紺屋高尾
昔と今とではいろいろと変わりましたけど、病気なんかでもまるでなくなっちゃったなんてのがありまして、恋患いなんてのはこれはもう、今は聞こうにも聞けない、見ようにも見られやしませんからな。昔々は、女の人というものは好きな人がいても「好きだ」なんて言えやしませんで、それが胸にこもって恋患いになったってんですがね。
今の女の人はそんなこたぁありゃぁしません。わりとハキハキものを言いますからな。
昔の女の人、むか~~しの噺でございます...なんて、そんなに力を入れることはないんですが。お話の舞台は江戸でございまして、江戸の神田に紺屋町という、染物屋さんがずらーっと並んでいるところがございます。ここに長兵衛さんというおおきなお店がございましてね、ここのお店の久蔵さんという若い衆さんが具合が悪くなったてんで、
先生 | どうしたぃ? 親方、誰か具合が悪いって? |
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親方 | そうなんですよ、先生、ご存知の久蔵、あいつがここんとこ具合が悪いって、飯も食わないで寝たままなんっすよ |
先生 | あぁ、久さんか、そりゃかわいそうに。よしよし、あたしが見舞ってあげよう。え、二階に寝てる? いいよ、いいよ、病人ってものは人が来ると気を使うものだ。あたし一人で、いいよ、様子は分かってる。ええーと...なんだい、久さん、寝てるのかと思ったら、なんか起きて見てるな。おい、久さん、どうしたぃ? 具合が悪いって、親方が心配してるよ...おい、久さん、久さん...なんだ、夢中になって見てるな。おい、久さん、久さん! |
久蔵 | わっ...あ、こりゃ、先生ですか...こんちわ |
先生 | こんちわじゃないよ。具合が悪いって、どんな按配だ。 |
久蔵 | へぇ...こ、こ、こんな按配なんです |
先生 | そんな妙な顔して見せたって分かりゃしないよ。親方が心配しているから、あたしが診察してあげよう。脈を診るから、ちょっと手を出しなよ |
久蔵 | いや、脈なんかありません |
先生 | 無きゃ死んじゃうよ。いいから、素直に手を出しなさいよ...あぁ、脈はしっかりしてるな。口を開いてベロをお出し...あぁ、長いベロだ...ハッハッハ、そうか。久さん、お前さんの病気、当ててみようか。恋患いだろ。ハッハッハ、赤くなったな。惚れた女も当ててみようか。そうだな、どこそこの娘さんてぇわけじゃないな。いま吉原で全盛を誇っている三浦屋の高尾太夫と見たが、どうだ! |
久蔵 | あれぇ!? 先生、よく当たりますねぇ。近所じゃ藪だ藪だって評判だけど。 |
先生 | おい、言いにくいことをハッキリいいなさんなよ。ヘッヘッヘ、まぁ、タネを明かせば簡単なんだが、いまあたしが上がってきて、声をかけても知らん顔でなんか見てる。何だろう、と思って肩越しにひょいと見たら、高尾花魁の絵姿に見入ってた。声をかけたら慌てて布団の下に隠したろ。まだ顔が半分出てらぁ |
久蔵 | あ...あぁ、これねぇ...へへへ、へへへ...先生、見ますか? |
先生 | そんなもの、見たってしゃぁねぇやな。何があったんだよ、言ってごらんよ。何だい、恥ずかしがらずに言ってごらん。なんだよ。 |
久蔵 | ...じゃ、先生、内緒の話なんですけど、聞いてくださいな。あっしね、今年、二十六になるんですよ。 |
先生 | ほう。若くていいな。 |
