寝床
旦那 | 佐兵衛や、佐兵衛はまだ帰らないかい? 帰ったらすぐにあたしのところへよこして下さい。 おい、定や、今日は大勢お客さんがお見えになるんだから、あたらしい揃いの座布団を出しときなさいよ、いいかい。ぺちゃんこの擦り切れたようなのを出すんじゃないよ、ふっくらとして、脚が痛くならないのを出しておくれ。今日は長丁場なんだから...高座の前にちゃんと並べて敷いておくんだ。 え、なに? 師匠がお見えンなった? では奥へお通しして、お茶を差し上げてお待ちいただきなさい。お菓子や何かはいいかい? お菓子、届いたのかい? 料理の方は? うんうん、仕出し屋から料理も届いたし、料理人も来てる...あぁ、そっちの方は抜かりはないな... そうそう、さらしを五反ばかりと生卵を二十ほど用意しておくれ...え? 「さらしと卵で怪我人ですか?」 お前、ナニをバカなことを云ってるんだい? ちょいと一尺ほど前へお出なさい、いいかい、義太夫と云うものは下っ腹から声を出すんで、腹に力が入る。それで腹にさらしを巻くんじゃないか。卵は息継ぎに飲むんだ。お前、あたしんちの奉公人だろう、それくらいのことは心得ておいてくれなきゃ困るよ、まったく... 見台のしたくはできましたか? よしよし、きょうはこないだできて来たばっかりの、あの見台でみっちり語りましょう。 おー、あー、ア~...うぅー、どうも声の調子がよくないな...ウー、どうも昼の御膳のおかずが少し辛かったのがよくなかったねぇ...定、定吉や、師匠にそう云っとくれ。旦那が少しのどの調子がよろしくないので、調子を一本がたまけてくださいって... なに? 佐兵衛が帰って来た? あっ、ごくろう、ごくろう。いゃぁ、疲れたろう、まぁ、こっちへおいで |
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佐兵衛 | へぇ、遅くなりまして、あいすいません...お長屋をすっかり回って参りましたので... |
旦那 | いや、ご苦労様。お前さんのことだから手落ちはなかったろうと思うけど、提灯屋へは行ってくれたろうね...この前のときには定吉が知らせるのを忘れちまったもんだから、提灯屋のやつにいやみを云われちまったよ。 「旦那様、どうしてあたくしにだけ結構なお浄瑠璃をお聞かせくださいませんので」なんてな |
佐兵衛 | はい、そのようなことのございませんよう、提灯屋さんには一番始めにまいりました |
旦那 | そうかい。提灯屋、喜んだろう |
佐兵衛 | へぇ、大変にお喜びでございましたが、なんでも開業式の提灯を引き受けてしまいまして、今夜は夜明かしをしても仕上げなきゃならないそうで、まことに残念ではございますが、また次の機会に、ということでございました |
旦那 | おや、そうかい...そりゃぁ気の毒なことをしたなぁ。せっかく義太夫が好きだというのに運の悪いやつだよ、まったく...あたしが義太夫を語ろうってぇときにゃいつも聞かれないんだから...まぁ、いい。あいつの元気付けに、こんど差し向かいでたっぷり聞かせてやるから。今度合ったらそう云っといておくれ。 で、荒物屋はどうしたい? |
佐兵衛 | はい、荒物屋さんはおかみさんが臨月でございまして、今朝方から産気付きまして、いまにも生まれるという騒ぎで、それをうっちゃって義太夫を聞きにうかがったということが知れますと、親戚が何かとうるさいので、せっかくの催しでございますが、旦那によろしくとのことでございました |
旦那 | お産じゃぁ、仕方あるまい。金物屋はどうした? |
佐兵衛 | なんですか、今晩無尽がございまして、初回は自分がもらいになるということだそうでございまして、それを不参しては皆さんに申し訳ないので、まことに失礼ながらお浄瑠璃の会には欠席させていただきますから、旦那によろしく伝えて下さい、とのことでございました |
旦那 | まぁ、そういうのっぴきならない用ならしかたあるまい。で、豆腐屋は? |
佐兵衛 | 豆腐屋さんでは、お得意に年回がございまして、生揚げとがんもどきを八百五十ばかり請合ったとかで、家中でおおわらわにやっておりますが、なかなかはかがいかないようで... 生揚げの方は手軽にできるのでございますが、がんもどきの方がなかなか手数のかかるものでございまして...と申しますのが、蓮にゴボウに紫蘇の実なんてぇものがはいります。蓮は皮を剥きまして、これを細かにいたしまして使うだけなのでございますが、ゴボウは何しろこれが皮が厚うございますので、包丁で撫でるように剥きまして、そのあとであくだしをします。紫蘇の使い方が一番面倒なんだそうで...紫蘇の実がある時分はよろしいんでございますが、無いときには漬物屋から塩漬けンなっているものを買って参りまして、これを塩出ししてから使うんでございますが、この塩出しの加減が難しゅうございまして、あんまり塩出しをし過ぎますと水っぽくなってすっかり味が落ちてしまいますし、と申しまして、塩出しをしませんと、塩っ辛いがんもどきができあがるという... |
