千両みかん
今は季節感と言うものがありません。きゅうりなら一年中きゅうりがございます。
なんでもそうですな、とにかく一年中なんでもございます。
昔はそうではありませんでした。
「へぇー、初物だねぇ。はぁー、こういうのが出てくる季節になったんだねぇ」
うれしいもんでございました。かえってあの時分のほうが気分がよろしいございました。
その頃の噺でございまして...
主人 | あ、どうでした、番頭さん。 |
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番頭 | ええ、いま先生をお送りしてまいりました。先生のおっしゃるには、若旦那の病気は、でございますね、心の中になにか思いつめていることがある、それをかなえてやれば治る、とのお話なんでございますが... |
主人 | ああ、どの先生もそうおっしゃるんだ。でもあたしがきいてもあれは何も言わない...番頭さん、お前さん、あれが小さいときから遊んでくれたりして、お前さんにはよくなついてた...あたしゃ、お前さんになら話しをするような気がするんだ...番頭さん、すまないがお前さん、何とか聞き出してはくれないだろうか... |
番頭 | へい、おそれいります...かしこまりました、わたくしでお役に立ちますかどうか...じゃ、ちょっと行ってまいります... えー、若旦那、入りますよ... |
若旦那 | 番頭さん、このことだけはね、言っても到底かなえられない望みなんだよ。...言っても不孝、言わなくても不孝、...同じ不孝なら...ううぅっ...あたしの胸のうちにしまったままで...あの世へ行こうと... |
番頭 | 若旦那、バカなことおっしゃっちゃいけませんよ! とにかくあたしにおっしゃい。何が望みなんですか? 何を隠して... |
若旦那 | そんな大声を...頭に響くじゃないか...言うよ...言います...ああ、実はね、こう...艶々として... |
番頭 | 艶々と、ね。ハイハイ |
若旦那 | 艶々として、こう...ふっくらと... |
番頭 | ふっくらとして、色白なんでしょう? えぇ? なよなよとして、柳腰で... |
若旦那 | そうじゃないよ、あたしが言ってるのは女の人のことじゃないよ |
番頭 | じゃ、なんなんです? |
若旦那 | ...みかん... |
番頭 | ...み...かん? |
若旦那 | そう、みかん...が食べたいんだ......あぁぁ... |
番頭 | みかん、ってあのみかんですか? 黄色くって、皮剥くと中が房んなってて、食べると甘酸っぱい...あのみかん? |
若旦那 | ああ、お前さん、なんて残酷なことを言うんだい...忘れよう、忘れようとしても忘れられなくて寝付いてるっていうのに...房んなってるだなんて...グスッ、甘酸っぱいだなんて...ううぅぅっ... |
番頭 | な... 何を言ってるんですよ。これだけの身代(しんだい)をした大店(おおだな)の若旦那が、みかんが食べたくて寝込んでたんですか!? |
若旦那 | ...お前さん、 か、か...買っておくれかい? |
番頭 | おくれですよ、大おくれですよ! そんなものくらいで若旦那の病気が治るんなら、この部屋をみかん詰めにして差し上げますよ |
若旦那 | ば、番頭さん、本当かい? あたしをだまして面白がってるんじゃないだろうね... 本当に!!ああ、みかん! お前さん、本当にみかんを買ってくれるんだね! ああぁ...みかんが食べられると思っただけで、気分がよくなってきた...ああぁ... |
番頭 | 若旦那、ちょっと鏡でもご覧なさいな、そんなヒゲ面で、髪もボサボサで。笑われますよ。湯にでも入って、茶漬けでも食べて、しゃんとしてください。みかんでしょ、買ってきますよ。艶々としたの。楽しみに待っててください... ヘヘッ、大きくなったと思ってもまだ子供だねぇ。こんな小さかった頃とちっとも変わりゃしねぇや。みかんが欲しいよーっなんて、だだコネて...寝込んで...へへっ えー、旦那様、行ってまいりました |
主人 | あぁ、ば、番頭さん、あれは...せ、せがれは何か言いましたか? |
番頭 | それが、聞いてみると大笑いでございますよ。最初のうちは「言うも不孝、言わぬも不孝...」とか「胸のうちに秘めたままあの世へ」とか訳の分からんことをおっしゃってましたが、わたくしが問いただしましたところが、頬をぽーっと赤くして「みかんが食べたい」などと... |
主人 | み...みかん...ああぁ...何て...親不孝なことを... |
番頭 | 旦那様、しっかりしてくださいまし、何をおっしゃるんですか、みかんですよ、みかん、そんなものいくらでも... |
主人 | あるかい? |
番頭 | へ? |
主人 | 今、いつだとお思いかい? |
番頭 | いつって......あ、土用のさなかだ...みかん、ありませんなぁ... |