久蔵 | いやぁ、若か無いんすよ。このうちの年季が明けたらどうしようかなって思ってたら、あたし、叔父さんがいるんっすよ。千住の先の竹ノ塚ってところにね。で、その叔父さんが 「年が明けたらおれんとこにこい。おれが面倒を見てやる。おれの近所で商売でも始めろ。おれも身寄りのものが近くにいると心強いから」 とそう言うもんですからね、じゃぁ、そうしようかなぁ、ってね、仲間のものに相談したんっすよ。そしたらね、 「お前、田舎に引っ込んじまったら、江戸見物もできねぇぞ。今のうちに江戸見物しよう、手始めにどうだ、吉原へいこう」 ってんですよ。あっしゃ、嫌だって言ったんですよ。親方に言われてましてねぇ。 「ああいうところへ行って、悪い病気でも引き受けちまったら、一生うだつがあがらないよ、行っちゃいけないよ」 ってんですから、嫌だって言ったんですけどね、そしたら 「なに、遊ばなくてもいいんだよ、見物だけだから、一緒においでよ」 ってんで、連れてってもらったんですよ。夜桜見物。 きれいでしたねぇ。あの中ノ町ってんですか、両側にお茶屋がずらーっと並んでて、ぼんぼりやら提灯やらがいっぱいついてて、まあ、真昼間のようですねぇ。道の真ん中に花が植わってる、桜の花が満開だ。その下でもって、花魁の道中ってぇのに出くわしたんです。ナニ屋の誰それ、どこ屋の何とかって、まぁ、この世の人とは思えねぇ、きれぇな人が後から後からやってくる。その中でひときわ目立ついい女。 「あぁ、いい女だなぁ。ありゃぁいったいなんてぇ人だい?」 ってったら、 「知らねぇのかい、ありゃぁ、いま全盛を誇っている三浦屋の高尾花魁だ」 「へぇ、きれいな人だなぁ。ああいうきれいな人と、一晩、差し向かいで話しなんかしたら、いい気持ちだろうなぁ」 ってったら、仲間たちが笑い出しましてね、 「馬鹿野郎、あの女はなぁ、おめえたち相手になんかするんじゃねぇんだ。ありゃぁな、『大名道具』っていってな、お大名やお大尽じゃなきゃぁ相手にゃしやしねぇ。おめえなんざ、その辺でもって三百女郎でも買え!」 なんて言われちゃって、そんなもんかなぁ、って思って、帰りに浅草の仲見世通ったんです。そしたらこの花魁の絵姿売ってたんで、これ買って来たんっす。クスン...これ見てるうちに、花魁に会いたくて会いたくて...それからは...飯食おうと思うと、茶碗が花魁の顔に見える。仕事しようと思って刷毛ぇ持つと、刷毛が花魁の顔に見える。はばかり行ってしゃがむと...キン隠しが花魁の |
先生 | 汚ねぇものが花魁の顔に見えるねぇ、はぁ |
久蔵 | こうやって話ししてても、先生の顔が...花魁に... |
先生 | おいおい、ハッハッハ、こりゃ大変だ、このヒゲ面が花魁に見えるか? ハッハッハ、こりゃ重症だなぁ、えぇ、そうかい。分かった分かった。しかし、久さん、お前さんもうぶというか、世間知らずだなぁ、えぇ、お前さんが惚れた相手というのが、どこそこのお嬢様、御大家の方というのなら、身分が違うから諦めろ、とあたしゃ言うよ。しかし、お前さんが惚れたのは花魁だろ、花魁ていやぁ、売り物買い物なんだよ。お前さん、そんなに惚れてんなら、金出して花魁買ったらいいだろう。 |
久蔵 | だって...大名じゃなきゃ相手にしないって... |
先生 | いやぁ、そんなこたぁ無いんだよ。建前はそうなってる、だけど、銭だけ出しゃぁちゃんと相手してくれるんだよ、あぁ、本当は金が欲しいんだよ。本音と建前とは違うってぇのは世間どこでもおんなじだよ。金出して買いな! |
久蔵 | そうですかねぇ...それで、花魁ってぇのはどのくらい金出したら買えるんですか? |
先生 | そうさなぁ...ま、おれの知ってるところへ頼んで、初回馴染みってぇ扱いで一晩十両だな。 |
久蔵 | じ、十両!? そんなに高い... |
先生 | お前さんだってお給金稼いでるだろう? |
久蔵 | そ、そりゃ、稼いじゃいますけどね |
先生 | いくらだ? |
久蔵 | 三両です |
先生 | あぁ、月三両か |
久蔵 | いや...年三両です。 |