旦那 | おいおい、だれががんもどきの作り方の講釈を頼みました? 豆腐屋は今晩、聞きに来るのか来ないのか、それを聞いてるんじゃないか |
佐兵衛 | えぇ、そのう...そんな訳でございますから、お伺いできないのでよろしく、ということなんで... |
旦那 | そんならそうと始めからそう云えばいいじゃないか。ごぼうのあく抜きがどうの、紫蘇の塩出しがどうのって、余計なことを云うもんじゃないよ。じゃぁ、鳶頭(かしら)はどうなんだ? えぇ? 鳶頭は |
佐兵衛 | 鳶頭は、そのう...成田の講中に揉め事がおこりまして、どうしても成田山まで行かなきゃ話しがまとまらない、というようなわけで、明日の朝、五時の一番列車で成田へ出発しますから、今晩のところはどうかご勘弁願いたい、ということなんで... |
旦那 | 吉兵衛はどうした? |
佐兵衛 | 吉兵衛さんのところへまいりましたら、吉兵衛さんの申しますには、「どうもまことにすみませんけれども、昨晩から疝気で腰がまるで伸ばせません。さきほども便所へ入っていたような始末で、とても上がることはできませんから、旦那様によろしく申し上げてくれ」とこういうことで、もっとも車椅子にでも乗ったら行かれないこともあるまい、と申しますが、いかがいたしましょう |
旦那 | 車椅子にのるような病人が来って仕方あるまい...裏の吉田の息子はどうした? |
佐兵衛 | ...吉田さんの息子さんは、今日は商用で横須賀へいっていらっしゃいます。たぶん、お帰りは終列車か、ことによると明日になろうということでして...もっともあちら様にはおっかさんがございます。しかし、ご存知のようにどうにも耳が遠くて... |
旦那 | なんだ、聞こえない人が来てどうするんだ...で、いったい長屋のものは誰が来るんだ? |
佐兵衛 | へぇ...どうも、お気の毒さまで... |
旦那 | そんならそうで、始めからそう云えばいいじゃないか。えぇ!? 何がお気の毒様だ! じゃぁ、長屋の連中は誰も来ないんだな! えぇ、お前さん、いったいいくつになンなさる? いちいち、あの方はこういう訳で、この方はこういう訳で、と、どうしてそんな無駄なことばかり云ってるんだい? 「長屋を回りましたが、皆さんご用事でおいでになれません」と、一言云えば済む話しじゃないか...まったく、これから気を付けなさい...まぁ、長屋の連中が来られないとすれば、せっかく用意もしたことだから、店の者だけで語ります...と、そう云えば、さっきから店の者の姿が見えないが...番頭の藤兵衛はどうしたィ? |
佐兵衛 | へぇ、一番番頭さんは、ゆうべお客様のお相手で、はしご酒が過ぎまして、申し訳ないが、二日酔いで頭が割れそうだと、表二階で臥せっておいてでございます |
旦那 | 金助はどうした? |
佐兵衛 | 金どんは、ちょうど夕方でございました。伯父がひどく具合が悪いから、という知らせがございまして、もう歳が歳だから、これきり逢えないかもしれないから、ちょと逢ってきたいと申しますので、それじゃぁちょうどお店も早くしまったから、ちょっと逢いに行ってきたらよかろうと、出してやりました |
旦那 | 梅吉はどうした? |
佐兵衛 | 梅どんは...脚気でございますので、失礼をさせていただく、と... |
旦那 | 脚気は脚の病だろう。それがどうして義太夫が聞けない? |
佐兵衛 | えぇ、梅どんはあのとおり普段から礼儀正しい男でございます。脚気だからと云って、旦那のお嬢瑠璃を足を投げ出してうかがうことはできないから、休ませていただきたいと... |
旦那 | 武蔵はどうした? |
佐兵衛 | ええ、武どんは...でございます..さっき物干しへあがってふとんを干しておりましたが、「武どん、旦那の義太夫だよ」ともうしましたところ、「えっ!」とさけんで転げ落ちまして、足をくじいてウンウンうなっております |
旦那 | 弥太郎はどうした? |
佐兵衛 | えぇ...えぇっと、弥太どんは... |
旦那 | なんだ、その「ええっと」ってのは... |
佐兵衛 | 弥太どんは...そのぅ...なんでございます...実は、あれなんでございます、まったく...そのぅ、実に下らないことンなっちまいまして...つまり、これだからこういう訳で...あの、どういう訳にしましょう? |
