ちはやぶる
無学者は論に負けず、と申します。よく知らないことを知ったような顔をして、恥をかく、ということは誰にもよくあることでございます。
八五郎 | 先生、こんちわ |
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先生 | はい...あぁ、八っつぁんか。久しぶりじゃないか。よく来たねぇ |
八五郎 | いやぁ、それが、あんまりよくねぇんで。ことによっちゃぁ、あっしゃぁ、夜逃げしなきゃならねぇかも知れねぇんで... |
先生 | 夜逃げ? こりゃ穏やかじゃないねぇ。どうしたんだい。訳を云ってごらん |
八五郎 | へぃ、実はね、あっしンところの娘っこなんですがねぇ... |
先生 | あぁ、小さい頃、うちの前でよく遊んでいたななぁ。親に似ず、可愛い子だ |
八五郎 | へぃ、それがねぇ、近頃、変なものに凝っちまいましてね... |
先生 | なんだい? なにに凝ったんだい? |
八五郎 | いえ...それが、ね...なんてんでしょうねぇ、あの...正月ンなるとよくやるでしょ...みんなで、さぁ、トグロ巻いて、パッパッと札ァばら撒いてさぁ、で、ひとりが「なんとかの~なんとかがなんとかでぇ~」てな、訳のわからねぇ都都逸唄ってねぇ、周りの奴等が札ァふんだくり合うってぇ、あいつなんで... |
先生 | お前さん、そりゃぁ百人一首じゃないか? |
八五郎 | へえ、その一首なんで。で、あの中に色男の唄があるでしょ |
先生 | 色男? まぁ、百人一首の中で色男と云えば、在原業平か? |
八五郎 | そうそう、そのヒラ公でさぁ...そのヒラヒラの唄なんですがね... |
先生 | ヒラヒラと云うやつがあるかい。まぁ、業平の歌と云えば... 千早振ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くくるとは... だな |
八五郎 | それ! それなんっすよ。いゃぁ、さすがは先生って呼ばれて高慢なツラぁしてるだけのこたァあらぁ! |
先生 | おい、八っつぁん、なんてぇ言い草だ、そりゃ |
八五郎 | いや、こっちの話しで...で、その唄なんですよ、あっしの夜逃げのわけってぇのは... |
先生 | え? この歌で夜逃げをする? ちょいと待ちなよ。この歌はずっと昔に作られた、たいそう有名な歌だ。この歌で夜逃げしなきゃならないとしたら、日本中夜逃げだらけンなっちまう。どうして、この歌で夜逃げなんかしなきゃならないんだい? |
八五郎 | へい、よくぞ聞いてくださんした... |
先生 | 芝居がかってきたねぇ |
八五郎 | いえね、あっしがさっき仕事から帰ったら、うちの娘のヤツが、この唄のわけを教えろって云うんですよ |
先生 | 教えてやったらいいじゃないか |
八五郎 | いや、先生はそう簡単におっしゃいますがね、あっしゃぁ自慢じゃねぇが、学と名のつくものはこっから先もねぇんで。都都逸なら少しぁ知ってますがね、こんな小難しい唄、まるっきりお手上げなんで。でもね、あっしもウソでも親でござんすからね、わからねぇってぇのも癪に障るじゃござんせんか。だからね、「おとっつぁんは、いま、仕事から帰ったばかりじゃねぇか。疲れ直しにちょっくら湯へ行って来る」って云ってうちを出て来たんですよ。ま、こうしてるうちにあの娘ァ帰っちまうだろう、と思って、いまうちを覗いたら、まだいるじゃぁねぇですか。よく考えたら、あっしの娘だから、嫁に行くまで、まだ当分うちにいるんですよ... |
先生 | 当たり前じゃないか |
八五郎 | そうなると、こっちゃぁうちへ帰ることもできゃしねぇ。こうなったら、もう、夜逃げしか残っちゃいねぇんですよ... |
先生 | 何を云ってるんだい。つまり、早い話しが、歌の訳が分からないから、夜逃げしようって云うんだろう。つまり、その訳が分かれば夜逃げなんぞしなくていい寸法じゃないか |
