ちょっと怖い戦争・軍事・兵器の雑学・豆知識 85選

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ちょっと怖い戦争・軍事・兵器の雑学・豆知識

 

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ちょっと怖い戦争・軍事・兵器の雑学・豆知識

 

世界編

 

大艦巨砲主義

大艦巨砲主義

第二次世界大戦
日本は大艦巨砲主義に固執して負けたと一般に言われ、大和はその象徴として扱われているが実際には、旧日本軍はいち早く大艦巨砲主義を転換していた。
実際、大和の完成は開戦前であるが、アメリカは1943年まで戦艦を作り続けていた。

 

イタリア軍はやっぱり

イタリア軍はやっぱり トーネード IDS

トーネード IDS (Tornado IDS) は、イギリス、ドイツ、イタリアで国際協同開発された全天候型多用途攻撃機(マルチロール機)である

イタリア軍のだめっぷりは有名だが近代でも受け継がれている。
1991年湾岸戦争で空軍が派遣したトーネードIDS16機。
そのうち14機が空中給油に失敗して本国に帰還。
残った2機はNATO軍指揮下に入り予定通り空爆に参加するも撃墜され搭乗員は捕虜になった。
この日NATO軍の未帰還機は2機のみ。

 

A-1 スカイレイダー 攻撃機にキッチンシンクや便器を搭載して投下した

A-1 スカイレイダー 攻撃機にキッチンシンクや便器を搭載して投下した

 

本機の兵装搭載量は当時、「キッチン以外に運べない物はない」と評されるほどであり、それを受けて朝鮮戦争では実際に流し台を翼下に”兵装”として搭載し、投下したことがある。また、ベトナム戦争の際には上述の評を受けて「もはやこの機体が搭載したことがないのはトイレくらいのものである」と言うジョークが生まれ、「それならば」ということで「信管を取り付けた便器」を搭載し、実戦で投下した。

A-1スカイレーダーは、現在レシプロ機によるジェット戦闘機の撃墜記録を持つ最期の機体である。

すぐに泣いて許しを請うイタリア兵

イタリア人の「弱さ」は処世術のひとつでもある。
第二次世界大戦後、ユーゴパルチザンの捕虜になったドイツ兵はあくまで頑固で
拷問にも屈することなくセルビア人の怒りをかったが、イタリア兵はすぐに泣いて
許しを請うので拷問がとまったという話だ。

 

イタリア兵の一群が降伏

北アフリカで、イギリス軍将校のところに銃を持ったイタリア兵の一群が降伏するために
近づいて来た。
しかし、戦利品を漁るのに忙しいイギリス将校が無視していたので、そのそばに銃を
投げ捨てると「うるさい!、あっちに行け!」と怒鳴られた。
仕方なく、捕虜にしてくれるイギリス兵を探すため、銃を拾い上げるとまたとぼとぼと
歩いていった。

 

イタリア兵「おおマリア様!」

北アフリカ戦線で、ロンメルがイタリア軍の塹壕を訪れた。
と、そのとき、連合軍の砲撃が始まった。
イタリア軍の兵士は「おおマリア様!」と言って地面にひれ伏した。
ロンメルはイタリア軍の指揮官にこう言った。
「お祈りを止めさせて、反撃させなさい。言うことはそれだけです。」

 

戦車519両以上を撃破した【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】

ハンス=ウルリッヒ・ルーデルは、第二次世界大戦中のドイツ空軍の操縦員、幕僚将校。ヨーロッパ東部戦線において、ソ連戦車500両以上と800台以上の車両を撃破する驚異的な戦果を挙げた。また、9機を撃墜し、地上砲火で30回撃墜された。これらの戦功から、ナチス・ドイツ最高位の「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授けられた。

 

  • 何度も乗機を撃墜され、捕虜になりかけ、当時の彼の首にはソ連軍によって賞金が懸けられていた。
  • 出来る限り休暇を減らして出撃回数を増やすよう上司に嘆願し、その為に書類を偽造した
  • 撃墜されて満身創痍で基地に帰ったのに、そのまま再出撃しようとしたりした
  • ソ連軍の40mm高射機関砲により右足を失う。しかしルーデルは、治療期間中にソ連軍を攻撃出来ない事の方が悔しいと涙ながらに訴えている。彼は負傷が完治する前に病院を抜け出して部隊に戻り、特注した義足をつけて再び戦線に復帰した。
  • その戦功が余りにも突出していたため、スターリンが演説の中で「ソ連人民最大の敵」と名指しでルーデルについて言及している。
  • 全国防軍将兵の中で唯一「黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章」を授与された人物。
  • 最終階級は大佐

【戦績】

  • 出撃回数 2530回(内、Fw190FやFw190D-9での出撃が430回ある)
  • 被撃墜回数 30回
  • 戦闘による負傷 5回
  • ソ連軍によってかけられた賞金10万ルーブル(現在の日本円にして、およそ5000万~1億円)

【戦果】

  • 戦車 519輌(この数は戦車部隊一個軍団を撃滅したのに相当する)
  • 装甲車・トラック 800台以上
  • 火砲(100mm口径以上) 150門以上
  • 装甲列車 4両
  • 戦艦 1隻(マラート)
  • 嚮導駆逐艦 1隻
  • 駆逐艦 1隻
  • 上陸用舟艇 70隻以上
  • 航空機 9機(戦闘機 2、爆撃機 5、その他 2。9機のうち1機はJu87G型の37mm砲によって撃墜されたものである)

 

【白い死神】最強スナイパー『シモ・ヘイヘ』

ヘイヘは身長約152cmと小柄であったが、120cm以上ある銃(モシン・ナガン)を手足のように自由に扱った。

 

  • 狙撃訓練課程では150mの距離から1分間に16発の射的に成功したという逸話。
  • 実戦でも300m以内ならほぼ確実に目標の頭部を狙撃したと言われている。
  • ヘイヘの公式確認戦果である505人は世界最多記録として知られる。このなかには狙撃銃以外の火器による殺害数は含まれていない。
  • イヘはサブマシンガンの名手でもあり、“殺戮の丘”の戦闘ではKP31サブマシンガンを用いて、記録では200人以上、非公式なものを含めれば狙撃で殺害した505人よりも多くの敵兵士を倒したと言われている。
  • これらの記録は戦争開始から負傷するまでの約100日間のうちに残されており、1939年のクリスマス直前の12月21日だけでも25人の赤軍兵士を殺害し、クリスマスの夜には通算殺害数が138人に達していた。

 

あまりしられてない『チャールズ”コマンドー”ケリー伝説』

 