旦那 | なんだ? どういう訳にしましょう、たぁ? |
佐兵衛 | いいぇ、何にいたしましても...眼病というような次第で... |
旦那 | おい、眼病てぇのは眼が悪いんじゃないのかい? |
佐兵衛 | へい、さようで。眼が悪いのが眼病、脳病が頭で、胃腸病がお腹の病い... |
旦那 | また、そうやって余計なことを云う! いいかい、おかしいじゃないか。耳が悪くって義太夫が聞かれないというのならわかるが、眼が悪くて義太夫が聞けないとはどういう訳なんだ? |
佐兵衛 | ええ...あの...これが同じ音曲でも、小唄や歌沢ならよろしゅうございますが、義太夫と云うものは音曲の司と申しますくらいで、大変なものでございます、えぇ、まして旦那様の義太夫はことのほか精を込めてお語りになりますので、悲しいところへまいりますと、堪らなく涙がでて、堪え様もありません。涙と云うものは眼に熱をもって毒だから、これはいっそ初めからうかがわないほうがよかろうというわけでございまして... |
旦那 | ばあやはどうしたィ? |
佐兵衛 | ばあやさんは、冷え込みでお腹が痛むと申しまして、坊ちゃんと早くから休んでおります |
旦那 | 家内の姿が見えないようだが、どうしてます? |
佐兵衛 | お、おかみさんは、今夜は旦那の義太夫があるということを申し上げましたら、二、三日実家へ行って来るとおっしゃいまして、お嬢ちゃんを抱いてお出かけで... |
旦那 | 佐兵衛、お前さんはどうなんだぃ? |
佐兵衛 | へ? |
旦那 | へ、じゃないよ。お前だよ。佐兵衛、お前さんはどうなんだよ |
佐兵衛 | へぇ、あたくしは...もう、そのぅ...お長屋をずっと回って参りまして...えぇ、たったひとりでございます、えぇ...誰の助けも借りずに立派に回って参りました...いや、なーに、別に疲れたというほどのことは... |
旦那 | だから、回ってきたのは分かってるんだ。お前さんはどこが悪いか、と聞いてるんじゃないか |
佐兵衛 | へぇ、ご承知の通り、あたくしは子供のときからまことに丈夫で、薬一服いただいたとはないという、因果な性分で |
旦那 | なんだと? 丈夫で、薬一服いただかないのが、因果な性分だァ? ふざけるんじゃないよ! 薬一服飲まないなんて、こんな結構なことはあるまい。それを因果な性分だとはなんだ! |
佐兵衛 | えぇ、申し訳ございません。ご立腹とは恐れ入ります。えぇ...もう、よろしゅうございます...よろしゅうございますとも...あたくし、十分に覚悟を決めました |
旦那 | なんだ、なんだ、その、ぐぐっと身を乗り出して来て...覚悟を決めたてぇなぁ、何だ |
佐兵衛 | えぇ、あたくしひとりで旦那様の義太夫を受けて立ちます。うかがえばよろしいんでございましょ。いいえ、あたくし、幸いにも家に年老いた両親がいるというでなし、身寄りともうしましては兄が一人いるだけの、まことに身軽な身の上でございます。さきほども申しました通り、薬一服いただいたことのない丈夫な体でございます。義太夫の一段や二段、くらったところでどれほどの障りがあるはずもございません...あたくしがうかがいさえすればよろしいんでございましょう...ぐすっ...さぁ、うかがいましょう...どうぞ...ううっ...お語りを... |
旦那 | バカ野郎! なにも泣くこたぁないだろう? 実にどうも呆れ返ったもんだ。いや、よろしい。わかった、わかりましたよ! 語りません。止すよ。止しますよ。 おいおい、師匠にそう云っとくれ「急に模様変えになりましたので、また後日ということにしまして、今日のところはお引き取りを願います」とお詫びして帰っていただくんだ。 いいや! みなの気持ちは、もう、骨身に染みて、よーくわかりました。あたしの義太夫が聞きたくないもんだから、長屋の連中が用事だと云ったり、店の連中が仮病を使ったりするんだろう...もうよくわかったから、これからは決して語りません...ああ、語りませんとも...悪かったね、みんなに迷惑をかけて...しかし、どうも呆れ返った連中だ。義太夫の人情と云うものがわからねぇかねぇ... 荒物屋じゃぁまた赤ん坊ができるんだって? あすこのうちくらい、子供ばっかりつくるうちはないね。四季にはらんでやがらぁ、他にするこたぁねぇのかねぇ。まるで野良猫だよ。 金物屋の鉄五郎、またあいつみたいに無尽の好きなやつはないね。のべつ無尽だ、無尽だって騒いでやがる。ああいうやつがネズミ講の会社やなんざこしらえて、世間様にご迷惑をかけるんだ。今のうちに、人のいねぇ島 (無尽講と無人島の駄洒落) にでも流しちまえ! それに鳶頭(かしら)も鳶頭だ。成田へ一番に発つからうかがえないとはなんてぇ言い草だ? そんなに成田山がありがたかったら、困ったときには、成田山へでも行って借金でもなんでもしやがれ! えぇ、毎年毎年、暮れンなると決まってうちへ金借りに来るんだから...いいたかないけど、その時にはあたしがいっぺんだって嫌な顔をしたことがあるかい? ふざけるんじゃないよ、まったく! |