先生 | ね、年三両!? こりゃぁ大変だ...いやいや、久さん、何も諦めるこたぁないよ。お前さん、その金、貯めなさい。三年間ためりゃぁ九両になる。九両になったらあたしが一両足して十両にしてやろうじゃないか。えぇ、花魁にあわせてやろうじゃないか。どうだい、それだけの辛抱をしてみるかい? |
久蔵 | 三年経ったら...会えますか? |
先生 | あぁ、会えるよ。あの花魁が三年くらいで年季があけるわけが無い。もし万が一、いい人ができて花魁がひかされるようなことがあったら、あたしも江戸っ子だ、どんなことしたって、借金したってお前さんを吉原へ連れてって、花魁に会わしてやる。どうだい、三年、辛抱してみないか |
久蔵 | ほんとですか、先生、ありがとうございます。三年経ったら会えるんだ...と思ったらなんか、胸がスーッとしてきちゃって、おなかが空いてきたような気がするんですよ。先生、なんか食べたほうがいいですかねぇ。 |
先生 | 何が食べたい |
久蔵 | えーと...天丼を八つばかり... |
先生 | そんなに食べちゃいけないよ。ハッハッハ、まぁ、しっかりおしよ |
と、先生、親方に耳打ちして帰ったんですね。久さん、胸のつかえが取れたところへお薬がはいったものですから、すっかり元気になっちゃって、さあ、これから一所懸命になって働いた。一年で三両、二年で六両、三年で九両ってんですからねぇ、気の長い話しですよ。まぁ、早い話が三年経った明くる年の春でございます。
親方 | おーい、久蔵、ちょっと来い |
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久蔵 | へーい、親方、なんか御用っすか? |
親方 | おう、いいからちょっとここ座れ。えー、豪儀なもんだなぁ、お前の給金が三年のあいだ預かりになってるよ。えぇ、九両貯まった。昔からよく言うよ。九両三分二朱までははした金。これにあと二朱足して十両ってぇことになると、これは大金と、こういうことになる。お前がよく働いた、この働きに愛でて、おれが一両足して、十両にしてやろうじゃねぇか、えぇ? この金、どうすんだい? |
久蔵 | えぇ、買いたいものがあるんっすよ。 |
親方 | あぁ、そうか。買いたいものがあるから、三年の間辛抱したのか、そうかそうか、そりゃぁ偉ぇなぁ。で、何買うんだ? |
久蔵 | えっ? ...え、ヘヘヘヘッ、ヘッ、い...いいもの! |
親方 | ...子供だよ、それじゃ。いいじゃないか、言いなよ、何買うんだよ |
久蔵 | いいじゃないっすか、親方、あっしが買うんだから、えぇ? あっしが稼いだ金であっしが買うんだから、何買おうといいでしょ? |
親方 | いや、そりゃいいけどさ、大金じゃないか。いいかい、おれぁ、お前のことを十一の歳から面倒見てるんだよ。おれの子供とおんなじなんだよ。第一、親方といえば親も同然、親が子供が大金を使おうってぇときに「何に使うんだ」って、親がきいたって間違いじゃねぇだろ。言ってみろよ |
久蔵 | ......エホンッ...フー...フゥーーーッ |
親方 | おいおい、野良犬じゃないんだよ、なんだい? |
久蔵 | クーッ、クーーーーッ、ダァーーーッ、ダガァァァァーウゥォッ...ッスヨ! |
親方 | な、なにぃ? |
久蔵 | タッ、タカオッかうんっすよッ |
親方 | タカ...を...買うぅ? そりゃぁ、止めた方がいいなぁ。いいか、鷹というのは猛禽といってなぁ、生餌じゃなきゃ育たねぇって言うよ。止めた方がいいよ、手間がかかってしゃぁねぇや! 十姉妹か目白にしといたらどうだ? |
久蔵 | と、鳥じゃねぇんっすよ! た、高尾花魁買いに行くんっすよ! |
親方 | 高尾花魁って、吉原の、三浦屋の高尾花魁か? ...はぁ、そうか!? いや、こりゃぁたいしたもんだなぁ、いやいや、おめえがこの金もって、その辺のいい加減な女に使っちゃうってぇんなら、おれはこの金、渡さないよ。じゃ、おめえ、ナニか、三年間働いて貯めた金で、大名道具、花魁を一晩買い占めようってぇのか!? ハハッ、こりゃぁ威勢がいいなぁ! おれぁ、そういうの大好きだよ! |