アメリカ軍の保持する建物にドイツ兵の大軍が接近そのときケリーは

  • BARを乱射してドイツ兵を狙撃。
  • BAR(自動小銃)撃ち過ぎて動かないので,ベッドに置いたらベッドが燃えた。
  • 別のBARを探して撃ちまくるが,銃身が歪んで撃てなくなった。
  • 上の階に行きトミーガンを発見。窓からまた撃ちまくる。ドイツ兵数人を倒す。
  • トミーガンマガジン空に。バズーカを建物のどこかで見かけたことを思い出し,建物の三階へ。
  • バズーカ砲と弾頭六発を発見。二階に下りて発射してみようとするも,やったことがないので撃ち方がわからない。いろいろやってるうちに発射砲を会得。
  • バズーカを四発撃った後で部屋の中に焼夷擲弾を発見。ドイツ兵の占拠する近くの建物の屋根に放り投げる。爆発炎上。
  • 迫撃砲の弾を発見。雷管の安全ピンを抜いた,と思ったけどそれは装薬の安全ピンだった。信管のピンがわからないのでいろいろいじってるうちに外れる。窓から放り投げたら気がついたらドイツ兵が五人死んでいた。
    全部で十発の迫撃砲弾を投げつける。
  • カービン銃を発見。クリップ数個しかないけど。でもやっぱり給弾の方法がわからなかったのでクリップ撃ちつくしてまた別の武器を探す。
  • スプリングフィールド銃を発見。装填してドイツ兵を撃ちまくる。
  • 窓から中庭を見ると対戦車砲を発見。階段を駆け降りて砲弾を装填してみる。うまくできた。近くのドイツ兵の拠点の教会を狙う。
  • でもやっぱり撃ったことがないのでどう撃てばいいかわからない。みようみまねでやっと発射に成功。でも着弾したのはすぐ近くの塀だった。
  • たまたま装填したのが徹甲弾だったので平気だった。そこには榴弾もいっぱいあったんだけど。
  • 気がつくと,ドイツ兵の拠点の教会は穴だらけに。鐘楼が崩れ落ちてる。
  • 弾薬箱の底にヘンな形の弾頭を発見。なんじゃこりゃ。空中爆発型の榴弾だったらしい。それで撃ったドイツ兵の集団は全員死亡。
  • ドイツ軍の対抗砲撃が中庭に降ってきた。対戦車砲を撃つのは楽しいので逃げたくないと思ったんだけど、大尉が「弾を無駄にするな」と怒ったのでしかたなく逃げた。
  • 建物の中に入ると三丁目のBARを発見。まあ死んだ兵隊が握ってたんだけど。撃ちまくりつつ装填してまた撃ちまくる。
  • そのBARもなんか煙を吹くくらい熱くなってきた。そしたらドイツの狙撃兵が一階を狙ってきてるので手を貸せ,と言われたので一階へ。
  • そしたらGIどもがスパゲティを茹でていやがった。むかついたので厨房の中でBARを乱射。
  • 敵の狙撃してきてるほうの窓から木に登ってるドイツ兵を発見。BARで乱射して片付ける。
  • 木から落ちたドイツ兵を助けようと駆け寄ってきた二人のドイツ兵を狙撃。またそれを助けようとした三人のドイツ兵をまた狙撃。
  • そんなことをしてるうちにBARのクリップをいっぱい持ってきてくれた仲間がいた。ありがとう。でもお前も戦え。
  • BARがまた撃てなくなったので中庭の対戦車砲のところに戻る。
  • こんどは無駄弾を撃つなと怒る上官はいない。しめしめ。っていうか気がついたら味方が撤退して全然いない。
  • でも気にせず砲弾を撃ちまくる。ドイツ兵の隠れていそうな建物はつるべ打ち。
  • 中庭から建物に戻ったらもう全然仲間がいない。薄情モノめ。バズーカの弾を発見したので撃ちまくる。
  • 二階の窓際にもどったら,怪我して動けない仲間の兵隊が銃に弾を込めて渡してくれるので撃ちまくる。
  • 怪我した兵隊たちはこぞって弾倉や銃に弾を込めて渡してくれる。弾がなくなるまで撃ちまくる。
  • 数時間後ドイツ軍一個中隊を基本一人で撃退して生還

 

超ド級は英国の戦艦の名前から

超ド級の映画 超ド級の新人 などに使われているこの「ド」は ドレット・ノートと言う英国の戦艦の名前から来ている

 

戦場では衛生兵を攻撃しちゃいけない

ジュネーブ条約で衛生兵は保護されている。

ジュネーヴ条約(ジュネーヴじょうやく)とは、戦時国際法としての傷病者及び捕虜の待遇改善のための国際条約である。

 

パラシュートで降下してる人を攻撃しちゃいけない

墜落しそうな飛行機から脱出して
パラシュートで降下してる人を攻撃するのはダメ

空挺降下している兵士も基本的には撃っちゃいけない
降下後に直ぐに撃つのはOK
逆に降下しながら撃つのはOK

これはハーグ陸戦規定に定められている

戦闘に参加しようとする者と離脱しようとする者だから、状況は同じでも方針が真逆。

撃墜王ハルトマンも最後の出撃で撃墜された時、これほど敵を殺した自分だから撃たれると覚悟したけど、撃墜機のパイロットは至近まで近づいた後で一度睨みつけるだけ睨みつけてそのまま離れていったそうな

 

パラシュートなしでダイブして無傷で助かった兵士

高度6000mからパラシュートなしでダイブして無傷で助かった兵士がいる。
原因は、運良く木の枝と降り積もった雪がクッションになったため。

それを真似したわけでは全くないのだが、ソ連では、雪が積もってるから大丈夫じゃね?と言って空挺部隊をパラシュートなしでダイブさせた。

全滅した。

 

B-2 世界一高価な航空機

B-2 世界一高価な航空機

B-2 2000億円のステルス爆撃機

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米軍のB-2は世界一高価な航空機で
ギネスに登録されている(一機あたり約2000億円)
この機は同重量の金と同価値といわれるほど非常に高価。

B-2はアメリカ空軍のステルス戦略爆撃機である。開発はノースロップ・グラマン社が担当した。
水平尾翼および垂直尾翼がない全翼機と言う特徴的な形をしており、
愛称はスピリット(Spirit,魂、精神の意)。
この機は同重量の金と同価値といわれるほど非常に高価で、少数しか生産されていない。
B-2は1機ごとに「Spirit of ~(大半は米国の州の名)」のパーソナルネームが与えられている。

 

対物ライフル

対物ライフルはその昔対戦車ライフルと呼ばれていたが、戦車が固くなって役立たずになった。

M1918は、戦車そのものを破壊するのではなく、装甲板を貫通して内部の乗員を射殺することが目的の火器だった。その後第二次世界大戦において対戦車ライフルを対人、対物狙撃用として使用した例があるが、後に装甲技術の向上などで対戦車兵器としては陳腐化したこともあり、大口径ライフルは一時的に姿を消した。

 

狙撃の世界最長記録は【2.5km】

狙撃の世界最長記録更新:イギリス軍スナイパーが2.5キロメートル先から2人を殺害。

狙撃を達成したのはイギリス軍王室騎兵隊の狙撃手、クレイグ・ハリソン軍曹。

ターゲットの約6フィート(1.8m)上、20インチ(約50cm)左を狙う必要があり、着弾までに2.64秒かかった。

 

【モシンナガン】はモシン大佐とナガン兄弟によって開発

【モシンナガン】はモシン大佐とナガン兄弟によって開発

ソ連赤軍の代表的な小銃のモシン・ナガンM1891。
この小銃は帝政ロシア時代のセルゲイ・モシン大佐とベルギー人のエミール・ナガン、レオン・ナガン兄弟によって開発されたボルトアクションライフル。