佐兵衛 | まことに、さようで... |
旦那 | おい、お前さん、よくお聞きよ。いいかい、義太夫と云うものは、昔のりっぱな作者が心を込めて書き上げたものなんだよ。一段のうちに喜怒哀楽の情がこもっていて、読むだけでもまことに結構なものなんだ。それに、かりにもあたしが節を付けて聞かせてやってるんじゃないか... |
? | いや、節がつくだけ情けねぇ... |
旦那 | なんだ? 節がつくだけ情けねぇだと? 誰だ、そんなこと云うのは... そりゃぁ、あたしは素人だ。本職の太夫衆のようにはうまく語れやしない。だから、みなさんをお呼びしたって、ちゃんと、ご馳走をして、金なんざとりゃぁしない... |
? | これで金取りゃぁ、強盗だ... |
旦那 | だれだ? こっちへ出てきて云え! 陰でこそこそ云うんじゃないよ! ...おい、佐兵衛、もういっぺん長屋を回って来ておくれ。明日のお昼までにお長屋を残らず空けてくださいまし、とそう云って... |
佐兵衛 | えっ? い、いや、旦那様...それはあまりにも乱暴な... |
旦那 | 何が乱暴だい? 義太夫の人情が分からないような連中に貸しておけないから立ち退いてくれ、と云うんじゃないか。店の連中だってそうだ。あたしのうちにいると、まずい義太夫の一段も聞かなきゃならない。まぁ、たいへんにお気の毒だから、暇をとってもらおうじゃないか。 もう義太夫は語らないんだから、湯なんざ庭へでも撒いちまいな! 菓子なんか捨ててしまえ! 料理なんか犬にでも食わしてしまえ!見台なんか踏み潰せ! |
どうも大変な剣幕で、旦那は奥へ入っておしまいになった。義太夫を聞かないために長屋のものは店立てを食うし、店の者は暇が出るというのですから、どうも穏やかじゃない。そこで、佐兵衛さんがもう一度長屋を回って、なんとか聞きに来てくれるようにと頼んで歩きました。
佐兵衛 | えぇ、旦那様、旦那様 |
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旦那 | 佐兵衛か! なんだ!? |
佐兵衛 | あのう...ただいま、店がごたごたとしておりますので、何事か、と思いましてわたくしが店へ参りましたところが、長屋のもの達がぞろぞろと揃って参りまして... 「何事だい、いったい何をしに来たんだい?」と尋ねましたところが、 「今日は義太夫の会はないのでございましょうか」と聞くじゃございませんか。あたくしも腹が立ちまして、 「子供の使いじゃあるまいし、あたしがさっき行ったときには断っておきながら、いまさらなんでおいでなすった?」と申しましたところが、 「いや、それは番頭さん、わたくしたちの勘違いでございました。尾浄瑠璃の会があるということですから、また昨年の暮れのように、いろんな方が入れ替わりでお語りになるのだろうと思ったんでございます。この間のときは、歳をとった歯抜けの方が、ウガウガとなんだか云うこともハッキリわからないで、蚊の鳴くような声を出して語りましたし、その次のでっぷりと太った方が割れ鐘を引き裂くような声を出したので、あれにみんな当てられてしまいまして...あの方がまた語るのなでは、とお断わりしたような訳でして。ところが小僧さんに聞きますと、旦那様おひとりの会だということでございますので、それならば、長屋の連中みなうかがいたいものだ、と云って参りました」 と、こういうじゃぁございませんか。 |
旦那 | ふん...それがどうしたんです? |
佐兵衛 | そういうことでございまして、ほんのさわりだけでもいいからうかがいたい、と申しているんでございます。そう申して、わざわざ集まっているものをむざむざと帰すのも哀れなことで、お心持ちの悪いところは、手前がなりかわってお詫び申し上げます。なんでもよろしいんでございます。一段でも、半分でも、ほんのさわりだけでも結構でございますので、お語り願います |
旦那 | ふん、あたしゃご免こうむるよ。えぇ、なぜって...そうだろう。お前なんかにゃ分かるまいがね、芸というものは、こっちで語りましょう、向こうで聞きましょう、と双方の意気がぴたりと合わなきゃやれるもんじゃないよ。こんな気の抜けたときに語れるもんか。みんなに帰ってもらいな |