八五郎 | だって...あっしは...先生、教えてくれるんですかぃ? どういう唄なんです? |
先生 | えっ? どういう...ったって、それはお前さん、その...千早振るってんだろ? |
八五郎 | へぇ... |
先生 | 千早振るっていうから、神代も聞かないんだよ。そうなるとどうしたって竜田川だ。つまりからくれないだな。そうなりゃ終いにはみずくぐるとは、ということになる |
八五郎 | 先生...それじゃ唄の文句を切れ切れに云っただけじゃねぇですか...助けると思って、ちゃんと分かるように教えて下さいよ。ねぇ、どういうわけなんです? |
先生 | いや、お前さん、どういうわけか、なんて...そ、そんな...ははっ、バカだなぁ、お前さん、いいかい...千早振る神代もきかず竜田川...じゃないか、えぇ? 千早振る、あぁ、神代もきかず竜田川、あ、こりゃこりゃ... |
八五郎 | 合いの手入れたってわかりゃしません。じらさないで、教えて下さいよ |
先生 | だいいち、お前さんは、この竜田川をないがしろにしている。竜田川ってぇのはなんだと思う? |
八五郎 | いや、ないがしろもなにも、わからねぇから聞きに来てるんで。竜田川だか竜田揚げだか知りませんけどねぇ、自慢じゃねぇが丸っきりわからねぇ |
先生 | だから、素人考えでもいいから何か云ってごらんよ、えぇ? 人間には想像力てぇものがあるんだから。竜田川ってぇくらいだから、川の名前だと思うだろう? えぇ、どうだい? 思うだろう? 川の名前だと思いなよ |
八五郎 | じゃぁ、思います |
先生 | はは、そこが畜生のあさましさ |
八五郎 | なんだよ、ひどい云われようだねぇ...先生がそう思えって云ったんじゃないですか。じゃ、いったい何なんですよ、その竜田川てぇのは |
先生 | これはな、何を隠そう、相撲取りの名だ |
八五郎 | へぇ? 竜田川? あんまり聞いたことがありませんねぇ |
先生 | そりゃそうだ。これはもう何十年も前、江戸時代に活躍した力士だ。大関にまで昇り詰めたたいそう立派な力士だ |
八五郎 | へぇ、そりゃ大したもんだ |
先生 | 強いったって、初めから強いわけじゃない。この人も相撲取りンなったからにゃぁ何とか三役になりたいってんで、神信心をして、五年のあいだ女を断った。その甲斐あって大関と云うところまで出世した |
八五郎 | へぇ、そりゃ大変だ。あっしなんざ、五年は愚か、五日だってもちゃしませんよ |
先生 | まぁ、お前さんはそんなもんだろうなぁ...ま、なにせ竜田川は大関にまで出世して、そのお陰で贔屓もたくさんできた、人気は上がる一方だ。そんなある日のこと、贔屓の衆に連れられて吉原へ夜桜見物だ。遊郭てぇものはただでさえ明かりの入るのが早い。両側の茶屋は昼をあざむくばかりだ。月は満月。桜は盛り。げに不夜城の名、空しからず、実に見事だ。お前に一目、見せてやりたかったぞ |
八五郎 | へぇ...先生は見たんですかい? |
先生 | わしも見ない |
八五郎 | なんだよ、締まらねぇ... |
先生 | そのとき、花魁道中ってぇのが通りかかった。第一番にナニ屋の某、第二番にナニ屋の某と、先を争い飾り競って出てくるのは、いずれ劣らぬ花比べだ。お前に見せてやりたかったぞ |
八五郎 | 先生は見ないんでしょ |
先生 | ...ま、とにかくだ。第三番目にあたって、辺りを払うばかりの一文字、一際目立つあで姿、いま全盛の千早太夫だ |
八五郎 | よっ! |
先生 | チャンラン、チャンラン、チャンラン... |
八五郎 | なんですよ、それは... |
先生 | これは清掻きという三味線の音だ |
八五郎 | へぇ、色んなのが入るんですねぇ |