引き金を引くのをためらう

実は引き金を引くのをためらう兵士は意外と多い。
しかし、訓練の標的を丸から人型に変えた途端発砲率は劇的に上がった 。

バイオハザードっていうゲームによく似たシュミレーターをアメリカ現役兵士が使ってるのは有名な話 。

銃についてくる説明書は秀逸なものが多い

米軍の突撃銃の説明書なんか、最初は文字ばっかの真面目くさった説明書にしたら脳みそ筋肉の陸軍歩兵達がちっとも読まなかったので、漫画とかを入れた読みやすい説明書にしたっていう話もある。

軍事学についてのお薦めの事典

Jane’s シリーズ、クレフェルトの補給戦は絶対読んだほうがいい。

読みやすい上に近代戦争の兵站が網羅されてるからいい。
兵站のコンセプトが分かってるか分かってないかで他の要素を語る時にも大きく違いが出る

 

印度の軍人は演習でもターバン巻いてる

印度の軍人は演習でもガチでターバン巻いてる

ターバンの上から被るシーク教徒専用メットもある。ターバンの周りを縁どるようにケブラーが巻いてある。

 

阻塞気球(そさいききゅう)

阻塞気球(そさいききゅう)

ノルマンディー上陸作戦中に荷降ろしをする船団。阻塞気球がある。

金属のケーブルで係留された気球で、飛行機による低空からの攻撃を防ぐために(敵機がケーブルに衝突するか、少なくとも攻撃が困難になるように)使用される。敵機を確実に破壊するため、少量の爆発物を付けたものもあった。通常、阻塞気球は低空飛行する飛行機に対してのみ使用される。あまり高度を上げるとケーブルの重さが実用性を損なうからである。

 

空気の砲弾

ナチスが開発した「風力砲」。目に見えない“空気の砲弾。

水素と酸素をギリギリの分子比率に近づけて混ぜ、その爆発力によって飛行機を撃ち落とす「風力砲」。

 

クルムラウフ(曲射銃身)

クルムラウフ(曲射銃身)

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki//StG44_(突撃銃)

 

StG44の先端に取り付けた90度曲射銃身。

曲射銃身:ナチスドイツは90度に湾曲している銃身を作った 。
要するに、自分が壁に隠れていても相手を撃てるチート銃 。

 

第二次世界大戦のGDP

当時、枢軸国全てのGDPを合計した額よりも、アメリカ単独のGDPの方がはるかに高かった
ので、ナチスがアメリカの参戦を嫌がった。

 

食料の供給が途絶えたのに何故か市場で新鮮な肉が売られていた

ドイツに包囲されたレニングラードでは 食料の供給が途絶えたのに何故か市場で新鮮な肉が売られていた。

レニングラード包囲戦

冬が近づく頃、飢餓による死が襲ってきた。
植物学者のニコライ・ヴァヴィロフの研究スタッフの1人は、
食用にすることもできた20万種の植物種子コレクションを守ろうとして餓死した。
ターニャ・サヴィチェワという当時12歳の少女は、
12月から翌年5月にかけてレニングラードにいた
肉親全員が次々と死んでいったことを書き残している。
レニングラードの街角は死体で溢れた。

やがて食料が切れた市内には飢餓地獄が訪れ、
死体から人肉を食らう凄惨な状況が常態化した。
人肉を売る店まで現れ、人々はそれで飢えをしのいだ。
特に子供の人肉は美味とされたので、
市内では子供の誘拐・殺人が横行したと言われる。

 

タンク【tank】の語源がトイレ?

戦車

イギリスで作られた世界最初の戦車は、当初「水運搬車(Water Carrier)」という秘匿名称が付けられていた。イギリスでは委員会をその頭文字で呼ぶ風習があり、戦車開発のために委員会が設置されたが「W.C.(便所)委員会」では都合が悪い。そこで「T.S.(Tank Supply=水槽供給)委員会」と呼ぶことにした。これにより戦車は「タンク」と呼ばれるようになり、のちに正式名称になった。この語源については「戦車を前線に輸送する際に偽装として『ロシア向け水タンク』と呼称した」など諸説あるものの、以後戦車一般の名称として定着した。

 

アメリカの艦船建造量

大戦中、アメリカ軍は
戦艦10隻以上、正規、軽空母30隻以上、護衛空母100隻以上を完成させている 。
しかも、結構な数の艦船が1943以降、建造キャンセルされてるんだが、その理由が作りすぎたから。

 

ドイツの無人特攻機

日本でカミカゼ特攻作戦が決行されようとしていた頃、ドイツではイギリスまで自律飛行する
無人特攻機をばんばん飛ばしていた 。

 

タイでは徴兵対象者をクジ引きで決める

空軍>>>海軍>>>>(越えられない壁)>>陸軍で、
メンタルが弱い人が陸軍クジを引くとしばしばその場で気絶する 。

それ以外に「免除」というクジもある 。

 

スナイパーは捕らわれたら 残酷な殺され方する

狙撃兵は顔を合わせずに一方的に撃ってくる存在だから、降服してもその場で私刑にされがち。
でも狙撃兵もそれはお互い様で、WW1のクリスマス休戦では狙撃兵が真っ先に戦闘を再開した。
やはり確実に撃って殺すということに特化した狙撃兵は、一般の兵士とは少し心境が違うようだ。

 

ドイツが戦争賠償を終えたのは【2010年10月4日】

2010年10月4日、ドイツ統一後、再び債務利子の支払いを開始していたドイツが、前日をもってすべての支払いを完了させた。完済まで実に89年を要した。

4年以上の長期戦となった第一次世界大戦の結果、欧州連合国は多額の対アメリカ・イギリス向け戦争債務を抱え込んだ。

 

ロケット推進自走地雷

その名もパンジャンドラム 。

パンジャンドラム (Panjandrum) とは、第二次世界大戦中、イギリスで開発が行われていたロケット推進式の陸上爆雷である。上陸用舟艇から射出して防護壁まで自走させ、これを破壊する自走爆雷。この名は開発に参加した小説家のネビル・シュートが、サミュエル・フット (w:Samuel Foote) の同名の詩『The Great Panjandrum』(「偉大なパンジャンドラム」=「お偉方」の意)から引用して命名。

 

イラク戦争の時多大な戦果をあげたハイテク戦車

イラク戦争の時多大な戦果をあげたハイテク戦車

米軍の戦車でイラク戦争の時に多大な戦果をあげたハイテク戦車 【M1A1】。
当時のM1A1は敵味方識別装置を持たず、また激しく砂塵の舞う砂漠の戦いで熱映像装置(サーマルサイト)の性能が不十分だった為に同士討ちが多発し、この十数輛の損害の半数は同士討ちによるものといわれている。

【M1A2】だとC4Iというデータリンクシステムが搭載されてるので、同士討ちはほぼ起きない。

戦車は真上からの衝撃に弱い。
M1エイブラムスでも上面装甲はRHA換算で4センチ以下。
正面なら120mm砲を耐えるけど、上面だと30mmで穴が開く。

 