佐兵衛 | そう...ではございましょうが、そこをひとつまげて...あたくしが間に入って往生いたしますので...ねぇ、旦那様、そんな芸惜しみなさらないで... |
旦那 | ほう、お前さん、妙なことを云うねぇ。あたしがいつ芸惜しみをしました? あたしの身にもなってごらん。語れると思うかい? まぁ、あたしだって、好きなことだから、これで止めるというんじゃないよ。気が進まないから勘弁して欲しい、とそう云ってるんだよ。だから、長屋のみなさんには、またの機会に、ということで帰ってもらっておくれ |
佐兵衛 | しかし、旦那様、みな、せめて一段でも聞かなくては帰らない、と、そう申しておりますので、このまま帰しましてはあまりに気の毒で... |
旦那 | おまえはねぇ、そう云うけれども、いまさら面白くないじゃぁないか、えぇ? なに? あたしがもったいつけてるって? そりゃ下衆の勘繰りというものだよ。ナにもあたしの芸はそれほどのものじゃ...え? なんだい? どうしても聞かないうちは帰らないてぇのかい? よわったねぇ、どうも...みながそう云うのかい? うふふ、うふふふ...またァ...みんな好きだねぇ、どうも...えぇ、まったく、そうかい? そんなにお前さんが困るのかい? お前さんを困らせる訳にもいかないねぇ。よし、今回だけはお前さんの顔を立てて、一段だけ語ることにしようじゃないか |
佐兵衛 | ぜひそういうことに願います |
旦那 | そうと決まれば、あたしがみなさんにお目通りしよう。そうだ。定吉に云って、師匠にしたくするようにお願いして...なに、もうお帰しした? 帰しちゃいけませんよ。すぐに迎えにやっとくれ。なんなら人力 (人力車の略) を頼んで...お湯はどうした? |
武蔵 | えぇ、庭に撒くのはもったいないと存じまして、久蔵がフンドシをつけております |
旦那 | おいおい、何をやってんだよ。もう一度沸かしておくれ。それから、料理やお菓子はどうなった? |
武蔵 | もう店の者がいただいてしまいました |
旦那 | 早いねぇ、どうも...うちの店の連中は不思議だねぇ。こういうことってのはすぐに手がまわるんだから...こういうことは云い出してから一時くらいは待つもんだよ。さっそくまた用意して下さいよ...おやおや、お長屋のみなさん、さぁ、こっちへどうぞ。さあ、ご遠慮なくずーっと前のほうへ... |
提灯屋 | えぇ、こんばんわ |
金物屋 | えぇ、こんばんわ |
旦那 | はいはい、こんばんわ |
豆腐屋 | ええ、こんばんわ。えぇ、今夜は旦那様の結構なお浄瑠璃の会にお招きにあずかりまして、ありがとうございます |
旦那 | いいえ、どういたしまして...まぁ、そんな窮屈な挨拶は抜きにして、たいしたおもてなしもできませんが、ゆっくりと遊んでいって下さいよ...どうぞ、前のほうへ...え? ここ? ここはあたしの楽屋。へへっ、芸人のほかは入るべからず... おや、豆腐屋さん、あなた、たいそう忙しいそうじゃないか。よく来て下さったねぇ |
豆腐屋 | はい、実は手前どもは徹夜仕事をしなければならないんでございますが、旦那様もご存知の通り、手前は義太夫が三度のおまんまよりも好きでございます。今ごろは旦那様が何を語っていらっしゃるか、と思いますと、もう仕事が手につきません。がんもどきをまっ黒にしてしまったり、生揚げを生のまま出してしまったりと...家内が見かねまして、麹町に家内の弟が豆腐屋を営んでおりまして、これを手伝いに呼びまして、ようやくうかがうことができましたような次第で...まことにありがとうございます |
旦那 | いやぁ、これは恐れ入った! いえ、あなたが義太夫好きだということは知ってるけれど、手代わりを頼んでまで来てくれるとは思わなかった...嬉しいよ...うん、うん、ありがとうよ! おかみさんの弟さん、あたしの方から手間代くらいのことはさせていただくよ...いや、きっとそうさせておくれ。でないと、あたしの気が済まないじゃないか。それほど無理して来てくれたとなると、本当に張り合いがあるよ。今晩は一段だの、二段だのというわけにはいかないよ。ひとつ、みっちりと語りましょう! |
豆腐屋 | うっ...うへぇ...あ、ありがとうございます... |
0 | えぇ、こんばんわ |
鳶の頭 | こんばんわ |
旦那 | おや、どうもみなさん、ごくろうさま...おや、鳶頭、みえたね。お前さん、成田へ行くんじゃなかったのかい? |