久蔵 | ヘヘッ、いっしょに行きますか? |
親方 | いやァ、おれはいいよ。しかし、おめぇ、一人で行けるのか? |
久蔵 | へぇ、あっし一人じゃないんで。あのね、お玉ケ池の先生があっしのこと連れてってくれるってんです。 |
親方 | あの医者先生がか? あぁ、あの先生なら心配ねぇ。あの先生はな、医者は下手糞だが女郎買いだけは日本一だからな。で、おめぇ、いつ出かけるつもりだ? |
久蔵 | へぇ、今晩にでもさっそく出かけようと思いまして |
親方 | そうかい、それじゃおめぇ、そのまんまじゃ出かけられねぇだろう。髪結い行って、湯行って、きれいンなって、磨いて来い、さっ、行って来い! ヘッヘッヘ...おぅ、オッカア、ちょっとこっち来い。ヘッヘッヘ、おめぇ、もうちょっと早くこっち来りゃあよかったんだよ。あの野郎、そう、久蔵。ヘッヘッヘ、三年前のこと、忘れてないんだよ。十両貯まったら吉原行きたいってんだけど、あの野郎、恥ずかしくてそのことが言えねぇんだよ。赤い顔したり青い顔したりして、面白かったよ。あぁ、今晩行くって言うんだよ、あぁ、行かせてやろう。こしらえしてやらなきゃいけねぇ。着るもの...いやいや、あいつの行李なんか見たって何もはいっちゃいねぇ。おれの着物出してやりな。あまり派手なものはいけねぇよ...結城? ヘヘッ、贅沢だねぇ。帯は...あぁ、それでいいだろう。それから履物も揃えといてやりなよ...あ、あぁ、その雪駄、あたしがまだ一度も足を入れてない...まぁ、いいや。履かしてやれ! あぁ、帰ってきた帰ってきた。ハハッ、テカテカになって帰ってきやがった。どうした? |
久蔵 | へっ、行ってきました。ヘヘッ、しばらく湯へ行ってなかったもんですから、だいぶ垢が溜まってました。糠袋十八個使っちゃった。もうツルツルになっちゃった |
親方 | ツルツルはいいが、鼻の頭が赤いなぁ、どうした? |
久蔵 | へぇ、垢が落ちないもんですから、軽石で擦っちゃったんですよ。 |
親方 | 鼻が無くなっちゃうじゃねぇか。まぁ、いいや。ちょっとこっち来い。ほら、この着物、来て行け |
久蔵 | えっ、この着物っすか!? うわぁ、きれいな...これ、あっしにくれるんですか? |
親方 | やりゃぁしないよ、一晩貸すだけだから、いいか、汚すんじゃないよ。いいか、分かったな...おいおい、ちょっと待て、その股座にぶらさがってるものは何だ?? |
久蔵 | これっすか? これ、ふんどしっすよ |
親方 | ふんどし? なんだ、染めたのか? |
久蔵 | いいえ、これね、一昨年の秋に締めて、まだいっぺんも水をくぐってねぇ、新品です |
親方 | 馬鹿野郎! 汚ねぇなぁおい、そんなものやってたら身体に悪いぞ |
久蔵 | へっへっへ、いや、ねぇ、去年くらいから、明日あたり雨かなぁってぇ具合になってくると、ジト~ットと |
親方 | うわぁ、だめだ! おっかあ、新しいの出してやれ! おーい、長吉、兄弟子の汚ねぇモノ、片付けろ! いや、だめだぞ、手で持てるようなシロモノじゃねぇ。ごみ取りで受け取って、火箸で摘んで...あとよーく焼いとけよ。おい、久蔵、なにやってんだ、おめぇ、もぞもぞと |
久蔵 | いや、ふんどしがうまく締められねぇんで...なんせ久しぶりで... |
親方 | おい、しっかりしろよ。ほら、こうしてギュッと...ほら、締まったよ |
久蔵 | へへっ、すいません...ついでに帯も締めてください...羽織の紐... |
親方 | お前、帰るときはどうやって帰ってくるんだよ! ...あぁ、馬子にも衣装とはよく言ったもんだ。なんとか形ができた。さ、そこへ座れ。さ、この中に十両入ってる。さあ、受け取れ |