武装したピックアップ【テクニカル】

ソマリアでのテクニカル
車体後部にZPU-1、
助手席前にSG-43を装備している

ピックアップトラックなど民間車両の荷台に銃砲を据え付け、車上戦闘を可能にした戦闘車両である。
装甲を施さない点で装甲車と異なる。

武装したピックアップがテクニカルと呼ばれるようになった理由:

国連がアフリカの民兵に誘拐された人質と引き換えに武装ピックアップを要求された時、
武装ピックアップを用意するのにかかった金を技術代(テクニカル)として計上したため。

 

対戦車炸裂兵器の弾頭

RPG-7などの対戦車炸裂兵器の弾頭に使われているのは単なる爆弾ではなく「成型炸薬弾」という特殊なもの。

爆薬を漏斗状に成型し、そこに金属のライナーを張りつけることで爆発のエネルギーに指向性を持たせ、そのエネルギーを受けた高速高圧の金属ライナーで装甲を貫く。

ちなみに本命の装甲の数十センチ外側に金網を張るだけで防げる 。

 

戦車の装甲にはセラミックが用いられている

90式戦車(きゅうまるしきせんしゃ)は日本の戦車である。戦後に日本国内で開発生産された主力戦車としては61式戦車、74式戦車に続く三代目にあたり、第3世代主力戦車に分類される。
90式戦車、10式戦車の装甲にはセラミックが用いられている陶器と言うと脆いイメージがあるが、熱に非常に強く肝心の戦車砲弾も、速度が速すぎて装甲が割るより先に運動エネルギーを失ってしまう。

そのため、90式や10式が同世代の戦車と比べて軽いのに防御力はむしろ高いと言われている 。

因みに日本が持つこの複合装甲の技術は世界最高峰レベルでアメリカ軍ですら喉から手が出るほど欲しがっているとか。

 

サッカー戦争

サッカー戦争とは、サッカーの試合での遺恨がきっかけとなって、エルサルバドルとホンジュラスとの間で勃発した戦争である。100時間戦争やエルサルバドル・ホンジュラス戦争とも呼ばれる。

レシプロ戦闘機同士の空中戦や撃墜が起こった最後の戦争。

 

光学迷彩はすでに実験段階に入っている

【今のところ一番現実に近い方法】
対象となる物体にカメラ、スクリーンを搭載し、後ろの風景をカメラで撮影してスクリーンに表示させることにより、あたかも透明になったような錯覚を引き起こさせる。

 

エニグマの暗号パターンは150兆通り

エニグマ (暗号機)

エニグマの暗号パターンは150兆通りある。

エニグマ (Enigma) とは、第二次世界大戦のときにナチス・ドイツが用いていたことで有名なロータ式暗号機のこと。幾つかの型がある。その暗号機の暗号も広義にはエニグマと呼ばれる。

 

最強の戦闘機【F-15C】

日本の空も守っているF-15であるが、それの空戦タイプであるF-15Cは公式の被撃墜記録は0。
1機撃墜されているという説もあるが、それに対する撃墜記録は100を超えている。

兵器の性能を実績で語るなら、F-15Cは間違いなく最強の戦闘機である。

 

AK-47は「人類史上最も人を殺した兵器」

AK-47、露: Автомат Калашникова образца 1947 года、ラテン文字転写: Avtomat Kalashnikova-47、「1947年式カラシニコフ自動小銃」の意)は、1949年にソビエト連邦軍が制式採用した歩兵用アサルトライフル。
調査報告書は「AK-47:世界最強の殺人マシーン(The AK-47: the world’s favourite killing machine)」と題され、「人類史上最も人を殺した兵器」とも「小さな大量破壊兵器」とも称される事がある。

 

撃墜王

  • エーリヒ・ハルトマン:「黒い悪魔」。352機の敵機を撃墜した史上最大の撃墜王。
  • ハンス・ウルリッヒ・ルーデル:「ソ連人民最大の敵」。500両以上の戦車を破壊したスツーカの魔王。
  • レミ・シュライネン:殺到する赤軍の戦車隊の前にただ一人立ち塞がり、
    ソ連最強のスターリン戦車を3両、T-34を4両撃破して生還。
  • ミハエル・ヴィットマン:戦車138両、対戦車砲132門を撃破。
    ヴィレル・ボカージュの戦いでは自車両のみで英軍戦車隊に大打撃を与えた。
  • 米国陸軍第100歩兵大隊:「Go for broke」。日系人により編成されたこの部隊は米軍史上最多の勲章と314%の死傷率を誇った。
  • 船坂 弘:たぶん人間じゃない ※日本編に詳細があります。
  • シモ・ヘイヘ:「白い死神」。冬戦争における100日間の従軍で505人を殺害。 ※下記詳細
  • ヴァシリ・ザイツェフ:スターリングラード攻防戦にて257人を殺害。更に優秀な教官として多くの狙撃兵を育成した。
  • 伊軍フォルゴーレ空挺師団:「獅子の如し」。エル・アラメインの戦いにおいて13倍の兵士、70倍の戦車を数度にわたって撃退。火炎瓶と地雷で肉薄攻撃を敢行したため、後退時には壊滅状態となっていた。
  • ジャック・チャーチル:「気違いジャック」。バグパイプと弓を愛する男。英国特殊部隊に所属し、WWⅡにおいて「長弓」で多数の敵を殺害。

 

大戦中にコカ・コーラ飲みてぇ!→【ファンタ】開発

1940年、第二次世界大戦でコカ・コーラの原液を輸入できなくなったコカ・コーラのドイツ法人で開発された。これはリンゴジャムとチーズの製造工程中に生じる副産物より開発・製造されたもので、味は果汁入りオレンジジュース : コーラ : レモンジュース を 0.375 : 0.375 : 0.25 位の割合で、当時、この味に慣れ親しんだ世代のドイツ人の間ではシュペツィという名称の飲み物として名残りが残っている。

 

【エビを水から煮る調理法】は違法

ナチス政権下のドイツでは、『エビを水から煮る調理法』は違法だった。
なぜかというと、エビが苦しむから。

 

ある捕虜収容所での話

ドイツ軍捕虜は
独房から穴を掘って脱出を図り、収容所の人間はそのまじめな性根に舌を巻いた。

イタリア軍捕虜は
毎日のほほんと捕虜生活を送り、挙句収容所の女とデキるやつもいて、収容所の門の鍵を開けていても誰一人脱走を試みる奴はいなかった。

日本軍はというと、
つかまった晩、全員が収容所で自決していた。

 

枢軸国の国民性

ドイツ
・防共協定直後に独ソ不可侵条約
・ソ連への攻撃を日本へ教えない

日本
・ドイツのソ連攻撃直前に日ソ中立条約
・ドイツが恐れていたアメリカを戦争に巻き込む

イタリア
・ドイツの戦争計画を邪魔しまくる
・まっ先に寝返る

枢軸三国の連携の悪さは異常

 

湾岸戦争の際、爆撃を受けた建物の中にあったゲームボーイ

空爆を受け倒壊した兵舎からゲームボーイが発見された。
外装がひどく焼けていたが内部には問題はなく、正常に動作したとそうで、これがそのゲームボーイの映像。
ちなみにこのゲームボーイは、現在ニューヨークの任天堂直営店「Nintendo World Store」に保管展示されており、触ることは出来ないが、常時テトリスのデモ画面が動いているという

