軍神とは武勲を立てて戦死した将兵を、軍人の手本としてたたえた言葉です。
教育により国家のために殉ずることが最高の美徳であるとされていた時代に戦争で戦って殉職した21名の軍神と言われる英雄を紹介します。
広瀬武夫中佐
日露戦争中の旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸を指揮していた海軍少佐(戦死後に海軍中佐)広瀬武夫は、敵弾飛び来る中で行方不明となった部下の海軍一等兵曹(戦死後に海軍兵曹長)杉野孫七を探して退避が遅れ、ロシア海軍の砲弾の直撃を受けて戦死した。
決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず部下の生命を案じて戦死を遂げたことから、歿後すぐに軍神とされた。
橘周太中佐
日本の陸軍軍人。日露戦争における遼陽の戦いで戦死し、以後軍神として尊崇される。官位は陸軍歩兵中佐正六位勲四等功四級。
日露戦争中の遼陽会戦において、歩兵第34連隊第1大隊長であった陸軍少佐(戦死後に陸軍中佐)橘周太は、首山堡攻略に当り最前線で指揮を執り全身に傷を負いながら、一歩も引くことなく壮烈な戦死を遂げた。命を賭して首山堡攻略に努めたとされている。彼の戦死もまた『橘中佐』という唱歌に歌われた。
佐久間勉大尉
1910年(明治43年)4月15日、山口県新湊沖にて第六潜水艇がガソリン潜航実験の半潜航訓練中に沈没、艦長の佐久間勉大尉以下14名全員が殉職した。佐久間艇長は艇内にて最期まで冷静かつ的確な指示を行った結果、混乱が起こることは無くほぼ全員が持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた者も潜水艇の修繕にあたっていた。佐久間自身はガスが充満し死期の迫る中、39ページにも及ぶ遺書を残しており、その中で明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、事故原因の分析を記していた。
爆弾三勇士
1932年に第一次上海事変で敵陣を突破して自爆し、突撃路を開いた英雄とされる。肉弾三勇士とも言われた。
第一次上海事変時、国民革命軍第19路軍が上海郊外に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した独立工兵第18大隊(久留米)の3名の一等兵(戦死後に伍長)のことを指す
- 江下武二 伍長
- 北川丞 伍長
- 作江伊之助 伍長
荒木克業大尉
陸士41期。熊本県旧飽託郡内田村(現・熊本市南区)出身。最終階級は工兵中尉、死後大尉。
満州事変後、元張学良軍出身の軍人たちが満州国建国に反発して邦人を人質にしたホロンバイル事件において、鉄道第一連隊の所属だった荒木克業中尉(死後大尉に昇進)は、追撃隊の先頭となった。道中、敵の放った突放貨車の脱線を試みたが、脱線器の装着具合を確認していたため退避が遅れ戦死。
杉本五郎中佐
山西省広霊県において中隊長として従軍した杉本五郎少佐(死後中佐)は、敵陣に突撃して重症を負い、直立不動の姿勢で宮城(皇居の前呼称)の方角へ敬礼をしたまま絶命した。
西住小次郎大尉
陸士46期。最終階級は陸軍歩兵大尉。勲五等功四級[1]。熊本県上益城郡甲佐町仁田子出身。
久留米戦車第一連隊の小隊長であった西住小次郎中尉(死後大尉に昇進)は、第二次上海事変から徐州会戦中の昭和13年5月17日に流れ弾に当たって戦死するまでの間、30回以上の戦闘に参加した。軍から公式に「軍神」として指定されたのは西住がはじめて。
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