湯で身体よーくあったまってきた。まだ身体が火照ってる。冷たいやつできゅーっとやりたいから。なんでもいい、なんでも、この湯呑でいいや、ここへ注いでくれ、ここへ…… へへっ……い、いいんだね、ほんとに……おれが飲ませてくれって言ったんじゃないよ……ああ、いい音だねぇ……ドクドクドクドク……へへっ、得だ、得だって言ってやがら、へへっ、めでたいねぇ…… おおっ、と!おい、乱暴にするなぃ!一滴たりとももったいねぇや!……へへっ、へぇー……い、いいんだね、へへっ、唾が、唾が溜まってきちゃったよ、へへっ。この色!この色だよ!えぇ?……あぁ、いい匂いだなぁ……しばらく、この匂い、嗅がなかった!へへっ、おい!おれはな、もう生涯、おめぇと付き合わないと思ってたんだ。また付き合うことになったぜ。うちのかかぁが、いいとよ、へへっ……よろしく頼むよ…… 「こちらこそ」っつってるよ、ハハハハッ…… じゃ、いいんだね、じゃ、いただくよ……ああ、ありがてぇ…… おっ、除夜の鐘をうち始めた、まもなく年が明けるよ。いいねぇ、酒を飲みながら、除夜の鐘が聞けるなんて、おれぁ考ぇてもみなかった、たまんねぇなぁ……へっへっへっ……ほんとに大名だ…… |
カミさん | え?……どうしたの? |
熊 | おれ……やっぱり止すよ…… |
カミさん | どうしてさ!? |
熊 | また夢になるといけねぇ |
引用元:「東西落語特選」
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/
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