久蔵 | へへっ、この中に十両はいってるんっすか? ......うわーーーぁ、入ってる入ってる...ね、ね、親方、今、日本中探しても十両持ってるなんてぁやつぁいないでしょうねぇ |
親方 | ...んー、まぁ...いないだろうなぁ。とにかく落とさないようにもってけ。でなぁ、本来なら先生におれからお願いしなきゃいけねぇところなんだが、おれぁ、ちょっと手が離せないから、お前から丁寧に、親方がよろしく申しておりました、と頼んどいてくれ。いいか、しっかりやってこい! |
久蔵 | へい、行ってまいります...あ、おかみさん、行ってきます! |
おかみさん | あぁ、きれいになったね。お前さん、花魁買いに行くんだって |
久蔵 | そうなんっすよ。帰りにぶら下げてきますから |
おかみさん | 納豆買いに行くんじゃないよ。しっかりおやり! |
久蔵 | へぃ、ありがとうございます。へっへっへ、先生、こんちわ! |
先生 | はい...おう、久さん、なんだい、たいそうおめかしして来たな、どうしたい? ...おっ、もう三年経ったか!? おう、十両! あぁ、はい、はい、わかった。分かったがな...親方は承知か? え? 「よろしくお願いします」と? そうか。うん、わかった! じゃぁ道々話をしよう。 どうしたもんかなぁ。いや、金はできた。金はできたが、紺屋の職人の久蔵...じゃぁ向こうが相手にしちゃぁくれないだろうなぁ、いや、そうだよ。元が分かっちゃったら、向こうだって相手にしにくいから。よし。ここはひとつ、芝居を打とう。野田とか流山に大金持ちがいるんだ。そうだな、お前は流山の御大尽てぇ触れ込みでいくからそのつもりでな |
久蔵 | はぁ、そうですか。流山の、大蛇ですか |
先生 | いや、大蛇じゃない。御大尽、金持ちだ |
久蔵 | はあはあはあ。十両あるから。 |
先生 | いや、十両くらいじゃ金持ちとは言えないがね、ま、ここには十両しか持ってないが、家へ帰れば何万両もあるってぇ顔をして、偉そうにふんぞりかえってなきゃいけないよ。 それからな、お前さん、あたしのことをよく先生、先生と呼ぶけれど、それはやめとくれ。あたしゃお前さんのところへ出入りの医者だから、お前さんはあたしのことを呼びつけにしなきゃいけない。 |
久蔵 | へぇ、呼びつけに...てぇことは、あたしは先生のことを「お玉が池!」って呼ぶわけですか? |
先生 | いや、お玉が池はあたしの住まいだよ。あたしには竹之内雄藩という名前がある。 |
久蔵 | へぇ、なるほど、よくできてますねぇ。藪だから竹ですか。へぇ |
先生 | いちいちくだらない事を言うんじゃないよ。いいかい、お前さん、あたしの顔を見て「たけのうちや」と呼ぶんだ。するとあたしが「はい、御大尽、なにか御用でございますか」とかなんとか言ったら、お前さんはあたしの顔を見ながらふんぞり返って「あいよ、あいよ」と顎でもって、こう、鷹揚にやりゃあいいんだ |
久蔵 | はは、あぁ、なるほど。へへへ、難しいもんですね。 |
先生 | いや、よろこんでちゃいけねぇ。ちょっとやってみなよ。 |
久蔵 | え、やるんっすか? |
先生 | やってごらんよ。顎でもって、「たけのうち、ゆうはん」と |
久蔵 | へぃ...た、たけ、たけたけ、たけたけたけたけたけ |
先生 | カエルだよ、それじゃ。落ち着いて、たけのうち、と言ってごらん |
久蔵 | へ、へい...タ、タケ、タケノーウチッ...ゆうめし! |
先生 | ゆうめしじゃないよ、雄藩だよ |
久蔵 | おんなじ |
先生 | 同じじゃないよ、たけのうち、ゆうはんと言ってごらんよ! |
久蔵 | たけ、たけのうち、ゆうはん! |