主人 | お前さんこそしっかりしておくれよ! ま、まさか、買ってやる、なんて言ったんじゃ...言ったのかい?...言った!? いいかい、お医者様はね、心の臓が弱ってる、今のままだと今月いっぱい持たないとおっしゃってるんだ。それがお前、みかん買ってやるなんて安請け合いして、挙げ句に「やっぱりありませんでした...」、なんて言ったらどうなると思う? そのまま「うっ」と、いっちゃったらどうするんだい!? |
番頭 | いや、あの... |
主人 | その時は、あたしゃお前さんを許さないよ! 逆縁ながら(父が息子の敵を討つこと)敵討ちだ、あたしゃ お前を主殺しで訴えますよ |
番頭 | そ、そんな...無茶な! |
主人 | 無茶は承知の上だよ! 主殺しは天下の大罪、いま日本橋にさらし首が出てるだろう。お前もああなるんだよ。それが嫌なら みかんを探しておいで! |
番頭 | ハ...ハイッ! |
番頭 | ハア、ハア、暑い...汗でじばんがびちょびちょだよ、もう何軒回ったろう...なんて間抜けな...土用の最中にみかんがあるわけなかった...とにかく、ここらの店で...あの、 |
店主 | へいッ、ナニを差し上げやしょうッ! |
番頭 | あの、みかん |
店主 | みか...ん? 夏みかんで...? |
番頭 | いや、ふつうの、みかん |
店主 | あの、みかん、ですかい? ああ(空を見上げる)、この陽気だからなぁ、気がおかしくならねえ方がどうかしてるけど...ちょっと、あんた、これあげるからさ、これ「すいか」、わかる? そっちの日陰でゆっくり食って頭冷やしな |
番頭 | ...さよなら...ああ、気が触れたと思うだろうなぁ。この陽気でみかん探して歩いてるなんて誰が本気にするだろう...ああ、暑い... |
番頭さん、その後も江戸の街をあてどもなくさまよいつづけ、とうとう日も暮れようかという頃に一軒の大きな果物問屋に行き当たります。ここがだめだったら、もうどうにでもなれ、という気持ちで案内を請うと、
店主 | みかん...あるかもしれません。ちょっとごいっしょにきていただけますか。これ、誰か。ああ、お前、みかんの蔵をあけますよ。支度をなさい。さ、こちらへ |
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番頭 | ふぇぇー、み、み、み、み、み、み、み、み、みかんがございますのでございますのでございますかァァァッ! |
店主 | イヤ、あるかどうかは、見てみなくては分かりません。ま、ちょ、ちょっと落ち着いて |
番頭さんが案内されたその店の奥にはいくつもの蔵が並んでいて、その一つの前で手代やら丁稚たちが戸口に貼られた目張りをはがしている。やがてギリギリと音を立てて扉が開くと、蔵の中からひんやりとした風とともに、...みかんの香りが漂ってくる。
番頭 | み、み、み、み、みかんの~っ!! |
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店主 | さ、試しに一つ、箱を開けてご覧。...ああ、これは酷い... |
番頭さんの前で開かれた木箱の中にぎっしり詰まったみかんは見事に腐って、とても食べられるありさまではありません。
店主 | 次はどうだい...ああ、これも...これもだめか... |
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開ける、腐っている、開ける、腐っているの繰り返しで、見る見るうちに腐ったみかんの山が出来てしまい、とうとう最後の一箱になってしまいました
店主 | ご覧のように、これが最後です。これがだめなら今年はみかんはありません。さ、開けておくれ。...ほう、これは...いくらか形になってますな。どれ、わたしが見てみましょう。...おお、これは、あ、お尻が腐って...これもだめ、これも、あ、これは... |
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箱の隅に、たった一個だけ、無傷のみかんが見つかった
番頭 | そ、そ、そ、それーっ! 売って、売って、売ってーーーーーっ! |
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店主 | ちょ、ちょっと落ち着いて。商売ですからもちろん売ります。買っていただけなければ私どもも商いが成り立ちません。しかし、どうしてそうみかんがお要りようで |
番頭 | よくぞ聞いてくださいました! 実は... |
店主 | はあ、お宅の若旦那さんが、...みかんが食べたいばっかりに...明日をも知れない病気に...いや、これはよい話を聞かせていただきました。わたくしどもみかんを商うものとして商い冥利に尽きるとはまさにこのこと! それほどに思っていただければみかんも幸せ。このみかん、ぜひ若旦那さんに食べていただきたい。もうお代は結構です。どうぞ、若旦那さんに...ちょっとでも速く... |
番頭 | いや、...いやいや、とんでもない、いただくと言うわけには参りません。私どもも商人(あきんど)でございます。うちも江戸界隈で少しは知られた身代でございます。お金に糸目を付けると言うことはございません。季節外れのみかん、お高いのは承知の上でございます。どうぞお代をおっしゃってくださいまし |