先生 | まぁ、そんなこんなで、だ。これが竜田川と千早太夫との出会いだ。竜田川は千早太夫の姿を一目見ると、思わずブルブルと震えて、その震えが三日三晩止まらなかったそうだ |
八五郎 | まぁ、ねぇ。いい女を見るってぇと、あっしも震い付きたくなりますからねぇ。そりゃ武者震いってぇやつでしょ |
先生 | まぁ、ちょっと違うがナぁ...で、竜田川は思った。 「あぁ、世の中にはあんないい女がいたのか...おれも男と生まれたからには、たとえ一晩でも、ああいう美女と、しみじみと杯のやり取りもしたいし、話しもしたてみたい」 と...このことを知った贔屓の衆のひとりが、 「あれは売り物だ。金を積めばどうにでもなる」 と云って掛け合ってみたんだが、これが太夫ともなると、「大名のお遊び道具」と云ったくらいでな、職人だの、芸人だの、相撲取りだののところには出ない。それでも竜田川、惚れた弱みで通い詰めたんだが、ずっと振られ通し...この千早太夫の妹女郎で神代太夫というのがいてな、これがちょいと千早に面ざしが似ているから、この神代に話しをつけようとしたが、神代も「姉さんの嫌なものは、わちきも嫌でありんす」 と、これも云うことをきいてくれなかった |
八五郎 | へぇ...女郎買いに行って振られて帰るなんてぇのは、そりゃぁ切ねぇもんですぜ |
先生 | そうだ。せっかく大関に登り詰めても、惚れた女ひとり口説くこともできなかった...力士を続けるのが嫌ンなったんだな。振られつづけの竜田川は、相撲を止めて豆腐屋になった |
八五郎 | へぇ? なんですよ、それ。おかしいじゃねぇですか。振られてやけになったからって、なんで豆腐屋なんですよ? |
先生 | この竜田川の故郷の商売が豆腐屋だったんだなぁ...年老いた両親は喜んだ。 「せがれや、よう帰って来てくれた。これからは家で一所懸命に仕事に精出しておくれ」「はい、これからは親孝行いたします」 ということンなった。 月日の経つのは早いもので、はや三年が夢のように過ぎ去ったな。ある秋の夕暮れのことだ。翌日の豆腐の豆を挽き終わった、竜田川が一服つけていると、黄昏の夕間暮れ、そぼろを身に纏った女乞食が竹の杖にすがって、ひょろひょろとやってきた。 「二、三日、なにも口にしておりませぬゆえ、ひもじゅうてなりませぬ。どうぞ、お店先の卯の花など、少しばかりわけてはいただけませぬか」 ときた。もとより情け深い竜田川のこと、 「こんなものでよかったら、いくらでもお上がンなさい」 と、おからを握って差し出す。 「ありがとう存じます」 と受取ろうとする女乞食、見上げ、見下ろす、互いに見交わす顔と顔... |
八五郎 | イョーッ、チャンリンチャンリン、チャンリン |
先生 | 妙な合いの手を入れるんじゃないよ。で、この女乞食を、お前さんは誰だと思う? |
八五郎 | 誰なんです? |
先生 | これが、なんと、千早太夫のなれの果てなんだよ |
八五郎 | ちょっと、いい加減にして下さいよ。だって、そうじゃねぇか。先生の話し、聞いてっと、大関が急に豆腐屋ンなったり、全盛を極めた太夫が乞食ンなったり...なんだって乞食なんぞになるんですよ |
先生 | なったっていいだろ、本人がなりたいってんだから |
八五郎 | ほんとになりたいって云ったんですか? |
先生 | 云ったんだよ。人間てぇものはなりたいと思えば、本人の心がけ次第で何にでもなれるものだ。ことに乞食はなりやすいようにできている。なんなら紹介してやるから、お前さんも入門したら? |
八五郎 | あっしゃぁ結構です。へぇ、大工で十分で |
先生 | ま、しかし、因縁というものは恐ろしいものだな。女乞食にまで身を落とした千早が、こともあろうに竜田川の店先に立ったというのも何かの因縁だ...で、八っつぁんの前だが、お前さんならこのとき、千早に卯の花をやるか、やらないか |
八五郎 | あっしならやりませんね。癪に障るじゃありませんか |