先生 | おう、言えたじゃないか。はい、御大尽、何か御用でございますか、そう言ったら? |
久蔵 | あ、あいよ、あいよ |
先生 | おう、なかなかうまいじゃないか |
久蔵 | 先生、すいません、もう一度稽古つけてくださいな |
先生 | そうかい、じゃやってごらん |
久蔵 | た、たけのうち、ゆうはん!? |
先生 | はい、御大尽、何か御用でございますか? |
久蔵 | あいよ、あいよ |
先生 | おお、だいぶうまくなってきた |
久蔵 | へへっ、うまくなったでしょ。たけのうち! ゆうはん! |
先生 | はい、御大尽、何か御用でございますか? |
久蔵 | あいよ、あいよ |
先生 | うん、その調子だ |
久蔵 | たけのうち! |
先生 | おい、そう何回もやるんじゃないよ、往来でみっともない。さ、話しゃ早いや。ここがもう吉原だ。あそこに見える店がな、あたしの馴染みの御茶屋だからね。これは断っとくけどね、花魁がご都合が悪かったら、これはだめだからね、先にお客がいるとか、そういう時は次の約束をして帰るだけだ。 |
久蔵 | はあはあ、するとなんですか、今日は願書だけ出して、受付は後日ということで |
先生 | 役所じゃないんだよ。まあまあ、あたしに任せておきな |
というので、御茶屋に入りますとね、馴染みの先生でございますから、お茶屋のほうでも取り巻きが、すぐにお客にしてあげてくれまして、これからすぐに三浦屋の方にご都合を伺います。これも江戸時代の花魁と言うのは大変なものですな。御茶屋から手紙を出すんです。これこれこういうお方がこられまして、間違いの無いお方でございます、ご都合はいかがでしょうか、とまことに丁寧な手紙を出します。運のいいときというのはこんなものですな、高尾花魁のところにお客がみえてたんですが、急用ができてお帰りになった。花魁、今夜はお身体が開いております、どうぞお越しくださいまし、という返事でございます。
それじゃさっそく三浦屋へ...と言うわけにはいかないんですな。そこの御茶屋でいっぱい飲んで騒がなきゃならない。セットものを取るんですが、セットと申しましても、ビール小瓶と御つまみで三千円...というようなそういうセットじゃないんです。
当時のセットと申しますと、まず芸者衆が二人、幇間が一人、この三人でワンセットなんですな。で、これをふたセットくらいとります。にぎやかになりますな。芸者衆が「御大尽、こんばんわ」なんて入ってくる、その後で幇間が
「ィヨッ、御大尽!! ヘッヘッヘッ、どうも、いやぁ、目出度いッ!」
と、何が目出度いんだかわかりませんが。一杯入ると、三味線が鳴って、
「さあさあ、浮いた浮いた、瓢箪ばかりが浮きものか、あたしもちか頃浮いてきた、さーさ、やーとやーと、うぇぇぇぇぃ」
と大変な騒ぎで。
ひと騒ぎしますてぇとお提灯をつけまして、三浦屋へと送られて参ります。三浦屋の方では御大尽がお越しということで、主が敷き台に手をついてお迎えをするという、上首尾ですな。ここまでくるてぇと、先生の方は用はありませんから、中ノ町の方へ帰って休んでおりまして、久蔵さんだけ花魁の部屋へ通された。
なにせ、当時、飛ぶ鳥を落とすような勢いの花魁の部屋ですから、そのきらびやかなこと。ものの本によりますと、中の間の積み夜具は錦の小山のごとく、一面のことは遥かに滝を眺むるに似たり。囲いの上がまは松風の音かと驚き、衣更の小袖は楓の紅葉したるがごとし、ってんですから、大変なものですな。そんなとこにきちゃったから、借りてきたネコどころじゃないですよ、えぇ、焼け付いたコンクリに放り出されたメメズみたいにね、久さん、コチコチになっちゃった。
そこへね、番頭、新造ってえのがやってきてね、「ぬし、ぎょしなまし」とこうきたんですが、そんなこと言ったってわかりゃしませんよね。「久蔵ッ、寝ちまえッ!」って言ってもらえりゃよくわかるんですがね。