鳶の頭 | へぇ、そうなんでござんすが、さっき兄弟分の熊のやつがちょうとうちへ寄りましたんで、わけを話しますと、熊のやろう「おれが代わりに行ってはなしをつけてこよう」ともうしますんで。あいつなら、することにそつがござんせんから、安心して任せましたようなわけで...旦那の義太夫を聞くのも浮世の義理...いや、その浮世の義理人情てぇものは、旦那の義太夫を聞かなきゃわからねぇ。ねぇ、そうでござんしょ...だいいち、旦那の義太夫てぇものは、どうしてあんな声が出るんだ...人間業じゃねぇ、あれだけマヌケな声てぇものは...いや、あの結構な声てぇものは、じつにどうも凄まじいというか、恐ろしいというか...いや、いろいろいとご馳走様で... |
旦那 | なんだい、云うことがさっぱりわからないじゃないか。まぁ、いいや。早く向こうへ行って、聞き役に回っとくれ |
提灯屋 | どうも、ご苦労様 |
---|---|
豆腐屋 | いえ、お互いに、たいへんな災難で... |
提灯屋 | いや、それにしても驚きましたねぇ...いきなり店立てだっていうんだから...ふだんはこんないい旦那はありませんよ。あたしんとこなんか、お金が無いといつも無利息無証文で貸して下さるんだから...それでいて店賃の催促をするわけじゃなし、たまに持ってくと「子供に何か買っておやり」なんてそっくり返してくれることもあるんだからねぇ...あんないい旦那が、義太夫になると、人相までがガラリ変わって鬼ンなっちまうんだから、義太夫てぇものは恐ろしい... |
豆腐屋 | あたしゃ思うんだが、これは何かの祟りじゃないかねぇ... |
提灯屋 | 祟り? |
豆腐屋 | ひょっとしたらこのうちの先祖が義太夫語りかなにかを絞め殺したんじゃないかねぇ |
鳶の頭 | あぁ、そうだよ。きっとそうに違げぇねぇや。祟りってぇものは恐ろしいや |
豆腐屋 | その祟りでもなけりゃぁ、あんな不思議な声が出る訳がないよ。声が悪いとか、変わった声だとか、そういうんじゃないんだ。なんてたとえればいいんだろうねぇ...真夜中、丑三つ時に上野の動物園の裏を通りかかると、ああいう声が聞こえるね。河馬がうなされたときの声だ。なにしろ人間に出せる声じゃない。この声と云えば、気の毒なのが横丁の隠居だよ。この前の会で、旦那の義太夫を聞いて患っちまったんだから... |
鳶の頭 | えぇっ、そんなことがあったのかい? |
豆腐屋 | あぁ...この前の会が終わって帰ったら、大変な熱だ。医者に診てもらったんだが、どうしても原因がわからない。なにか心当たりはないか、と調べてみると、義太夫を聞いてから熱が出たというので、医者が云うには「義太熱」だって... |
金物屋 | 義太熱? そんなものがあるのかい? |
豆腐屋 | いや、その医者が新発見の病気だてぇんで、博士号をもらったそうだ |
金物屋 | たいへんなものだねぇ、どうも... |
荒物屋 | 今度はあたしは、気がさっぱりするように仁丹を持ってきました |
豆腐屋 | そりゃぁいいや。あたしにも少し分けて下さいな |
荒物屋 | さぁさぁ、どうぞどうぞ...お互いに、被害は少しでも食い止めませんと、あしたの仕事に差し支えますからね...おや、提灯屋さんもなにか予防薬をお持ちですね |
提灯屋 | えぇ、薬じゃありませんが、あたしゃ防災頭巾を... |
荒物屋 | 地震じゃないんだよ... |
豆腐屋 | いやいや、防災頭巾とは、いい考えかもしれない。みなさん、義太夫が始まったら、頭を下げるほうがいいですよ。頭の上を声が通っていっちまうから...というのが、うっかりあの声の直撃を受けると危ないんだ。いやいや、冗談じゃないんだよ。というのが、あの金物屋の鉄五郎さんの胸のあざ、あれは旦那の声で受けた名誉の負傷の後だってぇ噂ですよ |
鳶の頭 | 本当かい? 鉄っつぁん、本当...命懸けだねぇ...冗談じゃねぇや |
吉田の息子 | どうもみなさん、遅れまして、申し訳ございません |
豆腐屋 | おや、吉田さんの息子さん。あなた、横須賀へいってらっしゃったんじゃ... |
吉田の息子 | はい、ただいま戻りましたところで... |
豆腐屋 | おや...あなた、どうしたんです? 涙ぐんで... |
吉田の息子 | はい...みなさん、まことにあいすいませんが、あたくしにもしものことがありましたら、うちの母に詫び言をしていただきたいと...そのことだけが案じられまして... |
豆腐屋 | なにかあったのかい? |