先生 | そうだろ、わたしもやらない |
八五郎 | 関取はどうしました? |
先生 | 竜田川は烈火の如くに怒ったな。 「お前のお陰で、おれは大関の座を捨てたんだ!」 と、手に持った卯の花を地べたに叩き付けると、逃げようとする千早の胸をドーンと突いた |
八五郎 | へぇ |
先生 | 突いたのが関取衆の中でも大力無双と云われた竜田川、突かれたのが二、三日何も食ってない女乞食だ。ポーンと吹っ飛んじまったな |
八五郎 | へぇ、で、どこまで飛びました? |
先生 | 半町ほど向こうに土手があった。その土手へぶつかったと思うと、弾みでまた返って来たから、竜田川がまた突き返すと、土手へ飛んでいった千早はまた弾みで豆腐屋の前まで跳ねっ返って来た |
八五郎 | ゴムまりみてぇな女ですね |
先生 | 豆腐屋の前に柳の古木があった |
八五郎 | へぇ... |
先生 | で、大きな井戸がある。これは豆腐屋にゃ付き物だ |
八五郎 | なるほど... |
先生 | 千早はこの柳の幹に背中からドーンとあたると、そのまま井戸の側の地べたにペチャッと落ちた。この木を身の支えにして、半身を起こし、恨めしそうな眼で空を見上げていたが、前非を悔いたものか、口惜しさが昂じてか、はたまたナニも考えなかったものか、そこのところはよく分からないが、とうとう、井戸の中へドンブリコと身を投じて、はかなく息は絶えにけり...チャンチャンチャン、ときた |
八五郎 | こいつぁ面白くなって来た。これから、その井戸から千早の幽霊が出て、竜田川に仕返ししようってんでしょ |
先生 | いや、そんなことにはならない。話しはこれでおしまいだよ |
八五郎 | えっ? そんなバカな。だって、それじゃあんまりあっけないじゃねぇですか。千早が井戸に飛び込んでお終いだなんて... |
先生 | これでお終いなんだよ。くどいねぇ、お前さんは。いいかい。吉原で、千早に一目惚れした竜田川が千早のところへ通い詰めたが、振られちまったろ? だから、「千早振る」じゃないか |
八五郎 | えぇっ? なんだい? じゃ、何ですか、先生、いまの話しは、ありゃ、例の歌の話しなんですかィ? いゃぁ、あっしゃぁ、あの話しはもう終わっちまったのかと思ってました... |
先生 | なんだよ、お前さん、いったい何しにうちに来たんだよ。いいかい、千早が振った後で、妹分の神代に話しをつけようとしたが、神代も云うことを聞かなかったから「神代も聞かず、竜田川」となる。三年後に女乞食に落ちぶれた千早が、竜田川の豆腐屋の店先に立って「卯の花をくれ」つまり、おからをくれ、と云ったけれど、竜田川はやらなかったろう? だから「からくれない」じゃないか |
八五郎 | なるほど。いやぁ、おからくれない、とは気がつかなかった...で、あとは? |
先生 | 井戸へどぶーんと飛び込めば「水くぐるとは」じゃないか |
八五郎 | へぇ、こりゃ、理屈だ。そりゃぁどんなに身の軽い女だって、井戸へ飛び込みゃぁ、いっぺんくれぇは水をくぐりますよねぇ。それで、「水くぐるとは」か...しかし、あれですねぇ。水をくぐるってぇ話しなら、「水くぐる」でいいじゃぁねぇですか。なんなんです、その最後の「とは」ってのは。この「とは」のわけってぇのを教えて下さいよ |
先生 | お前さんもいじましい男だねぇ...「とは」くらいまけときなよ |
八五郎 | いいや、まかりゃしません。その「とは」はいかに? |
先生 | その「とは」てぇのは...後でよく調べてみたら、千早の本名だった |
引用元:「東西落語特選」
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/
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