店主 | いや、そんなことはどうでもけっこうで...いや、わたしはこのみかんを若旦那に食べて欲しいと...いや...えぇ? いや、あんたも強情なお人だねェ。そこまで、そこまでおっしゃる!? ...分かりました。そうまでおっしゃるのならわたくしも商人。損をする商いをするわけにはいきません。どうしても値をつけろとおっしゃるなら、そのみかん、千両でお買い上げいただきます |
番頭 | 千両!? せんりょう~っ! 人の足元見て...よくまぁそこまで悪どいことを... |
店主 | もし!...人聞きの悪いことを言われては困ります。...私どもこの江戸で少しは名の知れた果物問屋。いつお客様が「みかんを」とおっしゃっておいでても、暖簾(のれん)の手前「無い」と申すわけには参りません。そこで蔵一つを無駄にし、蔵一杯のみかんを無駄にして、こうしてみかんを貯えています。毎年やってます。 この蔵にいくつのみかんが入っているかお分かりですか? 千個どころじゃすみませんよ。季節外れのみかん、高いのは承知とあなたおっしゃった。ひとつ一両としたら、全部でいくらになりますかな。 わたくし、差し上げると申しました。 あげると言った。 それをあなた様がどうしても買うとおっしゃる。 ならばみかん一つの値は蔵一つのみかんの値とおなじ 一つ千両、びた一文、まかりゃしません! |
番頭 | ...ご...ごもっともです...おっしゃる通りでございます... ...もうよろしいんです...わたくしがさらし首になれば済むことでございます...主に話してまいります... |
主人 | おお、番頭さん、どうだった、みかん、あったかい? |
番頭 | ...ございました |
主人 | ああ、ご苦労さん、ありがとう、さっそくせがれに食べさせてやって... |
番頭 | それが... それが、でございます。その値、...というものが、...最初はくれるとおっしゃってくれたんでございます。それが、わたくしがちょっと意固地なことを申したばっかりに、値が付いてしまいました。その値が、...申し訳ございません...千両...と |
主人 | 安いッ! |
番頭 | へ!? |
主人 | 季節外れのみかんが高いのは当たり前。それでせがれの命が買えるなら、 丁稚! 表に大八車を回しなさい、千両箱をこれへェェェーーッ! |
番頭 | ああ、なにがなんだか分からない。みかん一個に千両だなんて...旦那、行ってまいりました。 |
主人 | おおおおおぉぉぉぉっ、こッれがそのみかんかい。ありがとう、番頭さん。昼間は主殺しだなんてお前さんを脅かして悪かったね。子供可愛さに親はすぐにバカになる。許しておくれ。これはお前さんのお手柄だ。さ、さ、せがれにみかんをとどけてやっておくれ。お前さんの手から渡してやっておくれ... |
番頭 | はい...いてまいります... |
若旦那 | ああ、番頭さん、みかんが手に入ったんだって? ああ、これがみかん、夢にまで見たみかん! |
番頭 | 若旦那、患ってる人にこんなこと言わなくていいんですけど、親御さんのご恩を忘れなさんなよ。それいくらしたと思います。せ、千両ですよ、千両... |
若旦那 | ああ、そうだろうね |
番頭 | ...ああ...あたしひとり驚いてるのかい? ...ああ、皮を剥きますか...あの皮だって二、三十両はするんだろうなぁ...いくら入ってますか? 十房! ひとつ百両だ... ああ、食べますか、百両、二百両...ああ |
若旦那 | うるさいねぇ、番頭さん...でも、今日は本当にご苦労さん、大変だったろう。ここに三房のみかんが残った。ひとつはおとっつぁん、ひとつはおっかさんに上げておくれ。それからもうひとつは、番頭さん、お前さんにあげるよ。 |
番頭 | ええっ、こんな高価なものを、わたくしにもいただけるんですか!? グスッ、ありがとうございます。いただきます! ああ、みかんが三房...、一房百両だから、...三房で三百両だよ。みかんが千両、...三房が三百両かぁ... ,ああぁ...おれがこの店に奉公に来たのが十四の年だった...あれからもう四十年になる。来年には年(ねん)があける(定年のようなもの)。そしたら、暖簾(のれん)分けで「ごくろうさま」って渡されるのがせいぜい四十両そこそこか。...まちがっても五十両にはならないな... 三百両。今、おれの手の中に三百両が... 二度と手の上に乗るかどうかわからない...三百... ああ、旦那... 申し訳ございません...あたしゃ... 太く短く生きますからっ! |
三房のみかんをもったまま、番頭、どっかへ行っちゃった...
引用元:「東西落語特選」
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/
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