 

戦艦がレーダーから消え瞬間移動

戦艦がレーダーから消え瞬間移動したと言われる【フィラデルフィア計画】があった。

船員は体が溶けたり半身だけ透明になったといわれる。

 

ジャスパー・マスケリン

奇術師。当初は英軍で慰安活動を行っていたが、北アフリカで空前絶後の規模の偽装工作を行い、独軍を大いに混乱させた。

 

エイノ・イルマリ・ユーティライネン(弟)

「無傷の撃墜王」。94機の敵機を撃墜するも、その度重なる戦闘において全く被弾することがなかった。

 

アールネ・エドヴァルド・ユーティライネン(兄)

「モロッコの恐怖」。シモ・ヘイヘの上官。コッラの戦いでは数倍のソ連軍を撃退し、コッラの奇跡を起こした。

 

カール・グスタフ・フォン・ローゼン(子)

ゲーリングの妻の甥。冬戦争においてフィンランドを支援するため、義勇兵として旅客機を爆撃機に改造して参戦。
戦後はビアフラ紛争で救援活動を行い、改造した小型民間機によってナイジェリア軍への爆撃を敢行。

 

エリック・フォン・ローゼン(父)

フィンランド独立戦争に義勇兵として参加、フィンランドは謝意を籠めてローゼン家のスワチカの紋章を自軍機の識別マークとした。

 

オットー・スコルツェニー

「ヨーロッパで最も危険な男」。独軍の数々の特殊作戦に従事し、バルジの戦いでは米軍に変装して撹乱工作を行った。

 

日本編

 

八甲田雪中行軍遭難事件

1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が八甲田山で冬季訓練中に遭難した事件。
訓練への参加者210名中199名が死亡する、日本の冬季軍訓練における最も多くの死傷者が発生したことで記憶されている。

 

第二次大戦で一番問題になったのは水虫

第二次大戦で一番問題になったことのひとつに水虫がある。

塹壕の底は雨水がたまりやすい。
敵とのにらみ合いの時は泥水に腰まで浸かって耐えるなんて茶飯事で水中に長い間足浸けてたせいで酷い水虫になることがあったらしい。
ひどくなると壊死して切り落とすしかなくなった。

塹壕(ざんごう)では、降雨などの増水時に、兵士たちは汚物まみれのぬかるんだ泥に足を突っ込んだまま、いつ攻めて来るか判らない相手を待ち続けなければならなかった。このような特殊な環境によって、伝染病は元より、塹壕口内炎や塹壕足(重篤な水虫や凍傷によって循環器系障害を起こし、酷い場合は足を切断した)などの病気も発生した。特に寒冷地においてはその被害は甚大なものとなり、戦後復興に大きな影を落とした。

 

宙返り出来るヘリコプター

自衛隊のOH-1というヘリ。

OH-1は川崎重工業によって製造された陸上自衛隊の観測ヘリコプター(偵察機)。
敵陣に忍び込み情報を得る任務から、『ニンジャ』の愛称がある。

 

自衛隊には軍刑法がない。

軍には軍刑法とよばれる通常の刑法よりも厳しいものがあるが、自衛隊にはそれがなく、その点で自衛隊を軍とは呼べない。
また、軍刑法がない場合、通常の刑法より軍刑法を重視する状態である戒厳令は事実上出すことができない。
このため、日本国内で夜間外出禁止令など戒厳令などに近いものを出すことは厳しい 。

 

長崎に落とされた原爆「ファットマン」

広島の原爆よりも遥かに威力が高かった。
この構造を完成させるために、悪魔の頭脳を持つと言われたフォン・ノイマンは、約十ヶ月にも及ぶ数値解析を行い、プルトニウムの正確な点火に寄与した。

ちなみにフォン・ノイマンは原爆を京都に投下して日本人の精神を叩きのめすべきだと主張していた。

ファットマンの正確な色は分からない。

長崎の原爆資料館にある模型は、カーキ色で塗られてたんだが、最近になって

「実はこれ黄色じゃないのか?」

と判明した
ただ写真がモノクロなので、正確な色合いは分からないらしい。

 

部下に「黙って死ね」と言われた【牟田口 廉也】

牟田口 廉也は
インバール作戦の失敗が濃厚になったので、責任のために自決するべきか部下に相談したところ
「昔から死ぬ死ぬといってる人に 死んだためしがない。黙って死ね」

と言われ、唖然としたが、余生をまっとうした。

しかも、 「相談されちゃったら 副官として止めなきゃいけませんから、死にたいなら黙って死んでくださいよ」とまで言われた。

インパール作戦失敗後の7月10日、司令官であった牟田口は、自らが建立させた遥拝所に幹部将校たちを集め、泣きながら次のように訓示した。

「諸君、佐藤烈兵団長は、軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。
食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。
兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。
弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。
腕もなくなったら足で蹴れ。
足もやられたら口で噛みついて行け。
日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。
日本は神州である。神々が守って下さる…」

以下、訓示は1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。
前線の兵士は飢餓と病気の地獄、後方にいる牟田口は料亭で呑気にどんちゃん騒ぎ。

士官でさえ生きて帰ったら牟田口撃ち殺すって言ってた

 

零戦のキルレシオ

キルレシオとは、航空軍事用語。 空中戦における自軍と敵軍との撃墜比のこと。大抵は(自軍の撃墜数):(自軍の被撃墜数)で表される。3:1ならば、敵機を3機撃墜する間に味方が1機撃墜されたことになる。
連合国を心肝寒からしめた、といわれてる零戦だが、実際のキルレシオをみるとF4F以降は負けてる。
というか、F6F以降になると完全にやられキャラ化している。

地上撃破の数なんかもキルレシオには含まれてしまうため、実際はもう少しマシかもしれないが。
いずれにせよ、みんなが思っているほど俺TUEEEEした機体ではない。

機体スペックの差以上に、戦法の優秀さやパイロットの練度の差もあるけど。

サッチ・ウィーブが出てからは本当に負けばかり、それでも零戦との格闘戦は厳禁だったのが凄い。

零戦でF6Fの迎撃に上がることは自殺と等しかった。

 

戦闘機のレベル

WW2終戦までに技術開発した戦闘機のレベルを考えると(最高等級6)
零戦が3で日本は終戦までに5等級の試作飛行まで成功。

米国は6等級の量産化まで達成という位の技術の差が出た。

 

F6Fを二機撃墜した片目の零戦パイロット「坂井」

硫黄島防空戦
坂井は、およそ戦闘機パイロットとして世界に前例のない片目での戦闘に入ることとなったが、視界の利かない右側後方から、不意に敵戦闘機の射撃を受けていることに気付き、途中から、肩バンドを外して何度も右側を振り返って右側の視界を補いつつ奮闘。

全般的に零戦隊が劣勢のなか、坂井はF6Fヘルキャット戦闘機2機を撃墜する。
ただ、この空戦の終了時に、隻眼状態に伴う視力不足から、母艦へ帰還するF6Fヘルキャット戦闘機編隊を味方零戦と誤認するという以前の坂井にはあり得なかったようなミスで、敵戦闘機15機に包囲される。