吉田の息子 | はい。あたくしは商用で横須賀へ行っていたんでございますが、なんだかお昼ごろから胸騒ぎがいたしまして、どうも気になりますので急いで帰って参りますと、ちょうど母が箪笥から羽織を出しておりました。 「おっかさん、寒気でもしますか」と尋ねましたところが、「これからお家主様のお浄瑠璃をうかがいにいくのだよ」 と申すじゃございませんか! ...もう、それを聞きましたときの...あたくしの驚き...まるで袈裟懸けに斬りつけられたような気持ちで...ですから 「おっかさん、なんてことを! そんなことをなすって、もしものことがあったらどうするんです」と云いますと、 「いったんはお断わりをしたけれども、二度目に佐兵衛さんが回っていらっしゃって、浄瑠璃を聞かないなら店を空けろとおっしゃるから、行かなければならないのさ。どうせあたしは耳が遠いのだから、ろくに聞こえないから大丈夫」と申します。ですから、あたくし云ってやりました。 「お母さん、あなた耳が聞こえ難いから、と安心していてはとんでもないことになります。あの旦那の義太夫と云うものは少しくらい耳が遠いくらいで防ぎ切れるものではない。あの義太夫は耳からではなく、肌からじかに染み込んで、はらわたに効くものなんです。。なにしろ、死人が驚いて棺桶から手足を突き出して、カメノコのように這って逃げたという話しがあるくらいだから」あたくしも母の命には代えられませんので、そう申しましたところが、 「浄瑠璃を語らないときにはまことに結構な旦那様で、『お前のせがれは親孝行で先々見込みがあるから、あたしがきっとどうにかしてやる』といつも親切におっしゃってくださるから、お前の将来のこともお願いしてあるんだよ。の旦那のお側を離れるとなるとお前の将来が案じられてならない。あたしはもう老い先短い身、どうなろうとかまやしないが、お前はこれから旦那様に引き立てていただかなければならないのだから、あたしはどうしても浄瑠璃を聞きにゆかねばならない」と申します。ですから、 「おっかさん、なんてことを...とりわけ、きょうは風邪気味で熱がおありのところへ、旦那の義太夫を聞いては身がもちません。あたくしが代わりにまいります」と云いますと、母はいつになくたいそう腹を立てまして 「出世前のお前にあんな浄瑠璃を聞かせるくらいなら、あたしはこんなにお前のことで苦労しやしない。お前が聞きに行ってもしものことがあったら、ご先祖様の位牌に申し開きが立たないじゃないか! 何にしてもあたしが行って来るから...」 と申しますので、さんざん争いまして、もったいないこと、とは思いながら、無理矢理に母を引き止めまして、あたくしが外へ飛び出し...門口をあかないように表から打ち付けて参りました... あたくし、今まで一度だって母に...ううっ...母に逆らうような親不孝は...一度だって...ございませんのに、あぁ、なんとすまないことをしてしまったのか...これというのもみな、あの義太夫からおこったことで、この頃では衛生、衛生と申しまして、こういうことは身体に悪い、ああいうことは衛生によくないと、いろいろとお達しが参りますのに、どうして旦那の義太夫だけは野放しになっているのでございましょう! |
豆腐屋 | くぅぅっ、泣けるねぇ...旦那の義太夫なんかよりよっぽど泣けるよ、えぇ。 お前さん、そんなことは親子喧嘩なんて云わない。お互いの身を気遣ってのことなんだから、おっかさんだって怒っちゃいないよ。もし無事にすんだらあたしがいっしょにわびて上げるから...なにも、ううっ...泣くことはないよ あぁ、お膳が出て来た。グスッ...さぁ! みなさん、景気付けにいただこうじゃありませんか。なにしろ気分が沈んだまま浄瑠璃を聞いたら、なお身体によくない。 豆腐屋さん、あなたなかなか行ける口でしたね。あたしがお酌しましょう。さあ、ひとついかがです? そうだ、杯なんかじゃいけませんよ。その湯飲みがいい。こういうときは、なるべく大きなもので、がぶ飲みをして神経を麻痺させちまうのに限りますから...えぇ、あたしもやりますよ。お互いにどんどんやろうじゃありませんか... あぁ、こりゃいいお酒だ。よく吟味してあるからものが違う。うん、いいお酒だ。実にたいしたものだ。こんないいお酒を出して、料理を出して...うん、この料理だって、たいしたもんだよ。ちゃんと料理番が入ってるんだから... え? なに? ご馳走だけで、義太夫が無ければいいって? ...それは云いっこ無しだよ。そんなことはみな、分かってんだよ。楽あれば苦あり、ということで堪え忍ぼうとしてるんだから、云ったって仕方の無いことは云うのよそうじゃないか...おや、提灯屋さん、お前さん、甘党でしたか? |