久蔵 | え、え...な、なんです、ぎょぎょっ...って |
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高尾 | 寝なまし |
久蔵 | え、ど、どこへです? |
高尾 | こちらざます |
って指された布団は、当時の吉原、どんな偉い人が行っても初めは敷布団二枚しか敷いてくれない。これが馴染みになってくると三枚敷いてくれたそうですな。もっとも、二枚って言っても、一枚の厚さが二尺ってンですから、これが二枚、大変な高さで、
「すいません、はしご貸してくださーい」
えらい騒ぎです。
布団に座って待っていると花魁がかむろに手を控えて入ってくる。枕元に座る。花魁坐りと言って、お客にはすっかいになって、横顔を見せて座ります。なぜ横顔を見せるかといいますと、横から見ると鼻が高く見えますからな。横から見ても見えないような鼻ってぇものはありませんからな。
花魁、吸いつけ煙草というやつで、銀の延べのキセルに煙草を詰めて火をつけると久さんに差し出した。久さんは煙草なんか吸ったこたぁないけれど、出されたものを遠慮しちゃいけないとおもうから、一所懸命すいながら、花魁の顔をまじまじ見て、スパスパ、スパスパ夢中で吸っている。キセルを返すと吸殻をポンと捨てて、花魁がお世辞を言うわけですね。
高尾 | よう来なました。今度はいつ来てくんなます |
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と、こう来たんですよ。こりゃぁ、感じがでますなぁ。
「あーら、よく来たわねぇ、今度、いつ来んのよ!」
なんて言われるよりゃぁ、
「よう来てくんなました。いつ来てくんなます?」
人間、なまされちゃうんですからね。それ聞いた時に、久蔵さん、紺屋の職人ですからねぇ、
「あさって来るよ」
くらいなこと言えば洒落てるんですが、そんなこと言える人じゃありません。
「いつ来てくんなます」
と言われたとたんに、大粒の涙をボトボトボト...と流して、
久蔵 | う、うぇぇぇぇ |
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高尾 | まあ、ぬし、どうしなました。おなかでも痛いんざますか? |
久蔵 | そうじゃねぇんで、花魁、今度来るには三年経たないと来られないんです |
高尾 | まぁ、三年も?? ぬし、小菅の拘置所にでも入るんざますか? |
久蔵 | いえ、花魁、あの、ハッキリ申し上げると、あっしゃね、御大尽でもなんでもない、紺屋の職人の久蔵ってぇもので、三年前に花魁の姿を見て恋患いンなって、いっそのこと死んでしまおうと思っていたところが、お玉が池の先生が十両の金を貯めたら会わせてやる... お恥ずかしいが、あっしゃ、年に三両しか稼げません。三年のあいだ金を貯めて、親方に一両足してもらってやっとのことで十両の金を作って、やっとのことで花魁に会うことができたんですが、今度会うにはまた三年働かなきゃなんないがも、その間に花魁がどなたかに引かされてしまったら、もう生涯会えねぇ...そう思ったらもう悲しくて...涙が出ました。どうぞ、ご勘弁くださいまし。 |
と、この話しをうつむいてじっと聞いていた花魁が、ホロホロッと涙を流した。源平藤橘市井に枕を交わすこの卑しい身を、一筋に思って、三年も汗水たらして働いた金を、一晩で費やそうとなさる、なんと言う情のあるお方なんだろう、この方に沿ったなら、病み患ったとしても捨てられるようなことはあるまい、とこう思ったわけですな。
高尾 | ぬし、それはほんとのことざますか? ほんとならば、あちきはぬしにお願いがあるざます。来年の二月の十五日にあちきは年があくほどに、あちきはぬしをたずねていきんすが、あちきのようなものでもおかみさんにしてくんなますか? |