この15対1の絶体絶命のピンチも、坂井の高度な空戦技術を駆使した必死の回避操作で、全ての射弾を回避する。
この15機のうちの1機で、途中から坂井機への攻撃に加わった米海軍VF-50航空隊のランシー・リッチ少尉によると、VF-2航空隊の経験の浅い4機は、坂井1機からの攻撃に、むしろ押され気味となり、数で圧倒していたにもかかわらず、防御隊形である単列での360度旋回であるラフベリー・サークルを組んで守勢にまわっていたという。

さらに、坂井機の急激な操作についていけずに、この防御隊形の旋回半径の維持が困難となり、このラフベリー・サークルから1機1機弾き飛ばされ、ばらばらになってしまっているのを目撃したという。

この早朝の空戦で既に零戦2機を撃墜していたリッチ少尉は、坂井機の300メートル上空から
急降下して一撃を加えたが、坂井の巧みな射弾回避操作にかわされる。
リッチ少尉他、この日、坂井機を包囲した米側パイロット証言は、坂井の著書「大空のサムライ」の描写以上に、坂井が激しく攻勢に出ていたことを示唆している。

太平洋戦争中、戦闘機同士としては最大規模、45分間にも及ぶ異例の長さのこの6月24日早朝の迎撃戦では日本側は、半数近い24機が撃墜されたが、最後に硫黄島に着陸した坂井機の機体には、F6Fヘルキャット戦闘機15機の一斉攻撃を受けたにもかかわらず、一発の被弾痕も発見されなかった。

坂井は体調不良のため、一時地上待機。7月4日に復帰した。

 

日本の風船爆弾

風船爆弾に使われていた接着剤の材料がわからなくてアメリカ人は首をひねったらしい。

正体はこんにゃくイモ

ジェット気流も知らなかったらしい。

 

自衛隊の練度の高さ

演習後、アメリカの誇るトップガン出のエリートたちが口をそろえて
「空自とだけは戦りたくない」と明言。
エリートのプライドを木っ端微塵に打ち砕かれたか、再教育志願者が続出した。

 

実弾射撃演習のためにアメリカ派遣された陸自砲兵部隊。ばかばかしいほどの命中率にアメリカ側が恐慌を起こした。
アメリカ側が、「超エリートを集めた特殊部隊を作っても意味がない」と本気で忠告してきた(もちろん陸自は通常編成のまま)。
ついでに、その演習を見に来ていたWWII&ベトナム生き残りの退役将校が、「彼らがいてくれればベトコンを一掃できたし、あんなに死人が出なくてすんだのに」と泣いたというオチが付く。

 

ホークだかパトリオットだか忘れたけど、演習でアメリカ側の発射したトマホークの迎撃訓練で、数十発を全弾撃墜した。
なお、数十発のうち、後半は超低空・対地誘導その他、隠蔽技術をフルに活用した上でこの成績。

 

スターファイターでイーグル相手に撃墜判定をたたき出した故ロック氏の例を挙げるまでもなく、少数で、様々な制約を課せられているが故に、その制限枠内ギリギリまで戦力を高めようとする努力の結果なんでしょうけどね。

 

人種の優越とか、才能とかじゃなくて、文字通り体が擦り切れるような過酷な訓練の成果だと思うと、自然と頭が下がります。
こんな人々に守られて、私らは平和と繁栄を謳歌してるんだなぁ、としみじみ感謝の念を噛み締めることがありますよ。

 

「まだ戦える」といって戦犯に

太平洋戦争終戦時、2年分の燃料と航空機700機を保有してた基地。
そこの軍人が「まだ戦える」といって戦犯になったのが小園安名。

厚木基地302空司令の小園安名大佐が降伏を受け入れず、祖国防衛を目的として、徹底抗戦を主張して若い隊員たちも数日にわたって、戦闘機からビラ撒きして厚木飛行場の部隊は、反乱状態になった

 

爺さんの戦時中の話

爺さんが戦時中、大連に居る時、食料探索にロシア?
だか何処かの狙撃から命からがら逃れながら
川を渡り倉庫に辿り着き暗闇の中、二つの壷を持ち帰ったら、
一つは梅干しで一つは味噌で食料の足しにならなかったと
でも待ってた人達には喜ばれたと、笑って話してる姿は
凄い体験してきた人には見えなかった
やっぱ昔の人はスケールが違うわと思った…
爺さん系の話なら俺も
うちの爺さんは体が弱くて徴兵検査が丙種合格だった
で、佐世保の軍需工場に務めてたんだそうな
あるとき同僚から「ラバウルいかね?儲かるらしいよ」と誘われたが断った
1ヶ月後、ラバウルに行った兵隊も民間人も全滅文字通り全滅
おかげさまで俺は今日も元気にフリーター生活です(^q^)
自分の母校にも復員して教員になった人がいて、
「俺はシベリア抑留で苦労して~それに比べてお前らは~」が口癖だったそうな

でもある日その人の友人が訪ねて来て言い放ったのが
「お前すぐ軽い凍傷にかかって日本に送り返されたじゃん」
以来その教員にとってシベリア抑留の話はからかいの種になったという

戦時中の話ってブラックな笑いが絡む話がちょこちょこあるよなww
出征したひとの奥さんが
「あーこれは旦那死んだわ確実だわ」
と思って旦那の兄貴と再婚したら
終戦後旦那が引き上げてきたとかはよくある話ww
傭兵部隊で知られる「グルカ兵」が
史上最も手を焼いたのがウチらのじっさま 旧日本軍の兵士達
食料も弾薬も殆ない状態で対等に交戦出来ていたと
陣地を占領したグルカ兵士官の手記にもある

 

自衛隊の装備品を買いたい国は多い

実践で使えるかどうかは別として
made in Japanの刻印がカッコイイらしい あくまでもらしい。

スウェーデン辺りは割と本気で90TK欲しがってたとか。
日本とドクトリンが近い上に山がちなのも共通。
実際採用したレオ2も90と似てるし。

 

高砂義勇兵、銃剣道段持ち、グルカ兵、

高砂義勇兵、日本軍の銃剣道段持ち、グルカ兵、近接戦闘では この三者の右に出るのは無さそう。

【グルカ兵の話】

もっとシリアスな話になるけど、昔、巨泉のギミアブレイクって番組でグルカ兵の特集があったんだよ
元グルカ兵の老人へのインタビュー

「刀を持った日本兵は本当に手ごわくて唯一死を覚悟した戦いだった」
「何しろ一切逃げようとせず背中を見せることがなかった」
「夜が明け霧が晴れた後に目に映った日本兵は皆一様にミイラのように痩せ細っていて驚いた」

こう説明した後にそのおじいちゃん号泣

当時、泣く子も黙るグルカ兵が唯一身の危険を感じた戦いとその日本兵。
一体どんなすげー奴らかツラを拝まして貰おうかってワクテカしながら夜が明けるのを待ってたら、全員玉砕覚悟のガリガリミイラ状態だったってなれば、敵とは言えそりゃ泣くわ。