提灯屋 | えぇ、皆さんがお酒を召し上がってるそばで甘いものをいただいちゃ悪いんですが、あたしは、なにしろ奈良漬で酔っ払っちゃうくらいで、実に我ながらだらしない...そのかわり、甘いものには目が無いんで...見るとついつい、つままずにゃいられません...あっ、始まった...始まりましたよ。 あぁ...ど、どうです? 実に、すごい声だねぇ。あの声を出したいためにこれだけのご馳走をするんだから、実に因果な話しだ...なんかあたりの空気がビリビリ震えてるねぇ...さあさあ、みなさん、頭を下げて、グーッと低くならなくちゃ... |
豆腐屋 | 低くなるのはいいけれど、仮にもこうしてご馳走になってるんだから、誉めなくちゃいけませんよ |
提灯屋 | ほめる? 何を? あの義太夫を? あなた、気でも違ったのかい? どこを誉めようってんですよ |
豆腐屋 | そんな事を云わずに、ねぇ、何事も前世の因縁と諦めて、お互い誉めましょうよ |
提灯屋 | そうですか...それじゃお先に...いゃ、面倒くさいことは先に済ませちまいたいだけで...ようよう、うまいぞ、日本一! うまい、美味いぞ、お刺し身! |
豆腐屋 | 刺し身を誉めちゃいけねぇ |
鳶の頭 | ようよう、女殺し、人殺し! |
豆腐屋 | おいおい、人殺しはひど過ぎるよ |
鳶の頭 | へっ、ナニ云ったって分かるもんかい。掛け声さえかかってりゃ向こうは誉めてると思ってんだから...ようよう! 動物園、ケダモノッ! 河馬の寝言ッ! どうする、どうするッ、ラァラァラァーイッ |
もう、みんなヤケクソですな。
いっぽうの旦那の方は、もう語り始めたが最後、夢中になってしまいまして、三味線の間もなにもあったもんじゃない。ただ、ギュッと眼をつぶりまして、ぐわぁっ、ぐぇぇぇっ、とがなりたてるばかり。集まった連中は、うまい、うまいと呑んで、食って、そのうちに腹の皮が突っ張ると、目の皮がたるむ。ひとり、ふたりとゴロリと横になり、みんな寝てしまった。
旦那の方は、しばらく語っているうちに、前がシーンと静まり返ったので、感にたえて聞いているんだろうと、ひょぃと御簾を上げてみて驚いた。みんなごろごろと寝てしまって、ひどいヤツは人の足を枕にしていびきをかいている。もう旦那は怒ったの何の。頭から湯気を立てて、
旦那 | 師匠、師匠! 三味線止めて下さい! なんて呆れ返ったヤツらだ! 静かになったと思ったら、みんな寝てやがる! なんだい、番頭なんぞ、鼻から提灯出して...おい、番頭、番頭ッ! |
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番頭 | 美味い...日本一... |
旦那 | ナニが日本一だ! 寝ぼけやがって...義太夫はお終いだ。いいかげんにしろ! いいか、番頭! 皆さんがお眠気がさしてきたら、お茶でも入れたり、お澗でもつけたりしてお起こしするのがお前の役目じゃないか。それがまっさきに寝るやつがあるか! みんな、もう起きて帰っておくれ! 帰れ、帰れ! うちは宿屋じゃないんだ。ごろごろ寝ちまいやがって、なんてぇ無作法な連中だ。店のやつらも早く寝たらいいだろう。明日残らず暇を出すから、えぇ!? ひとりだって芸の分かるやつはいやしない! ひとりだって... だれだ、だれだい、そこで泣いてるのは...なんだ、定吉じゃないか。なにを泣いてるんだ? え? 悲しゅうございます? そうか、よし、こっちへおいで。泣くんじゃない、泣くんじゃないよ。 おい、番頭、お前さん、恥ずかしくないかい? いい年をして...こんな小さな定吉が義太夫を聞いて、身につまされて悲しいと泣いてるんじゃないか... 定吉や、さあさあ、こっちィおいで。いやぁ、感心なものだ。お前だけだ、あたしの芸が分かるのは...あたしゃ嬉しいよ。お前だけでもよく聞いてくれていてな。で、どこが悲しかった? お前は子供だから、きっと子供の出るところか? 『馬方三吉子別れ』か? |
定吉 | そんなんじゃない、そんなんじゃない |
旦那 | じゃぁ、『宗五郎の子別れ』か? え? 違う? ああ『先代萩』か? |
定吉 | そんなんじゃない、そんなんじゃない |
旦那 | さあ、泣いてばかりいないで、云ってごらん。どこが悲しかった? |
定吉 | あそこでございます、あそこでございます |
旦那 | あそこ? あそこはあたしが義太夫を語った床じゃないか |
定吉 | へい、あそこがあたしの寝床でございます |
引用元:「東西落語特選」
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/
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