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久蔵 | えぇ? そんなウソ言っちゃ... |
高尾 | なんのうそを申しましょう! あちきのようなものをおかみさんにしてくんなますか? |
久蔵 | うぇぇ、くんなます、くんなます!! うぇぇ、花魁がおれの女房になってくれるんなら、おれぁ、命がけで花魁大事にするよ!! |
久蔵 | そしたらもうひとつのお願いは、二度ともう吉原へはきてくんなますな。今晩の勘定はわちきがよいようにいたしますから、その十両は持って帰って焼酎でも呑んでくんな... |
とは言わないでしょうが、今晩の約束に、と香炉、お香を入れるきれいな入れ物の蓋をあちきだと思って大事に持っていてくださいまし。あちきは身の方をぬしだと思って大切にいたします、という約束ができた。その晩はだんな様のもてなしですな。翌朝は花魁が自ら門のところまで送りに出てくれるという上々の守備。飛んで帰ってきた久さん。
久蔵 | ハハッ、親方ッ! |
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先生 | おう、久蔵か。えらく早いな |
久蔵 | へい、遊びに行って遅れちゃいけねぇと思って、早く帰って来ました |
先生 | で、どうだったよ、夕べは。振られたろ |
久蔵 | へ? |
先生 | 振られたろ? |
久蔵 | 夕べ? いいお天気でしたよ |
先生 | なにを言ってんだよ、花魁にろくな扱いを受けなかったろってぇんだよ |
久蔵 | へっ、ンなことを、だから素人は困らぁ! |
先生 | なんだ、素人たぁ |
久蔵 | へへっ、花魁と初めて会うのを初回ってんですよ、初回から花魁が惚れた。初回惚れのベタ惚れ。へへっ、初回惚れのベタ惚れで、来年二月の十五日にはテケレッツのパッ! |
先生 | なんだ、こいつは。お玉が池の先生はどうした? |
久蔵 | あ、吉原に忘れてきちゃった |
先生 | 薄情な野郎だな。まぁ、しっかり働きな。 |
久蔵 | へーいっ! |
これから久さん、来年二月の十五日、二月の十五日ってんで、仕事も何もうわの空ですな。さて、二月の十五日になりますというと、長兵衛さんの店先に真新しい四つ手籠がトンと止まりまして、
若い衆 | こちらに久蔵さんという若い衆さんがいらっしゃいますか |
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長吉 | へい、おりますが |
若い衆 | ああ、そうですか。花魁、こちらだそうでございますよ |
垂れをめくりますと、スッと降り立ったのは高尾花魁の元服姿。髪を丸髷に結い直しまして、年が明けましたら歳は二十七ですな。派手な赤い手柄も恥ずかしい、地味ないでたちで立ち上がったんですが、さすが一世を風靡した花魁ですな、美人画から抜け出したような立ち姿。
高尾 | あの、中から高尾が来たと、久はんに伝えてくんなまし |
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長吉 | エーーーッ!! おまはんがですか!? 親方ぁっ! |
親方 | なんだ、長吉、どうした!? |
長吉 | これは二月の十五日ィィッッ! |
親方 | なんだ、あいつにまで感染っちゃったよ |
親方の仲人で夫婦になりまして、末永く暮らしたという、紺屋高尾の一席でございました。
引用元:「東西落語特選」
http://www.niji.or.jp/home/dingo/rakugo2/
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