余程衝撃だったんだろう、その時に回収した刀を家の床の間風なところに飾ってるんでなく
「奉って」あんの
「なんとかしてこれを遺族に返せないものか?名前が彫ってあるから見てくれ」って言うんだよ。
当然それは刀の銘なわけ、それをクルーが説明すると凄く残念な顔しててさ。

 

自衛隊の火炎放射器はやばい

火を噴くんじゃなくて、対象に粘着する、ナパーム燃料を放射。

実演見た時これくらい見学席と離れてたけど、それでも顔に熱気が押し寄せてきたビニールの小さなテントが模擬トーチカらしいけど、あんなもの浴びせられちゃたまったもんじゃないな

 

新兵器、空中機雷

ついに新兵器、空中機雷を完成させた。

ビルマ戦線で日本軍は、スピットファイア2機の追撃を受け、単なるゴム風船「空中機雷」放つ。
よほど慌てたのかスピットファイアは二機とも操縦を誤って墜落。

 

日本兵の頭蓋骨をお土産にした米兵

日本兵の頭蓋骨をお土産にした米兵。
漫画「はだしのゲン」の作中でも、日本兵の頭蓋骨をお土産にした米兵が描かれている。

 

日本は今だに戦争中

日露戦争時、セルビア・モンテネグロ(当時のロシアの同盟国)が日本に宣戦布。
日露戦争というと、1905年にポーツマス条約締結により終戦。ということになっていますが、なんとそのとき、セルビア・モンテネグロを呼んでいなかった。
よって、いまだに講和条約は結ばれておらず、現在も戦争は続いています。

ケンカした事自体忘れてしまったような感じなのかな?

 

パラオは日本語が公用語の一つ

大戦のときに日本軍がそこに駐留してて、現地の人たちとかなり仲良くなった。
でも敵が攻めてくると分かるやいなや日本軍の態度急変、

「おまえら邪魔だから島から出てけ」
「いや、俺立ちも戦う」
「うるせー!足手まといだから消えろ」

みたいなやりとりして、船で島から住民が脱出してるとき、日本軍のみんなが笑顔で手を振ってた。ありがとー!って。
戦闘の結果、日本軍は全滅。島の住民たちは日本軍人に感謝し、第二言語が日本語に。因みに国旗は「月章旗」日の丸がモデル。

 

硫黄島の指揮官、栗林中将。

映画で有名になった硫黄島の指揮官、栗林中将は家族への手紙に

『家のことは大概整理して来たけど、台所の隙間風を塞ぐのを忘れていた。そのうちやろうと思ってそのままにしてきてしまったので、息子にやらせておいてくれ』

『防空壕での生活は辛いだろうから、私の編み上げ靴とかを履いて逃げろ。靴は下駄箱の上にあります』

『硫黄島はアリが凄い。ゴキブリも物凄くデカい奴がいてキモい』

というようなことを豆まめしく書き綴って送り続けた。

 

舩坂弘

日本陸軍の軍人、大盛堂書店代表取締役会長。全日本銃剣道連盟参与、南太平洋慰霊協会理事、
大盛堂道場館主。テキサス州名誉市民章授与。最終階級は軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。

舩坂弘-アンガウルの戦い

米兵を200人以上殺傷。米兵から鹵獲した短機関銃で数人斃し、
左足と両腕を負傷した状態で銃剣で一人刺殺し、短機関銃を手にしていた
もう一人に銃剣を投げて顎部に突き刺して殺すなど、鬼神を泣かしめる奮戦をした。

部隊壊滅後、敵将に一矢報いんと手榴弾六発、拳銃一丁を持って米軍指揮所テント群に
数夜をかけて潜入した時には、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創二箇所、
頭部打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲貫銃創を負っていた。
突入してきたこの異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかったという。
舩坂は前哨陣地を単身突破し、米軍司令部を目指し突入するも頸部を撃たれて昏倒し、戦死と判断される。

しかし、舩坂は3日後に米軍野戦病院で蘇生する。ペリリューに身柄を移されて2日目には、
重傷を負っているにも拘わらず捕虜収容所から脱け出し、米軍弾薬庫の爆破に成功している。
個人の戦闘記録としては唯一戦史叢書に載せられる。

 

岩本徹三

「零戦虎徹」。日中戦争から太平洋戦争において200機以上の敵機を撃墜。
時限信管の爆弾を敵機に命中させるという斜め上の戦法を開発。

 

坂井三郎
「大空のサムライ」。64機?の敵機を撃墜。卓越した戦闘技術でB17爆撃機を初めて撃破した。

 

辻 政信

「第三次世界大戦を起こしかねない男」。清廉にして奇人。
太平洋戦争において南方で展開された多くの作戦に関与。
お世辞にも有能な軍人とは言い難いが、終戦後の潜伏や国会議員としての活躍、更に行方不明という最期から一部界隈に人気がある。

 

鳥取城兵糧攻めの悲惨さ

秀吉による鳥取城の兵糧攻めは壮絶だったらしい
負傷者がでるとまだ息があるのにバラされたとか…

1580年(天正8年)に織田方秀吉の第一次鳥取城攻めで
3か月の籠城戦(この時の籠城費用は全て豊国が負担)の末、
和議により降伏し9月豊国が織田信長に臣従した。

が、同月毛利の来訪で再度の降伏、鳥取城は牛尾春重が城将として入った。
この時点で豊国は因幡守護であるが鳥取城主ではなくなった。
牛尾は織田方の桐山城を攻めたとき深手を負い死亡したとも帰還したとも伝えられる。
(近年の研究では重傷を負ったものの、その後も生存していたことが明らかになっている)

何人かの城将の入れ替えの末、1581年(天正9年)3月毛利氏重臣吉川経家を城主に迎える。

4月、因幡守護山名豊国は織田へ密使を送るが、市場城主・毛利豊元の家臣達に
斬られたことで織田氏への内通が発覚、豊国は秀吉の下へ出奔する。
残存する山名旧臣は毛利氏への従属を継続したため、信長の部将で中国地方の
攻略を担当していた羽柴秀吉は二度目の鳥取城攻撃をすることとなる。

秀吉は播磨・三木城攻め(三木合戦)で行った兵糧攻めをここでも実施した。
陰徳太平記によると、秀吉は若狭から商船を因幡へと送り込み米を高値で買い占めさせる一方で、河川や海からの毛利勢の兵糧搬入を阻止した。
このとき、城には20日分の兵糧しか用意されておらず、この作戦によりまたたくまに兵糧は尽き飢餓に陥った。
何週間か経つと城内の家畜、植物などは食い尽くされ、
4か月も経つと餓死者が続出し、人肉を食らう者まで現れた。

信長公記にはこう記されている。
「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女、柵際へより、もだえこがれ、引き出し助け給へと叫び、
叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、目もあてられず。」

吉川経家はこの凄惨たる状況に、自決と引き換えに開城、自害した。
1580年7月12日 – 秀吉2万の軍勢が因幡鳥取城とその支城・丸山城を包囲する。
三木の干し殺しと並び、数ある戦国時代の合戦の中で最も壮絶な兵糧攻めと言われる、
鳥取の渇え殺し[とっとりのかつえごろし]が始まる。

9月 – 早くも城内の兵糧が底をつきはじめる。吉川経家は愕然とした。
冬になれば雪で秀吉の包囲網が緩くなり、毛利からの兵糧補給が期待できると踏んでいたからだ。
しかし、現実は甘くなかった。

これは三木の干し殺しで経験を積んだ秀吉の事前工作が功を奏する形となった。
秀吉は播磨の三木城攻めと同様に包囲のための付城[つけじろ]を築城し、
兵糧の搬入経路を徹底的に遮断した。

しかし、吉川経家が毛利一門だと言うことを考えると、毛利方の兵糧を搬入する
援軍の力の入れようは播磨の三木城の時の比では無かったように思われるが、
これを阻止した秀吉軍の力は相当な物だったのだろうと容易に想像が付く。
そして極め付けなのが、前もって因幡国中の米を通常の倍の値段で買い占めたと言う話である。
鳥取城でもそれが秀吉の謀略だとは思いもよらず、兵糧米まで売ってしまっていたと言うから
愚の骨頂としか言いようが無い。

だが、この話は出来すぎなので、もしかしたら創作なのかもしれない。
さらに秀吉は鳥取城下の村や町で、兵にいやがらせや乱暴を働かせ、
盛んに城中へ人を逃げ込ませていたらしい。
人が増えればそれだけ兵糧の消費が早くなると言う巧妙な戦略だった。
それにしても秀吉恐るべしである。

そしてついに城内は最悪の状態を迎えることとなる。
飢えた人々は当時は肉食の習慣が無かったにもかかわらず馬や家畜を喰らい、
虫、草木、食べられるものは全て食べつくしたあと、餓死した死体まで食べ始めたと言う。

吉川経家は決断した。城主切腹、城兵助命である。
秀吉は経家が臨時の城主だと知っていたので、経家を城に呼んだ元城主の山名豊国の
重臣たちの切腹を命じたが、経家はそれでは吉川一門の名が落ちるとし、切腹して死んだ。

10月25日 – 吉川経家が切腹。
最後は子供達に手紙を書き残している。
「鳥取の事、夜昼二百日耐えたが、兵糧が尽き果てた。私が一人切腹すれば、城の皆が助かる。
これは吉川一門の名を上げる事になる。これで良いのだ。」
吉川経家の他に森下道与、奈佐日本助の二将が切腹している。
秀吉は経家の奮戦を称え、責任を取って自害するのは森下道誉・中村春続だけでよく、
吉川経家は帰還させるとの意思を伝えた。
しかし経家はそれを拒否し、責任を取って自害するとの意志を変えなかった。
困惑した秀吉は信長に「経家が自害してもよいか」との確認をとり、
信長はそれに対し、経家の自害を許可している。

10月25日に経家は自害し、その一生を終えた。
その際に父や子供らに遺書を送っており、自分の心情を記している。その遺言状は現存している。

余談
落語家で『笑点』の4代目司会としても知られる三遊亭圓楽(本名吉河寛海)は、
吉川経家の3男、吉川家好(いえよし)の子孫であるという。
家好は後に鳥取藩池田家の家臣となり、明治時代に至り、
圓楽の祖父吉川寛雅が「吉川」から「吉河」に姓を改めたと言う。
天正9(1581)年10月、羽柴秀吉が、鳥取城を包囲して3ヶ月余りがすぎていましたが、
鳥取城に籠城している吉川経家以下城兵や領民らは悲惨な状況に陥っていました。

城兵らは数日おきに鐘を合図に一斉に城外の柵際まで雑草などを取っては
城内に引き返すといった方法で何とか飢えをしのいでいましたが、
雑草も取り尽くして牛馬を食べなくてはいけない状況になっていました。
しかし、これも食べ尽くすと寒さも加わり飢え死にするものが増えていきました。

籠城する者たちは、飢えの苦しさのあまり城外の柵際まで出てきて、城を包囲する羽柴軍に助けを求めます。
しかし、羽柴軍は容赦なくこれを鉄砲などで撃ち殺します。
この死人や重傷者に城兵が群がりその肉を奪い合うという惨劇が繰り広げられます。

この状況に城将・吉川経家は、降伏を決断。
秀吉に自分と森下道与(道誉)・奈佐日本介(中村春続?)の三人の首を差し出すので
城兵の命を助けて欲しいと嘆願してきます。

秀吉は早速、信長に状況を報告。信長もこの申し出を承諾します。

10月24日、秀吉からの返事を得た経家ら三人はすぐに切腹し、その首は秀吉のもとへ届けられます。
こうして鳥取城は落城しますが、悲劇はこのままでは終わりませんでした。

25日、羽柴軍の兵は、開放された飢えた城兵を哀れみ食事を与えましたが、
城兵らは大喜びし一気に大量に食べてしまいます。
しかし、極限まで飢えた状態で一気に食事することは危険なことで、
せっかく助かった城兵の過半数が頓死してしまいます。

後の世に『鳥取城渇え殺し』と呼ばれることになった、凄惨な籠城戦はこうして幕を閉じます。
この鳥取城には、城代として宮部継潤が入城します。
吉川経家の切腹を知った一族の吉川元春は、「前代未聞」「当世の流行」と経家の死を揶揄したそうです。

当時は城を明け渡せば城主の命も保証される慣例だった上、
経家は派遣された城将だったので切腹する必要はなかったようですが、
元春は経家を見殺しにしてしまった無念と織田軍への憎しみが逆に
「前代未聞」「当世の流行」という言葉を使わせたのかもしれません。

 

中世・近世

 

チーズを大砲に詰めて撃った

アメリカのジョン・コウ海軍大尉が指揮するウルグアイ艦隊が、イギリスのウィリアム・ブラウン提督に率いられたアルゼンチン艦隊と大西洋上で遭遇、交戦。ルグアイ艦隊の弾丸が尽きたので、コウ大尉は固くなって食べることが出来ない丸いチーズを「大砲に詰めて撃て」
と、やけになって発砲を命じた。
不思議な弾丸がいっせいに撃ち込まれたアルゼンチン艦隊は射程外に全速力で逃げた。

 

スーツはもともと英国貴族の軍服

左胸だけにポケットがある理由は、鉄板を入れて銃弾から心臓を守っていた切り口の名残。
ーツの左襟に空いている穴、あれはもともと軍服が襟を立てて着る詰め襟のような形をしていた時のボタンホールで、襟を開けて着るようになったことから、単なる飾りとして残り、パーティーなどの時に花を挿すフラワーホールになった。

 

銃弾同士がぶつかった物が見つかった

西南戦争では銃弾同士がぶつかった物が見つかったぐらい激しい銃撃戦だったらしい。
アメリカの南北戦争でも銃弾がぶつかってくっつきあったものがあり博物館に実物がある。
で、怪しい伝説って番組で検証してみたら、見事にくっついた。

 

古代ローマには火炎放射機があった

6世紀頃から東地中海では、古代ギリシャ・ローマ以来の造船技術を受け継いだ東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が、火炎放射器ギリシャの火を持つ戦艦デュロモイを擁して海上の覇権を握った。

 

ギリシア火薬

門外不出の軍事機密だったもんだから、国の滅亡と共に技術が失われて製造方法がわかっていないらしい。

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